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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「英語を読む」ための勉強法事例

「紙谷研究所」から転載。

(以下引用)

酒井邦秀監修・佐藤まりあ著『大人のための英語多読入門』

 

 英語を勉強していると書いたためであろうか、人から英語の勉強法を勧められることもある。ある人から勧められた勉強法もあるのだが、まだ読み終えていない。なので、ここでは引き続き「自己流」のものを書いていく。

 

 英文の記事を読んでわからない単語を単語帳に落としていく方式をとっていたが、たぶん同じような傾向の記事を読んでいたせいであろう、「全くわからない」という単語も少しだけ減ってきた。読むスピードも心なしか早くなり、量も増えたような気がした。

 

 そういう時に酒井邦秀監修・佐藤まりあ著『大人のための英語多読入門』を読んだ。

 

 

英語の勉強ばかりして、英語を「使わない」といつまでも使えるようになりません。素振りだけしかせずに、野球の試合やゴルフコースに出ても、さんざんな結果に終わるのと同じことです。(同書p.8)

とあるのに、揺り動かされ、もっと読んでみようと思うようになった。

 ただし、同書が勧める「多読三原則」はなかなかにシビアで、

  1. 辞書は引かない。
  2. わからない部分は飛ばす。
  3. 進まなくなった本は後回し。

というもので、2.と3.は道理があるとぼくも思ったものの、1.はキツい。同書が1.にこだわるのは「辞書を引きながら読むと『お勉強』になってしまい、『読書』として楽しめません」(p.10)という理由からだ。同書はこの原則には相当なこだわりがあり、何度もそれは説教している。さらに詳しくは展開されているのだが、ここで紹介することは省く。

 行方昭夫『英文の読み方』もやはり多読(厳密には「精読」と「多読」の並行)を進めるのだが、こちらは「ひたすら辞典を使い込む」(行方p.47)という真逆の原則を示す。

 

 

 そこでどうしたかといえば、読売や日経に載っている英語勉強のためのコーナー(英語工房・Step up English)は辞書を使う。

 しかし、次の3つは辞書を使わずに読む、ということにした。

  1. Penguin Readers(英語初心者のためのやさしい読み物)
  2. Japan Press Weeklyの記事
  3. The Guardianの記事

 

 

 1.は『大人のための英語多読入門』で紹介されていたものだが、レベル3とか4あたりだとほとんど苦痛なく、辞書なしで読める。

 『英文の読み方』でも平易な読み物を併せることは勧めている。

これは読み続ける意欲を高めるための特効薬といっていいでしょう。「自分には初級の文章は簡単すぎる」という方でも、少し行き詰まりを感じたときなど、いったん初級に戻って「多読」を試してみる価値は十分にあると思います。(行方p.18)

 オーウェルの『動物農場』とかもむっちゃ簡単な英語で書かれているので、楽しく読めた。

 

 2.は主張や報道事実をよく知っているせいであろう。これもスラスラ読める。

 3.が一番歯ごたえがある。手当たり次第、というわけにはいかないので、気候変動関連、今ならCOP26の記事ばかり追っている。電車で読むことが多いが、たいてい1記事が終わらない。

 

 そして、楽しい。

 「楽しいので続けられる」という根本原則が今のところ守られているのが大きいと思う。

 

 進歩を感じる日々なのだが、他方で、「読む」以外の機能はほとんど発達しない。

 中学生の娘に英語の宿題などを聞かれるのだが、正確に答えられない。全然英語ができないみたいな感じになってしまうので、娘から笑われる。「缶詰が必要です。なぜなら、保存がきくからです」っていう英作文を要求されるが、

「うーん…I need cans.かなあ…。缶詰ってなんだろ。それで…ええっとBecause they are keepable.か…?」

などとあやふやに答えていると、そもそもtheyで良かったのか不安になる上に、横からつれあいが「keepableってここで使うのはおかしい」と言い出すので、面目丸潰れである。

 

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議論は、まず議論の前提条件の正否を確認するのが当然

まあ、こういう「どうでもいい問題」を真面目に論じるのは嫌いではないが、問題なのは「問題の前提が事実かどうか」を確かめないで論じていることだ。
これは「酸味のあるコーヒー」の場合の話だろう。私は酸味のあるコーヒー(キリマンジャロなど)は大嫌いなので、まったく買わず、酸味のほとんど無い「コロンビア、マンデリン、モカ」を好みとするが、ブレンドでもちゃんと味の「酸味、苦み」の度合いはパッケージに書いてある。
そして、もともと酸味の少ないコーヒーは、時間が経っても酸味が強くなることはまったく無い。

(以下引用)

講義後に質問に来た学生と、なぜコーヒーは煎れて時間が経つと酸っぱくなるかについて文献検索した。小一時間の調査の結果、焙煎によって生じたコーヒーの成分クロロゲン酸ラクトンがお湯の中で加水分解してカルボン酸になるからではないかということで一件落着。私としても面白い時間になった。

