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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

ジョン・フィールド

偶然にユーチューブで聞いたのだが、実に素晴らしい作曲家である。ショパンへの影響は明らかに大きい。つまり、彼がいなければショパンも存在しなかっただろう。

(以下引用)

ジョン・フィールド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ジョン・フィールド
John Field
John field.jpg
基本情報
生誕 1782年7月26日
アイルランド王国の国章 アイルランド王国 ダブリン
出身地 イギリスの旗 イギリス ロンドン
死没 1837年1月23日(54歳没)
ロシア帝国の旗 ロシア帝国 モスクワ
ジャンル クラシック音楽
職業 作曲家
ピアニスト
担当楽器 ピアノ

ジョン・フィールド(John Field, 1782年7月26日 - 1837年1月23日[1])は、19世紀の初めに活動したアイルランド作曲家ピアノ奏者で、「夜想曲」(Nocturne)の創始者としても知られる。「夜想曲」を一つの音楽ジャンルとして確立させ、フレデリック・ショパンらに影響を与えた。また、モスクワサンクトペテルブルクに長く滞在して作曲・演奏活動を行い、後に『近代ロシア音楽の父』と呼ばれることになるミハイル・グリンカを指導するなど、ロシア音楽の発展にも大きく寄与した。

生涯[編集]

ダブリンに生まれたフィールドは、ヴァイオリン奏者の父にピアノの手解きを、また、教会のオルガン奏者であった祖父から音楽の基礎を学んだ。9歳の時に彼はピアノ奏者として世間への初登場を果たしたとされ、 1792年から トンマーゾ・ジョルダーニ(Tommaso Giordani、1730 - 1806)の指導を受けた。

1793年、11歳のフィールドは、家族と共にロンドンに移住、作曲家でピアノの製造も手掛けていた ムツィオ・クレメンティのもとで学んだ。17歳の頃には、彼の最初のピアノ協奏曲の初演が行われていたといわれており、1801年に彼の最初のピアノソナタ集が出版され、この頃から作曲家としての活動が盛んになった。

1802年7月に、彼はクレメンティと共にヨーロッパを回り、パリウィーンなど各地で名声を博した。その後、クレメンティに連れられてロシアサンクトペテルブルクへ移り、彼は1803年6月にクレメンティが去った後も、この地に留まり演奏家として、また、ピアノの指導者としての活動を続けた。1804年に最初の交響曲を初演し、その後もロシア各地の貴族社会から熱烈に歓迎され、一時は「フィールドを知らないことは、罪悪である」とまで評されていたとされる。

1810年、28歳のフィールドはモスクワでの教え子の1人であったアデライデと結婚し、1819年に エイドリアン・フィールド を授かる。1815年にはフランス女性と不倫し男児 レオン・シャルパンティエ をもうけており、レオンは後にピアノ奏者となり、父と共に演奏旅行をしている。フィールドにとって、この頃が人生の絶頂期であり、この頃の教え子の1人に後に作曲家として知られる ミハイル・グリンカがいた。

フィールドは、サンクトペテルブルクとモスクワとを行き来する生活を続けていたが、1821年、43歳の時にモスクワへ移り住んだ。この後の10年間はアルコールに溺れ身体を壊し、また、直腸癌も患い手術も行った。1831年に癌の治療も兼ねてロンドンを訪れ、1832年から翌年にかけてはパリで過ごした。その後、ベルギースイスイタリアへと演奏旅行を続けるが、体調不良から往時の面影は失せ生活も窮乏、ロシアの貴族 レイマノフ家 の助力でモスクワに戻り1837年に亡くなった。

彼の書いた、それまでの形式にとらわれない単一楽章のピアノ作品、夜想曲(ノクターン)は、ショパンに大きな影響を与え、また、後のメンデルスゾーンシューマンリストグリーグら、ロマン派作曲家の作品の先駆けとなった。また1808年、26歳の時にモスクワで出版したピアノ連弾曲イ短調は、ロシアの民謡を取り入れたものであり、当時としては珍しいものであった。

主な作品[編集]

夜想曲[編集]

  • 第1番 変ホ長調 (1812年)
  • 第2番 ハ短調 (1812年)
  • 第3番 変イ長調 (1812年)
  • 第4番 イ長調 (1817年)
  • 第5番 変ロ長調 (1817年)
  • 第6番 ヘ長調 (1817年)
  • 第7番 ハ長調 (1821年)
  • 第8番 イ長調 (1821年)
  • 第9番 ホ長調 (1816年)
  • 第10番 ホ短調
  • 第11番 変ホ長調 (1833年)
  • 第12番 ト長調 (1834年)
  • 第13番 ニ短調 (1834年)
  • 第14番 ハ長調 (1835年)
  • 第15番 ハ長調 (1834年)
  • 第16番 ヘ長調
  • 第17番 ホ長調 (1832年)
  • 第18番 変ロ長調 「真昼」
    注: これらの番号は出版社により異なっており、一意なものでは無い。第8番と第9番は最初、「ロマンス」の題で発表されたが、後に作曲者自身によって改題された。また、「真昼」は、本来は夜想曲ではなかったが出版社によって「夜想曲」と題されたとされる。フィールドの作曲した夜想曲の正確な数は、はっきりしていない。

