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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

生活の技術(7)

3 心術の1「主体性」

 

 我々の人生が不幸であるのは、その人生が不如意であるからである。つまり、意志や意欲が存在しながら、その意志や意欲が満たされない場合に、我々は自分を不幸に感じるわけだ。つまり、不幸とは不満足な状態のことであり、幸福とは、欲求や意志が満たされた状態のことである。したがって、幸福を得る手段は二つ。一つは意志や欲求の求めるものを得ることである。もう一つは、欲求や意志そのものを捨てることである。後者が仏教的な行き方だ。いつでもどこでも欲求の対象を獲得するということは不可能だから、後者の生き方が確実な幸福への道に見えるが、欲求が無く、何も得ないならば、それは幸福とも言えない。もちろん、金銭や地位や女色などを捨てて、知識欲だけを残すという生き方もある。これがエピクロス一派の「快楽主義」だ。エピキュリアンの快楽主義は、世間で誤解されているような世俗的欲望の肯定ではない。

 仏教でも禅宗などは、特に欲望を否定する思想ではない。禅宗においては、要するに、自分を迷わすものを捨てて、心が自由であればいいのである。そして、心が自由だという実感、心が解放されているという実感は生の喜びの土台である。

「随所に主となる」

 これが、心術の目標である。つまり、どこにいても周囲に惑わされず、心が自由で何の恐怖も不安も無い状態、日常を平安な落ち着いた心で生きていくことが最高の心境だ。

 我々は自分の仕事、家族、友人関係、将来の不安など、様々な問題を抱えて生きている。だが、それらはすべて「外物」である。つまり、外物によって心が囚われた状態が悩みの状態だ。悩んでいるとき、我々は自分の人生の主ではない。外物に支配された奴隷だ。

 屁理屈を好む文化人なら、喜びの状態でも、外物に支配されているではないか、と言うだろう。むしろ逆である。奴隷であっても、現在の状態から喜びを得ているならば、彼はその場の主なのである。この説明は難しいが、喜びとは最善の幸福の状態であると仮定するなら、喜びの状態においては、主も客も無意味になるとでも言っておこう。

 では、いかにして外物の支配から心を解放するか。それは

「汝の手に堪ゆることは力を尽くして是を為せ」

という聖書の中の言葉が教えてくれる。

つまり、我々が不幸、不自由であるのは、だいたいの場合、自分の手に及ばないことを制御しようとしているからである。たとえば、愛する人に愛されないという悩みなどがその代表だ。他人に愛されることは、自分の力でどうにかなることではない。相手に好かれるために、一般的には大抵の人に愛されるキャラクターを作ったところで、相手がそのキャラクターを愛するかどうかは分からない。

昔、コン・タロウという人の漫画で読んだ、私の好きなジョークがある。高嶺の花にあこがれて悩んでいる男に向かって、その友人が慰めて、「君はあきらめる必要はないよ。だって、その人は趣味が悪いかもしれないじゃないか!」と言うのだが、実際、世の中には、何でこんな素晴らしい女性(男性)が、こんな最低の男(女)とくっつくんだ、という例は多いのである。

だが、そもそも、人を愛することはこちら側の問題だが、相手が自分を愛するかどうかは、相手任せにしかならない。こちらの努力ではどうにもならないものがある。

ならば、できる努力はするが、努力してもどうにもならないことはあきらめる、というのが賢い生き方なのである。そして、実は人生の悩みの多くは、自分の努力ではどうにもならないことを悩んでいるのである。たとえば、仕事でベストを尽くすことは努力の範囲だ。だが、その仕事がどう評価されるかは、自分の努力でどうなるものでもない。

勝海舟がうまいことを言っている。江戸幕府と明治政府の二君に仕える生き方を福沢諭吉に批判され、彼からその批判の文章を世間に公表していいかと言われた時に、「行蔵は我にあり。褒貶は他人のこと。」と言って、どうぞ勝手に批判しなさい、と答えたのである。つまり、ある行為を「やるかやらないか」は私のすることであり、それについて他人がほめようがけなそうが、俺には関係ないよ、ということだ。彼のこの言葉こそ、人生の達人の言葉だろう。

基本的に、不自由とは、自分の手ではどうにもならないことを言うのだから、それはあきらめるしかない。実に当然の話なのだが、これが分からない(分かっていても納得できない)から、たいていの人は不自由がそのまま不幸につながるのである。つまり、不自由とは運命的に我々の生の半分であり、完全な自由などどこにも存在はしないのだが、その事実が受け入れきれずに自分で自分を苦しめているのが世の大半の人間なのである。