後見よソワカ

某漫画家のツィートだが、年を取るとありがちなことだろう。
で、こうした物忘れがしばしば大きな事故になる。
そういう事故を防止するための呪文があって、これは幸田露伴が娘の文に教えた呪文で、自作の冗談めいた呪文だが「後見よソワカ」というのである。「ソワカ」は真言の呪文の最後に付ける言葉で「成就せよ」みたいな意味らしい。漢字では「蘇(薩)婆訶」と書くようだ。
つまり、何かをやって、次の行動に移る前に、周りを見回して、見落としが無いか確認しろ、ということである。昔の駅員は「指差し呼称」をしたものだが、今でもやっているだろうか。
とにかく、行動はゆっくり確実に、がプロの心得である。これは素人にも日常生活にも通じる。
なお、「買ってきたトートバッグ」は、トートバッグを買ってきたわけではなく、「買い物に使ったトートバッグ」だろう。短文にしようとあせるとこういう文になる。まあ、ツィッターは意味が通じればいい、という考えが普通なので、日本語が壊滅的になる。

(以下引用)

夕方4時ごろ買ってきたトートバッグ、玄関に置きっぱなしにしてた。牛乳パックどうしたものかなあ。

コーヒーの飲み方

昔、獅子文六に「珈琲道」という短編があって、読んではいないがこのタイトルは非常に気に入っている。
私がこのブログで書いているのも、「日常生活すべて道」というテーマが伏在している。ただし、「道」とは言ってもたいそうなものではなく、少しでも生活の幸福度を高める「方法」のことである。
で、今回の記事のタイトルにある「コーヒーの飲み方」だが、コーヒーの「淹れ方」などとはまったく無関係な、本当に、ただ「飲み方」の話である。しかも、世間のコーヒー好きの人のほとんどは「間違った飲み方」(www)をしているのではないか、と思うから記事を書いているわけだ。
まあ、半分は冗談だが、我々は歩き方も呼吸の仕方もすべて間違っているのではないか、そしてそれは生活の質を非常に劣化させているのではないか、と私はいつも思っているので、「コーヒーの飲み方」もそのひとつになるわけだ。
で、それは「ブラックで飲め」とか「砂糖を入れるな」とかいう類のものではない。
単に、「一回に口に含む量を我々は間違えていないか」ということだ。クリームや砂糖を入れるか入れないかは個人的な好悪だから他人がとやかく言うことではない。
しかし、「一回に口に含む量」は、多くの人が気づかないで間違いを犯している可能性が高いわけだ。
では、どういう量が適切かと言うと、それは「喉にほとんど落ちていかない量」だというのが私の主張である。あるいは、これはワインなどの場合も同じかもしれない。
我々は口の中で食物や飲み物の味を味わっているのであり、食道や胃で味わっているのではない。つまり、口中で味わう以上の量は、味わわれることもなくただ食道や胃に落ちていくだけなのである。
まあ、暑いさ中には冷たい飲み物の「喉越し」の快感はあるだろう。しかし、熱いコーヒーを飲むのに、「喉越しの快感」はあるか? 無いなら、なぜ我々は口中で味わう以上の量を一回に口に含むのか。
もちろん、そういうふうにちびちび飲むとかえって不味く感じるという人はこれまでどおりにガバガバ飲めばいい。また、ちびちび飲むとコーヒーが冷めて不味く感じると主張する人も勝手に飲めばいい。しかし、基本的に、「味わって飲む類の飲み物は、喉にほとんど落ちていかない量が一口の量として適切である」と私は主張する。

ついでに言えば、私は1日に5杯くらいコーヒーを飲むが、その大半は、「コーヒーが飲みたいな」という気持ちを満足させるたったの「ひと啜り」だけで十分なのである。だが、飲み始めたら惰性的に一杯全部を飲んでいまうのは、煙草をひと吸いだけで終わる煙草呑みがいないのと同様で、最初の一口、一吸い以降はただの惰性なのである。




好意を見せたために相手にストレスを与える話

私は人の顔を覚えるのが大の苦手なのだが、世の中にはそれが得意な人もいる。
山本さほのweb漫画の新しい回で、お気に入りの食べ物屋で顔を覚えられて、「もうこの店には行けない」という気持ちになる、という内容の話があって、それを批判する「お店関係の人」のツィートをどこかで見たが、私は山本さほの気持ちがよく分かる。
特に、「特別サービス」を受けると、二度とその店には行かないだろう。実際、そういう経験がある。と言うのは、そういうサービスを受けた店にまた行けば、それは「サービス目当てで来たな」と思われかねないし、また、そういう気苦労や心的葛藤(またサービスすべきかどうか)を店の人に起こさせるだろうと思うからだ。まあ、好意を見せたために馴染み客をひとり失うという不条理だが、それが人間心理というものだ。
もちろん、個人的サービスを受けて大喜びして、その後もそのサービスを当てにしてその店に行くというのが普通なのかもしれないが、そういう「サービス」(特別扱い)を好まない人間も一定割合でいるということである。