ピアノソナタ[編集]

  • 第1番 変ホ長調 Op.1-1(1801年)
  • 第2番 イ長調 Op.1-2(1801年)
  • 第3番 ハ短調 Op.1-3(1801年)
  • 第4番 ロ長調 (1813年)

その他のピアノ独奏曲[編集]

  • ロマンス ハ短調
  • パストラール イ長調 (1816年)
  • パルトラール ホ長調

ピアノ協奏曲[編集]

  • 第1番 変ホ長調 (1799年)
  • 第2番 変イ長調 (1811年)
  • 第3番 変ホ長調 (1811年)
  • 第4番 変ホ長調 (1814年)
  • 第5番 ハ長調 「嵐の中の火事」(1817年)
  • 第6番 ハ長調 (1819年)
  • 第7番 ハ短調 (1822年)
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「フォートトーク」についてのメモ

単なるメモだが、これからは既存SNS以外のネットワークの確立が重要だろう。つまり、既存SNSとはDSにコントロールされた媒体だからだ。

(以下「苫米地英人」ツィッターから転載)

フォートトーク( appsto.re/jp/w_kgib.i )はZoomと同等レベルのビデオ動画発着信も内蔵。全機能完全無償。
引用ツイート
苫米地英人
@DrTomabechi
·
フォートトーク( appsto.re/jp/w_kgib.i )は完全無償。100%国内開発、国内サーバ。一切個人情報にアクセスしない、利用しない。次世代VPN機能で他アプリもセキュア化。28ヶ国後双方向通訳や読み上げも内蔵 RT今、アカウント作りました目が笑っている笑顔 苫米地先生ありがとうございますキラキラ

授業で教えないことをテストに出す「学校教育」は児童虐待ではないか

大人のほとんどには興味の無い話題かもしれないが、学校生活の中で今を生きている中学生たちには一生に関わる問題である。ここで落ちこぼれたために、進路が大きく変わる可能性があるわけだ。

(以下「紙谷研究所」から転載)

英語の授業が変わった?

  

 日経新聞2021年9月28日付の「受験考」の欄に「ついていけず悩む生徒」という題名で次のような記事があった。

 中学の英語についていけなくなった中2のA子が塾で中1段階の文法の基礎から丁寧にやり直してどうにか持ち直してきた矢先、中3になって再び状況が一変した。

英語の先生は同じ人だが、授業スタイルが大きく変わったという。

 同じ先生が、生徒が戸惑うほどの変わりようを見せるものだろうかと思い、興味深く先を読み進める。

 学校の授業の流れはまず英語の歌を歌い、英単語ビンゴをする。そしてチャット(2人1組で決まったフレーズを言い合うが、細かな発音指導などはしない)。さらに教科書本文の音声を聞き、簡単な和訳を教師が言う。これで授業終了。

 教科書本文はおろか受動態や現在完了形といった文法の丁寧な解説はない。しかも授業自体が英語で行われるので、A子はついていけなくなった。

 思い当たるフシがぼくにもあるのだが、娘に授業の変化を確認していないのでよくわからない。しかし、教科書を見せてもらった時、会話だらけで、文法の記述を探すのが一苦労だった記憶がある。いや、しかしそれは今年の変化だっただろうか。はっきりと覚えていない。

 

 

 つれあいは、「娘のテスト結果を見ると、厳格な語順などを要求されている。しかし、もしコミュニケーションだけを重視しているなら、おかしい」と首をひねっていた。

 確かに2学期頭の娘のテストは英語が芳しくなかった。

 間違っている箇所をみると、うっすらと文法の基礎が理解できていないような感触、崩れかけている印象がある。

 

 思い過ごしであろうか。

 確認してえ…。

  •  Buchicat

    私の子供は中3ではなく中1ですが、学校の英語に危機感を覚えています。
    親は授業を聞いてないのでテストの出来で判断するしかありませんが、勉強の割に直近の定期テストで英語だけが点数を取れていませんでした。これまでは学校の授業でほぼ満足のいく点数を取れていたので、驚きました。
    子供の話と、できていない箇所から推測すると、どうやら「文法を教え込む」「単語を覚えさせる」ような授業や演習はしていないようです。「話す」「聞く」が中心になっているような印象です。おまけに今の中1は、小学校までの英語学習で出てきた単語を「読めて」「書ける」前提で進められているようです。小学校では単語のスペル練習などほとんどしませんでしたので、この辺は大きなギャップがあります。授業は「話す」「聞く」が中心なのに、定期テストでは「読む」「書く」しかも文法に則ったものが要求されています。
    うちの子に限った話かもしれませんが、文法演習と単語練習は授業・宿題のほかに、家庭学習で手当てする必要があることを実感しています。