我々が問題とするべきことは、その自由と不自由の範囲が納得できる範囲かどうかだけである。

そもそも、我々が求める自由とは、まるで夢想的なもので、子供などは物理法則に反する自由をすら欲しがるものだ。漫画やアニメの超人は、我々が持ちたいという自由の実現者であり、我々の代わりにその自由を行使してくれる存在なのである。

それほど、我々は自分を取り巻く不自由に、息がつまるような束縛感を感じているということである。

そのような自由へのあこがれが、芸術創作の原動力でもあるが、しかし、我々の日常生活は、この不自由とのつきあいでもある。

我々はまず物理法則に縛られ、社会の倫理道徳に縛られ、法律で行動を制限され、仕事で求められる規範に縛られる。家庭においては、家庭秩序を維持するための決まり事に縛られ、友人との交際では、「真の自分」を知られずに、そう思われたい自分として見てもらうための努力に苦労する。他人と交わす言葉の一言一言に、自分がこういう発言をしたらどう思われるか、と悩み、そう悩む自分に苛立つ。

つまり、我々の生活とは、雁字搦めの不自由なのである。普段はそれを意識しないから、平気でいられるが、それが気になりだすと、精神がおかしくなりかねない。

つまりこれが「随所に主となる」の正反対の状態なのである。ここまで言えば、なぜ「随所に主となる」ことが心術の目的地であるかも理解されるだろう。

では、いかにすれば「随所に主となる」ことができるか。修行によって、である。私はもちろん、そうなれてなどいない。しかし、その目標を持つことで、自分を苦しめる物事はすべて自分にとっては本質的ではないという「見切り」をつけることが早くなった。そして、悩むことも少なくなった。

ここで、最初のあたりで述べたことに戻る。

すべては意識することから始まるのである。問題を見つけだせば、その問題は半分解決したも同然なのだ。一番の問題は、問題の所在に気が付かないことなのである。精神医療でも、患者自身が問題の所在に気が付けば、その病気はほとんど解決するのである。

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生活の技術(6)

 

第四章 メンタル・ヘルスまたは「心術」

 

 「メンタル・ヘルス」というと、精神科医の分野になりそうだが、ここで私が述べるのは、より良い人生を生きるための「心の自己コントロール」の話である。そして、それには前の章で書いた人格形成なども含まれる。

 

1 生き方の基本

 

 メンタル・ヘルスは、その人の生き方と大きく関わってくる。昔なら人生論として扱ったことを、ここではメンタル・ヘルスとして扱おうと言うのである。

 まず、生き方の基本は、「問題解決の技術」と同じである。つまり、「現実認識―問題分析―計画―実行―反省―計画変更―実行」のサイクルである。(これはビジネスの世界ではP―D―C―Aサイクルと言うようだ。「プラン・ドゥ・チェック・アクション」である。なぜドゥとアクションの区別があるのかは知らないが。)そして、何よりも大事なのは、「継続」である。コリン・ウィルソンも言うように、我々が、決心したことを継続できれば、精神的な超人にもなれるのである。

 

2 精神の素材と精神コントロール

 

 良い人生を送るためには、精神の自己コントロールが必要だ。それができるかどうかで人生の質が変わってくる。

 まず、人間の精神は大きく分けて、「理性」と「感情」に分かれる。ここに、「意志」という柱を立てて三つに分けてもいいが、人間に自由意志があるかどうかは判断不可能な問題だから、意志については保留にしておこう。

 問題は、理性と感情はまったく別であり、感情を理性でコントロールすることは非常に難しいことである。感情に限らず、自己コントロールを最大限に高められるかどうかが、幸福な人生の鍵だとも言える。たとえば、あなたが何かの義務的な仕事をやらねばならない場合、それを苦痛に思うあなたがいる。そして、その仕事をやらねばならないと思うあなたがいる。はたして、あなたはそのどちらのあなたの言うことを聞くべきなのか。怠け者のほうのあなたか。意志的で努力家のあなたか。当然、後者だと言う人が多いだろう。だが、そこで怠けて過ごした甘美な時間と、苦痛に耐えて努力した時間と、どちらが人生にとって有意義な時間だっただろうか。これは、明らかに前者なのである。ただし、これは短い時間のスパンで考えた場合のことで、長期的にはもちろん、前者のような生き方はその人の人生レベルを低下させ、後者のような生き方は人生レベルを向上させる。

