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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

欧州の雨

ジリオラ・チンクエッティの「la pioggia」は、まるで雨の風情の無い「行進曲」風の歌だが、イタリア語の「ラ・ピオッジャ」も雨の風情が無い響きの言葉である。
ちなみに、スペイン(spain)では雨(rain)は主に(main)平地(plain)に降るというが、それはどんな雨か。

AI による概要
「la pioggia(ラ・ピオッジャ)」はイタリア語で「雨」を意味する言葉です。また、イタリアの歌姫ジリオラ・チンクエッティ(Gigliola Cinquetti)のヒット曲のタイトルでもあります。
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「お洒落」な人生

昔、予備校で現代国語などを教えていた時、須賀敦子の文章が入試問題にやたらに出てきて、「この女、何者だ?」と思ったが、外国暮らし(それも上級国民や文人、芸術家周辺)が長い女性への憧憬と賛嘆がその土台だったかと思う。作品自体は、その異国情緒が雰囲気を作っているが、ありふれた随筆に思えたが、その「知的お洒落さ」が受けたのだろう。だが、西洋が完全に没落退廃した今の時代に彼女の随筆を読む人がいるだろうか。あるいは、「こういう時代もあったのだ」と、たとえばアメリカの「ローリング20’s」を懐かしむように、また読まれるかもしれない。

(以下松岡正剛の「千夜千冊」から転載)

 須賀敦子は『ミラノ 霧の風景』(白水社)を出したとき61歳になっていた。それまでに彼女が呼吸してきた瑞々しいガイコク感覚は、べつだん本を出さなくたって存分に周囲に放射されていたのだが、この一冊によってわれわれも須賀敦子の呼吸の奥にある言葉による再生感覚を知ることができ、彼女も翌年からたてつづけにその才能を本にする機会に恵まれた。
 そういう女性はいろいろなところにいるものだ。彼女たちは、すばらしい人生をおくりながらも一冊の本も書かないことが多いけれど、たいていはある領域の文化をみごとに動かしている。そういう女性がいなければ、その界隈の文化の花は咲かなかったであろうような、そんな役割を思わず知らず担っている女性たちである。ぼくはなぜか、そういう女性によく出会う。須賀敦子もそのような一人だった。
 阪神文化に育ち、聖心女子大から慶應大学院に進んだ須賀は1753年にパリに留学、5年後にはイタリアへ再留学したのちミラノに入った。31歳のころである。それから10年以上にわたってのミラノ暮らしがはじまる。そしてミラノの都心にある一軒の不思議な書店にまぎれこむ。本書は、そういう須賀が63歳のときに懐かしくも香ばしいミラノの日々を回想して綴った珠玉の一作だ。
 須賀は本書の最後にこう書いている。「コルシア・デイ・セルヴィ書店をめぐって、私たちは、ともするとそれを自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を思い描いた」。そして、こう結んでいる。「若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う」と。

[追記]須賀敦子は1960年にジュセッペ・リッカ(みんなペッピーノと称んでいた)と結ばれて、ミラノに棲みはじめたのだが、7年後に死別した。コルシア書店に勤めたのは6年ほどだ。日本に戻ってからカルヴィーノ、タブッキ、サバなどを訳し、いくつかの大学でイタリア語を教えた。2014年、須賀敦子翻訳賞が設けられた。

一刀両断

「はてな匿名ダイアリー」記事で、このスレッドでコメントが500くらいついている異常なスレだが、無数のコメントをたった一言で撃破したコメントが面白いので、それを、少し間隔を開けて載せる。そのコメントが予測できたら偉い。

(以下引用)

2025-03-05

エンジニアってなんか性格悪い人多くね?

WEBページ制作進行兼営業仕事をしている

クライアントから「こういうWEBページを作りたい」「このまえ作ってもらったWEBページのここを直したい」といった要望を聞き、これを取りまとめてエンジニアデザイナー発注、納品されたものクライアントに渡すという仕事

で、この仕事をやっていて思うんだけどエンジニアって性格終わってる人多くね?