  •  紙屋高雪 (id:kamiyakenkyujo)

    おお、その状況すごく既視感があります。やっぱりという感じです。

    とはいえ、ご指摘のように学校ごと、地域ごと、という差なのかもしれないので、いろんな人に確認してみたいですね……。

国柱会

私の好きな宮沢賢治について、非常に気になるのが、彼が日蓮宗の教徒で国柱会会員だったらしいことだが、石原莞爾と、宮沢賢治という大物ふたりが会員だったことで、国柱会という存在が非常に意味ありげに思われる。或る種の「世界的把握」あるいは「宇宙的想像力」というのが日蓮宗、あるいは法華経の中にはあるような気がする。まあ、宮沢賢治は「銀河鉄道の夜」の中にキリスト教的思想も書いており、エスペラントに興味を持つなど、必ずしも仏教に凝り固まっていたとは思わない。

(以下引用)


国柱会の名称は、日蓮の三大請願の一つ「我日本の柱とならん」から智学によって命名された。独立した宗派としての正式名称は「本化妙宗」。 また、智学の造語であり、戦前日本では国家主義スローガンとして多用された「八紘一宇」を最初に標榜したのは国柱会であった。「日蓮主義」という表現も、国柱会によって初めて使われた。「主義」という概念が、明治以降に流入した西洋哲学に由来するものであり、後述のように日蓮主義という概念は、日蓮教学の近代的体系化の一端を表している。

思想・信仰[編集]

国柱会の根本の理念は、寺檀制度によって形骸化した伝統宗門の改革と近代化を在家主義の立場から目指すものである。

教学における国柱会の功績は、現在でも「師子王文庫」や「真世界社」などに引き継がれている。分派した各法華宗・日蓮宗宗派の統一、更には法華一乗のもと全宗派、全宗教の統一(一天四海皆帰妙法)のための宗教革命、ならびに皇祖皇宗の日本国体を法華経のもとに体系化することを究極の目標としている。

更には、智学の思想による「全国の神社に祀られる主神はすべて皇祖神に統一されるべき」という主張や、法要時の礼服祭壇の祀り方、数珠を一切用いない、など神道的な要素を強く残しており、法華神道の団体としての色彩も強い。

なお、本化妙宗としての信仰は、釈尊教祖日蓮宗祖と仰ぎ、本尊は日蓮大聖人の「佐渡始顕の妙法曼荼羅」としている。

歴史[編集]

創始期[編集]

智学が日蓮宗の宗義に疑問をいだき、還俗して最初に設立したのが「蓮華会」という組織である。1880年(明治13年)、横浜において結成され、国柱会のさきがけとなった。その後、東京進出にともない1884年(明治17年)に名称を「立正安国会」に改名。「宗教ヲ以テ経国ノ根本事業トスベシ」と宣言し、在家主義の立場から仏教の近代化を目指した。

1902年(明治35年)、日蓮仏教の教学を組織体系化した「本化妙宗式目」を発表し、1903年(明治36年)より大阪などで日蓮門下各教団の僧侶を集めて本化妙宗研究大会を開催。智学はその中でも神武天皇御陵前での講演「皇宗の建国と本化の大教」において、日蓮仏教の国教化を目指す王仏冥合思想を宣言した。

国柱会へ改称以降[編集]

1914年大正3年)、名称を現在の「国柱会」に改称。1922年(大正11年)には芸術を通しての教化活動と銘打って外郭団体「国性文芸会」が組織され、日本国体に基づく独自の「国性芸術」を展開した。

1923年(大正12年)には議会政治に参画する目的で「立憲養正会」が結成され、国立戒壇建立を主張、天皇の法華経帰依による広宣流布、宗教革命を目指した。1929年(昭和4年)には智学の次男・田中澤二が総裁に就任。澤二は前年の第16回衆議院議員総選挙に立候補し落選、澤二の議席獲得はならなかった。しかし1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙に同会公認で立候補し落選した田中耕が同年繰り上げ当選し、初めて帝国議会に議席を獲得した。田中耕は1937年(昭和12年)の第20回衆議院議員総選挙にも立候補し再選。地方議会や農会には最盛期で100人を超す議員が所属した。同会は新体制運動大政翼賛会には批判的であったため、1942年3月17日結社不許可処分を受け、解散に追い込まれた。