 これはつまり、美味い物を先に食うか、後で食うかという選択と同じことであり、もしも怠け放しでもそのダメージを受けることが無いのなら、一生怠け続けてもいいのである。つまり、大金持ちの家に生まれた人間なら、そういう生き方もできるわけだ。

 だが、ほとんどの人間は「生きるための労働」と不可分の生涯を送るはずだ。したがって、ここではそういう前提で論じる。

 さて、人間の精神は理性と感情に分かれる。感情は、目の前の義務的労働を苦痛に思い、理性は、長期的判断に基づいて、あなたに労働を強制する。

 もちろん、誰でも考えるように、感情が、労働を苦痛ではなく快楽だと考えればすべての問題は解決である。だが、果たしてそううまくいくかどうか。我々は労働を本心から快楽だと考えることができるだろうか。ここで、価値観というものが問題になる。つまり、快楽は価値があり、苦痛はマイナスの価値だという判断がここにはある。逆に、我々にとってのマイナス価値の強制が我々に苦痛を与えているとも言える。

 

 価値観の問題も、古くて新しい問題だ。納豆やオカラで満足できる人間なら、トゥール・ダルジャンの鴨料理などこの世に存在しなくても何も問題は無い。酒の飲めない人間にはロマネ・コンティも無価値である。草の葉の上の水玉の美しさに感動できる人間には、100カラットのダイヤも不要だろう。自分のブスな女房を愛している人間には世界一の美女が言い寄っても迷惑なだけだ。(最後は、私のことではない。私の女房は私の主観では美人である。あくまで、主観だが)

 人生の最大の秘密をここで書こう。

 それは、この世で生きる最大の鍵は、「価値観」にあるということだ。しかも、価値観とは、実はその人の主観なのである。このことを意識していないことに、人生の大半の苦しみの原因があるのだ。

 たとえば、あるタレントや俳優を好きか嫌いか、ということは、若い人にとっては「絶対的なもの」である。いや、年を取った人間でも、好悪については絶対に譲らないものだ。だが、その好悪にどんな根拠があるかというと、それはほとんど無いのである。Aという歌手とBという歌手の間に、それほどの違いがあるとは思えないのだが、ABのファンにとっては、天地の開きがあるのである。それは、つまり《主観の絶対視》なのである。

 さて、我々は、実は自分の主観に過ぎないものを絶対視しているということを知れば、人生を生きることが非常に容易になる。

 我々が自分の感情をコントロールできないのも、「主観の絶対視」のためであり、本当は簡単に譲れるものを譲れないと「思い込んでいる」だけなのだ。

 これは、しかし、感情を軽視しろということではない。藤原正彦が面白いことを言っている。「論理」というものは、実は出発点の妥当性は証明できない。つまり、すべての論理の出発点そのものは仮定にしか過ぎないということだ。これは私もかつて考えたことで、論理とは、「説明手段」でしかない、と私は思っている。他人を説得する手段ではあっても、必ずしも真理に至る道だとは限らない。一方、感情の方は、少なくとも、その感情がその人の心を支配していることは明らかであり、それだけでも感情の偉大さは分かる。つまり、我々の生涯の大半は感情とともにあるのだ。だが、感情が自己破壊的に働く場合がある。ここで私がコントロールを考えているのは、そういう類の感情なのである。

 ここでまた誤解する人がいるかもしれない。私は、一般的にマイナスとされている感情を自分の中から消し去れと言っているのではない。怒るべきときには怒り、悲しむべきときには悲しむことこそが、真に人間らしい生である。だが、問題は、我々はそうしたマイナスの感情に心を支配されるあまりに、自分の人生までも悪い方向に引きずっていく場合が多いということだ。そこで精神の制御が求められる。

 精神の制御において必要なのは、意識化である。自分がどのような状態か意識できれば、制御まではもう一歩だ。自分の状態が意識されていないから、制御できないのである。

 そこで、まず感情を分類する。これは昔から「喜怒哀楽愛悪懼」という七情として分類されている。つまり、「喜び」「怒り」「哀しみ」「楽しさ」「愛」「憎しみ」「恐怖」である。

 この中で、無条件でプラスと言える感情は「喜び」と「楽しさ」だ。(この二つの違いは微妙だが、たとえば、遊びをしている状態などは「楽しさ」であり、思わぬ利益を得た感情などは「喜び」だろう。)

