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青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳
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ジョン・フィールド John Field | |
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基本情報 | |
生誕 | 1782年7月26日![]() |
出身地 | ![]() |
死没 | 1837年1月23日(54歳没)![]() |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 作曲家 ピアニスト |
担当楽器 | ピアノ |
ジョン・フィールド(John Field, 1782年7月26日 - 1837年1月23日[1])は、19世紀の初めに活動したアイルランドの作曲家、ピアノ奏者で、「夜想曲」(Nocturne)の創始者としても知られる。「夜想曲」を一つの音楽ジャンルとして確立させ、フレデリック・ショパンらに影響を与えた。また、モスクワとサンクトペテルブルクに長く滞在して作曲・演奏活動を行い、後に『近代ロシア音楽の父』と呼ばれることになるミハイル・グリンカを指導するなど、ロシア音楽の発展にも大きく寄与した。
ダブリンに生まれたフィールドは、ヴァイオリン奏者の父にピアノの手解きを、また、教会のオルガン奏者であった祖父から音楽の基礎を学んだ。9歳の時に彼はピアノ奏者として世間への初登場を果たしたとされ、 1792年から トンマーゾ・ジョルダーニ(Tommaso Giordani、1730 - 1806)の指導を受けた。
1793年、11歳のフィールドは、家族と共にロンドンに移住、作曲家でピアノの製造も手掛けていた ムツィオ・クレメンティのもとで学んだ。17歳の頃には、彼の最初のピアノ協奏曲の初演が行われていたといわれており、1801年に彼の最初のピアノソナタ集が出版され、この頃から作曲家としての活動が盛んになった。
1802年7月に、彼はクレメンティと共にヨーロッパを回り、パリやウィーンなど各地で名声を博した。その後、クレメンティに連れられてロシアのサンクトペテルブルクへ移り、彼は1803年6月にクレメンティが去った後も、この地に留まり演奏家として、また、ピアノの指導者としての活動を続けた。1804年に最初の交響曲を初演し、その後もロシア各地の貴族社会から熱烈に歓迎され、一時は「フィールドを知らないことは、罪悪である」とまで評されていたとされる。
1810年、28歳のフィールドはモスクワでの教え子の1人であったアデライデと結婚し、1819年に エイドリアン・フィールド を授かる。1815年にはフランス女性と不倫し男児 レオン・シャルパンティエ をもうけており、レオンは後にピアノ奏者となり、父と共に演奏旅行をしている。フィールドにとって、この頃が人生の絶頂期であり、この頃の教え子の1人に後に作曲家として知られる ミハイル・グリンカがいた。
フィールドは、サンクトペテルブルクとモスクワとを行き来する生活を続けていたが、1821年、43歳の時にモスクワへ移り住んだ。この後の10年間はアルコールに溺れ身体を壊し、また、直腸癌も患い手術も行った。1831年に癌の治療も兼ねてロンドンを訪れ、1832年から翌年にかけてはパリで過ごした。その後、ベルギー、スイス、イタリアへと演奏旅行を続けるが、体調不良から往時の面影は失せ生活も窮乏、ロシアの貴族 レイマノフ家 の助力でモスクワに戻り1837年に亡くなった。
彼の書いた、それまでの形式にとらわれない単一楽章のピアノ作品、夜想曲(ノクターン)は、ショパンに大きな影響を与え、また、後のメンデルスゾーン、シューマン、リスト、グリーグら、ロマン派作曲家の作品の先駆けとなった。また1808年、26歳の時にモスクワで出版したピアノ連弾曲イ短調は、ロシアの民謡を取り入れたものであり、当時としては珍しいものであった。