1926年(大正15年)には明治節制定の請願運動を契機に外郭団体「明治会」が創設され、愛国主義運動を宣揚、1927年(昭和2年)に請願が実り明治節が制定された。

また、著名な会員であった帝国陸軍石原莞爾中将の「東亜連盟」構想や「世界最終戦論」、更には石原が参謀であった満州国建国の思想的バックボーンとして、国柱会の思想は多大な影響を及ぼした。特に満州国には皇軍慰安隊を国柱会より派遣し、関東軍軍人を支援している。この時期が国柱会の歴史上もっとも活況だった時代であり、日蓮系諸教団の中でもエリート主義集団と目されるほど、有数な著名人が会員であったことで知られる。




「大審問官」とジュズイット

「カラマーゾフの兄弟」の中でローマ・カトリック教会、特にジュズイットが批判され、フリー・メイソンとの類似性が書かれているのだが、ジュズイットについての簡単なメモである。
まあ、要するに、ローマ・カトリックの最右派、法王絶対主義的な存在と言える。ドストエフスキーから見れば、ローマカトリックはキリスト精神の捻じ曲げであり、ローマ法王は「キリストの権威の簒奪者」であるわけだ。つまり、「大審問官」とはローマカトリックそのもの(象徴的人格化)だと言えるだろう。


(以下引用)


弾圧と復興[編集]

ヨーロッパ諸国がナショナリズムを強め、王権のもとに国をまとめていこうとしたとき、国境を越えて自由に活躍し、教皇への忠誠を誓うイエズス会の存在が目障りなものとなっていた。イエズス会への弾圧は18世紀になると急速に進み、ポルトガルがイエズス会員の国外追放を決めるとフランス、スペイン、ナポリ王国、両シチリア王国、パルマ公国もこれにならった。列強は教皇クレメンス13世にイエズス会を禁止するよう圧力をかけたが、教皇は頑として聞き入れなかった。だが、イエズス会を保護し続けたクレメンス13世が急逝し、次の教皇としてクレメンス14世が着座すると圧力はいっそう強まり、教皇はイエズス会をとるか、ヨーロッパ諸国と教皇庁との関係をとるかという究極の選択を迫られることになった。

このような経緯を経て1773年7月、クレメンス14世は回勅『ドミヌス・アク・レデンプトール (Dominus ac Redemptor)』を発してイエズス会を禁止した。ただロシアにおいて、イエズス会の貢献を高く評価していたエカテリーナ2世がイエズス会禁止の回勅の発布を拒否し、教皇も「列強の圧力に屈しはしたもののイエズス会を完全につぶすのはしのびない」と思っていたため、イエズス会はロシアにおいて細々と存続しつづけることができた。また、プロイセン王フリードリヒ2世も自国へのイエズス会士の亡命を許可し[7](彼は数年後、「我が国には、イエズス会士以外に学識のあるカトリック教徒はいない」とさえ言うようになる)、カトリック系の学校の教師として歓迎している。

1814年に教皇ピウス7世の小書簡『カトリケ・フィデイ』によってようやくイエズス会の復興が許可された[8]。復興後のイエズス会は急激な成長を遂げた。そのことは多くの学校が19世紀に設立されたという事実からもわかる。たとえばアメリカ合衆国にある28のイエズス会大学のうち22はこの時期に創立されたか、あるいは他から引き取ったものである。弾圧を受けたことで、イエズス会の中で正統な権威というものに対するこだわりが強まったという指摘もある。もちろんこの指摘に対しては異論もあるが、概してイエズス会員には教皇への忠実という意識が強く存在し、19世紀にウルトラモンタニスム(教皇支持派)と呼ばれた人々の中に名を連ねたものも多く、第1バチカン公会議における教皇不可謬説の宣言の理論的枠組みをつくったものもいた。

スイスでは19世紀に起こったカトリック諸州とプロテスタント諸州の間の紛争の後、1848年憲法によってイエズス会の禁止が決定された。この禁止令は1973年5月20日に、国民投票によって廃止が決議されるまで存続した。

20世紀はイエズス会にとって発展と衰退の両面を示す世紀となった。カトリック教会全体の趨勢に従ってイエズス会員の数は1950年代にピークを迎え、以後ゆるやかに減少していった。会員が減少したにもかかわらず関連施設は増加し、協力者会の会員数も増えた。20世紀の著名なイエズス会員の中には「第2バチカン公会議のデザイナー」とも呼ばれるジョン・コートニー・マレー英語版がおり、彼は同会議の文書の一つ「信教の自由に関する宣言英語版」の草稿を書いたことで知られる[9]