 ところが、「愛」は、無条件にプラスとは言えないのである。というのは、愛とは一種の欠乏状態における感情なので、愛が喜びになることもあれば、悲しみになることもあるからだ。もちろん、単純に、好きなものの傍にいて、それを眺めている時の感情も愛だし、好きな人のために奉仕する気持ちも愛だ。そして、何かが「好き」という感情は、それだけでも一種の満足感を与えることもある。とりあえず、「愛」はある対象に対して抱く肯定的感情ではあるから、プラスとしておこう。

 さて、その他の「怒り」「哀しみ」「憎しみ」「恐怖」などの感情がマイナス感情であり、我々の心を苦しめるものであることは言うまでもない。(この「苦しみ」も七情に追加してもいいが、苦しみはむしろ総合的なマイナス感情だろう。)こうしたマイナス感情を心から完全追放してもいい、と思う人もいるだろう。実際、それができている人間もいる。それは「多幸症」という精神病患者である。また、麻薬などを用いることで、多幸症に近い状態を作ることもできるようだ。

 だが、精神病患者になるのも、麻薬を使うのもいやだというのなら、我々は「哲学的」に精神の自己制御を試みる必要がある。それが、これから本格的に論じる「心術」である。

 昔の用語では、心術とは、「心の状態」のような意味で使っていたようだが、私はそれをまさしく、「術」として論じるつもりである。

生活の技術(5)

 

第三章 ライフ・ステージ

 

 ライフ・ステージとは、「人生の各段階」ということである。その目安は「卒業・就職・結婚・出産・退職」である。つまり、下記のように分けることができる。

     誕生から学校卒業まで。~親に依存して生きており、また、様々な成長の段階である。この段階において大事なのは、「自分の可能性と適性を発見すること」と、「望ましい人生のために、自らを作り上げること」である。

     就職から結婚まで。~親から自立し、社会人としてデビュー、そして、新しい家庭を築く段階である。この期間が短い人間、つまり早婚の人間と、長い人間、つまり晩婚の人間がいる。

     結婚から子供の誕生まで。~この段階は短いのが普通であるが、男にとっては、結婚以上に重大な意味を持っている。というのは、子供に対する責任を考えれば、子供が生まれた夫婦は、よほどのことが無いかぎりは、別れてはいけないと私は思うからだ。もしも別れるなら、子供が生まれる前か、子供がまだ両親の離婚の意味を知らない幼い間にするべきだろう。物心ついた後の、両親の離婚は子供の心に深い傷を残すはずである。アメリカが離婚大国であることは、彼らが子供に対していかに無責任であるかを示すものである。

     退職まで。~この期間を一つの会社で過ごす人間は現代では稀だろう。だが、なるべくなら、同じ会社で長く勤めるほうがいい。というのは、仕事というのは、長く勤めることで技術が向上していくものであり、それに伴って給与も向上するからである。もちろん、現代のような不確実性の時代には、新たな発明によって、これまでの技能が不要になる危険性は常にある。だが、次から次へと転職していては、変化に満ちた体験はできても、安定した財産形成はできないだろう。

     退職後。~この段階である程度の財産形成ができていれば、退職後は人生の最高の段階となる。仕事の義務や責任、束縛は無く、好きなことが何でもやれるからである。この段階で「ある程度の資産、健康、良好な家族関係」の三つに恵まれていれば、後は「生活を楽しむ能力」の有無が幸福な老後を約束するだろう。ただし、この時期になると、たいていの人間は長い間の苦労で健康が損なわれていることが多いので、若い時期から健康に留意して、良き老年を過ごせるように準備しておくのが良い。

 

 以上のどの段階でも常に大事なのは、何よりも精神の健康である。特に若い頃は精神が敏感だから、年齢のいった人間なら耐えきれることにも耐えきれず、自殺などすることが多い。後でも述べるつもりだが、人間が考えることの大半は妄想であり、自殺という解決手段は、確かにすべての問題に一気にけりをつける爽快感はあるが、自殺した後でもう一度人生をやり直すというわけにはいかないのだから、この解決策は最後の最後まで取っておくのが良い。

生活の技術(4)

第二章 財産形成について

 

 「人生問題のほとんどは経済問題である」、というのは清水幾太郎の名言だが、金持ちの親を持って生まれなかった貧しい若者にとって、いかに財産を形成するかは、人生の最大問題の一つである。これに比べれば、恋愛など、幻想的な問題にすぎない。つまり、人生の基本問題は二つ。一つは、いかにして健康な状態を維持するか。もう一つが、いかにして財産を形成するかである。その後者について述べよう。