営業WEBデザイナーといった他業種にはない独特の性格の悪さがあると思う

エンジニア連中は頑固で融通が利かないしものの言い方が高圧的

心理的安全性?なにそれ?」ってレベル言葉遣いしまくってくる

一方で社内のデザイナーさんの方はそんなことないんだよな

一体この差はなんなんだろう

最近あった具体例だと中途で入った新人さんが初発注するとき

一応規定テンプレートに沿って発注書を作ったんだが受け持った案件ちょっと特殊であることがあとからわかって、仕様を詰められていない箇所があった

で、発注後にエンジニアの統括がチャット

お疲れ様です。

先程いただいた発注書について確認をお願いいたします。

資料〇〇ページの〇〇の部分について〇〇が不足してます

資料〇〇ページの××について〜〜を定義してください

(以下箇条書き10数個)

言葉ですが最終チェックはされましたでしょうか?

エンジニアチームとしては上記指摘箇所が解消されないと業務を始められません。

よろしくお願いいたします。



これくらいのことを送ってきやがった

名指しで送られてきたものから新人さんもパニックで「すみませんなんか〇〇さんが怒ってます!」って泣きついてくるし、何ならエンジニアチームに苦手意識を植え付けられた感じだった

流石にあまりにもな文面だったから後ほど個別チャットで「新人さんに対してあの文面はないでしょう「もうちょっと配慮してよ、新人さん怖がるよ」「せっかく入ってきた新人を潰したいのか」って内容をきちんとした丁寧語に直して送信したら、

ご指摘いただいた件ですが、開発部としては営業部の教育には関知できません。

先の文面についても仕様漏れを指摘しただけで特に問題ない認識です。

〇〇(新人名前)さんに対して必要フィードバックがあれば営業からお願いいたしま


って回答になってない回答を寄こしてきやがる

とにかく話が通じない

ちょっとでも情緒的な事情が入ってくるとこちらをシャットアウトしてくるんだよな

これが仮にデザイナーチームへの発注だったらそんなことはないんだよ

きっとチャットで「すいません〜確認したいことがあるので席伺ってもいいですか?」ってきてから口頭で「いや〜今回作るのって仕様特殊なのでこのあたりの情報が欲しいんですよね〜」「すみませんがここだけ情報追記お願いできますか?」「新人さんなのにすごいめんどい案件受け持っちゃいましたねw」「追加の情報いただいたら次営業日には仮バージョン上げられます!」「頑張ってくださいね!」くらいのにこやかなコミュニケーションはしてくれただろう

(っていうか過去そうやって似たような案件フォローしてくれた実績がある)

こんな調子から社内においてエンジニアチームに対しては割と腫れ物を触るような対応になっている

何なら他部門と若干敵対しているような空気さえ流れているんだよな、同じ会社メンバーなのに

どうにもうちのエンジニア自分たち仕事定期テスト問題を解くようなものだと思っている節がある

問題文に不備があれば「せんせー!ここ間違ってます!」「なんでまちがってるんですか!ここ重要なんですけど!」「次からちゃんとしてくださいよ!」って野次ってくる感じ

社会人仕事ってそもそも問題作成のところから相互に協力し合って解決するものじゃない?違うの?

どこの会社エンジニアってこんなもんなのかな

なんか最近は嫌なことがありすぎてエンジニアの連中を同じ人間とは思えなくなってきてるんだけど

こういうの全体会議の機会とかに指摘したほうがいいのかなぁと悩み始めているよ

追記

10数カ所も指摘されるような発注書作ってるのが悪い!」みたいなこと言ってる人がいたので補足

本文に書いてある通りなんだけど新人さんが請け負った仕事特別対応必要もので、発注書も特別仕様の物を使わなきゃいけなかった

それを通常の仕様のもので送っちゃったってだけのことなのにネチネチネチネチネチネチネチネチネチネチネチネチその通常の発注書にはなくて特別仕様発注書にはある項目を指摘してきやがったって次第なわけ