 まず、犯罪的手段で財産を形成することは、避けたほうがいい。犯罪を行うには犯罪者としての性格と才能(平気で嘘をつく能力など)が必要なのであり、犯罪者的素質の無い人間は犯罪者としての成功はまず不可能なのである。これを良く示しているのが、ドストエフスキーの『罪と罰』である。あれは、犯罪者の資質の無い善人が、自らの超人思想に取り憑かれ、柄にも無い犯罪を実行してしまった一部始終の記録である。ただし、犯罪者的資質は養成することも可能であり、少年院や刑務所が、その種の「教育機関」であることは一部では良く知られている。大企業にも似た面はあり、企業の利益になることなら何でもやる人間こそが出世するのが資本主義のシステムであるため、大企業の上層部は、たいていは非人間的な怪物になる。これはマイケル・ムーアの「シッコ(シック・コーポレーションの意味か?)」などに如実に顕れている。軍隊が殺人者の訓練所であることなども言うまでもない。

 そうした華やかな修羅の道を選ぶのも一つの生き方ではあるが、あまり冴えなくても「人間らしく」生きたいなら、堅実な人生設計をする必要があるだろう。

 まず、人生の生き方には大別して二つある。一つは個人事業主として生きることであり、もう一つは組織の中で生きることである。芸術家やスポーツマンは前者である。個人商店の店主なども前者だろう。後者の中には、親しい仲間だけでチームを作って小さな組織の中で生きる方法もあり、これは両者の中間的形態である。大組織に比べて自由度は高く、個人事業主の孤独からは免れているのだから、理想的形態かもしれない。だが、交友関係に恵まれていないとできないことだから、ここでは考察しない。個人事業主の中でも、才能が前提となる芸術家やスポーツマンの人生も無視することにする。

 

 たいていの人間は、学校を出ると会社に入り、社会人生活を始める。最初の頃は給料も安く、仕事はきついが、会社の仕事に慣れてくると、仕事は楽になり、給料も少しずつ上がってくる。

 さて、ここで問題は、多くの若者は、貰った給料のほとんどを使い切ってしまうことである。もともと給料が低いのは分かるが、しかし、その金の使い方は、はたして意味のある使い方だろうか。若い男性なら、酒や女に使うだろうし、若い女性でも化粧品や洋服、音楽や娯楽に過度の浪費をしていることが多いのではないだろうか。その中でも書籍の購入に使うのは、ましな使い方だが、実は、私から見れば、これも無駄遣いである。なぜなら、文明国には、公立図書館というものがあるからだ。自宅に数千冊の書籍を保存していることを誇るのもいいが、図書館の数万冊の書籍をすべて読破した人間のほうが、はるかに高レベルな知識人だろう。もちろん、読んだ本が身についているかどうかはまた別の問題だ。要するに、教養を身につけるにも、知的娯楽を得るのにも、実は金などいらないということである。現在はインターネットもあるから、中古品のパソコンを安く手に入れれば、意欲さえあれば、インターネットを通じて何の勉強でもできる。まあ、これは無料とはいかないから、やはり公立図書館ほどの貧乏人の友はいないが。

 酒や女も含めた、遊興娯楽に使う金については、幾分かは若い頃の思い出にはなるだろうが、やはりほとんどは無駄金と言うべきだろう。まったく使わないのも無理だろうから、できるなら、使う金を自分でセーブするのがいいだろう。

 さて、ここで本題に入ろう。いかにして財産形成をするかである。ギャンブルや犯罪以外の方法で、ある程度の資産を作るには、時間がかかるのは当然だ。しかし、真面目な人間なら、何の才能が無くても、ある程度の資産形成はできるのである。

 あなたが、ある程度しっかりした会社に入社したなら、まず、そこで10年は勤めることである。そうすれば、銀行はあなたが住宅取得をするための貸付に応じてくれる。現在の世の中は、大不況の時代であるから、かつて作られた豪華な住宅が、格安の値段で売りに出されていることがある。そうした物件を根気よく探すのである。新築をしてはいけない。現在のような不況の時代の建築は、建築費を安く上げるための安普請で作るに決まっているからである。中古住宅ならば、かつては3000万円くらいしていたものが、1000万円程度で手に入る例もある。築20年だろうが、しっかりした物件なら、新築当時とほとんど変わらない状態であることもあるのだ。ところが、中古住宅販売は、築年数で値段が大きく下落していくから、物件の内容に比べて、格安の値段で売られる住宅が多いのである。つまり、あなたは、本来なら3000万円の住宅を、1000万円そこそこで手に入れることになる。