それ特別仕様のやつになります!って普通に優しく言ってくれればいいでしょって話

いずれにせよやっぱりエンジニアって人として性格終わってる人が多いってのが反応を読んでよーくわかったわ

・わざわざ高圧的な物言いをしない

・わざわざ人の神経を逆撫でるようなことを言わない

・人に対して気遣いを持って優しく接する

相手感情面に気を配る

わりとこれって社会常識というか、人と人とのコミュニケーションにおいて絶対必要なことだと思うんだけどエンジニアってそういうの欠けてるんだな

いずれにせよ他部署人間が萎縮してんのは異常な状況だと思うから今度の全体会議で議題に上げるわ









(コメント)

ディレクター含め出てくる全職種兼任してるけど、新人仕事に対して確認もしてない自分を棚上げして何言ってんだ?て話。確認してこれなら新人ではなく増田ミス。他部署人間自分仕事やらせんな



何となく腹が立つ商品名

商品には「ド」は小文字で書かれていて、どう発音するのか迷うし、ワープロで打ちづらいので、ネットで見た限りではみんな「ド」を大文字で「サンテドウ」と書いている。
そして、商品では横文字で「Sante de U」と書いてある。Uって何だよ、「マンボ」の掛け声か、と腹が立つが、フランス語で「目」の意味らしいが、本当にU一字で「目」の意味か?
ちなみに、私の持っている仏語辞書には載っていない。一応他の綴りを調べると「vue」が目の意味だった。

(以下引用)


未知の言葉との出会いと再会

市民図書館で借りた「小学生までに読んでおきたい文学」シリーズの「たたかう話」の中の一編に「幽邃(ゆうすい)」という言葉が出てきて、その単語説明もあり、「景色などが静かで奥深いさま」とあったのだが、この単語に出会うのは、おそらく私には50年ぶりくらいだと思う。
最初は、永井荷風の随筆で読んだのかな、と思ったが、私が永井荷風の随筆など読むはずがない、と思い返して、たぶん、漱石門下の何とかいう作家の随筆だろう、と見当をつけた。
というのは、昭和50年代くらいに、その作家(私から見れば二流作家だが)が、なぜかブームみたいになっていて、当時の知識人の中に彼を持ち上げる人が多かったのである。
作風は、日常の現実の中に幻想的な異世界が入り込んでくるような話が多かったようで、たとえば鈴木清順(漢字はこうだったか)の「ツィゴイネルワイゼン」や、黒澤明の遺作「まあだだよ」などが彼の原作による映画化だった。
で、その一種のブームのため、私もその作家の随筆か短編を読んで、その中で「幽邃」という単語に出会って、それがどういう意味か分からず、当時は大きな国語辞書を買う余裕もなかったので、そのまま記憶の底に埋もれていたのが、図らずも50年ぶりくらいに再会して、驚いたわけである。
で、想像するに、この作品(ルーマニアの作家の短編小説)の翻訳者も、もしかしたら同じ作品を読んで、この「幽邃」という言葉に出会って、それを自分の語彙に加えたのではないだろうか。つまり、訳者の真木三三(みさ)子氏は、私とほぼ同世代の人ではないか、と想像したのである。

なお、再度思い返すと、この「幽邃」という言葉に出会ったのは、あるいは永井荷風の随筆かもしれない。その当時、古い作家に興味があり、荷風の随筆集も読んでいた可能性はある。記憶が明瞭でないことからも、さほど感心しなかったことが分かる。

(以下引用)

東欧文学好きでブルガリア文学の翻訳家である松永緑弥と真木三三子にお世話にならなかった人物はいないだろう。現代東欧文学全集の第1巻「ノンカの愛」やパーヴェル・ヴェージノフの「消えたドロテア」に、ニコライ・ハイトフの「あらくれ物語」はマジに傑作である。今すぐ図書館に行って借りてほしい。