 もちろん、銀行の融資を受ければ、それからはローンの返済が始まる。だが、1000万円程度のローンなら、利息も含めて、10年もあれば返済できるはずである。20歳で入社して、10年後に住宅を取得したなら、あなたはわずか30歳で一国一城の主である。そして、この家は、あなたに金が必要になった時には担保にもなってくれるのである。

 借金が気になる? 借金も財産のうちである。あなたが借金をしているということは、あなたにそれだけの社会的信用があることの証明なのである。信頼性の無い人間に金を貸す人はいない。

 そして、さらに十年後には、ローンも完済して、あなたは借金も無くなる。だが、ここで、もうワンランクアップをしてみよう。今度は、自分が住むための住宅ではなく、投資のための住宅を取得するのである。40歳なら、定年もまだまだ先だ。前と同様に、中古物件の掘り出し物を探し、それを見つけたら、思い切って勝負に出よう。前のローンを完済したことで、あなたの信用度は上がっているから、今回も銀行は快く融資してくれるはずである。もし、融資を渋るなら、他の金融機関を試してみよう。銀行よりも審査がゆるやかで、条件も有利な金融機関もあるはずだ。

 だが、現在の不況の中では、今勤めている会社がいつ倒産するかもわからない。ローンを抱えたまま職を失ったら大変ではないか、と考える人もいるだろう。確かにそうだが、借金は、払える限度以上に払うということはない。払えなくなれば残りはチャラである。それが資本主義のシステムなのである。ローンの途中で失職したなら、今住んでいる家を売って、借金の返済に当て、また一からスタートするだけである。もともと裸で生まれた人間ではないか。裸でやり直すのに、何の文句があろうか。

 こうして二つ目の不動産を手に入れれば、その新しく取得した住宅は他人に貸して家賃が稼げる。場合によっては、その家賃がローンの支払いを上回ることもあるだろう。ローン以下であっても、いずれにしてもあなたはそれほどの負担無しにローンの返済を続けていけるのである。そして、ローン期間が終われば、あなたはまったく借金は無く、二軒の家の所有者になっているわけである。

 人間の苦労は、毎日の生活費をどうして手に入れるかということである。そのために、いやな宮仕えもしなければならない。だが、家賃不要の住宅があり、毎月の食費程度を稼ぎ出すもう一軒の家があれば、人生の主要問題は、もう解決したのである。

 これは地味な生き方であり、才能のある人間にとってはお笑いぐさかもしれない。だが、世間の大半の人間は平凡人である。平凡な人間でも真面目に生きていけば、人生の末期には経済問題から解放された晩年が期待できるというのは、大きな希望ではないだろうか。

たとえば、太宰治という人は、頭の良さや文学的才能は抜群の人間である。だが、彼の人生と私の人生を取り替えたいとは、私はまったく思わない。いや、現在自分を恵まれていない運命だと思っている人間でも、主観的生活としては、太宰治よりもはるかに幸福だろう。それは、太宰治が自分で自分の不幸を選び取るような生き方をしてきたからである。平凡人の人生は、けっして不幸な人生ではないのである。案外と華やかな生活を送る有名人のほうが、精神的には不幸な生き方をしているかもしれない。

 財産形成は、何千万人もの人間が毎日頭を悩ませている問題であり、確実な方法など無いが、その要点を言えば、「資本蓄積」「投資」を適切に行うことだろう。貯蓄だけでは、大きな財産の形成はできない。資本主義の社会においては、「投資」は財産形成の必要条件だと言えるだろう。それはもちろん、ギャンブルではある。馬券を買おうが証券を買おうが、宝くじを買おうが、すべてギャンブルなのである。しかし、そうした勝負を避けてばかりいては、満足な老後資金程度も残らないだろう。というのは、この社会は貧乏人のわずかな金を搾り取ろうとする金持ちでいっぱいだからである。つまり、広く薄く、カオス階級全体から金を取り上げて、上の人間に配分するようにこの社会の仕組みは作られているのである。聖書ではないが、「持っている者はさらに与えられ、持たない者は持っているわずかな物も奪われる」というのが、この社会なのだ。

生活の技術(3)

2 遊び

 

 遊びにおける能力開発という点では、私には本当は発言資格は無い。何しろ、生まれつきの運動音痴で、運動会の徒競走ではいつもビリだった人間である。なまじ顔が良かったものだから(これは私の主観ではなく、たいていの人はそう言ったのだが)、そのみっともなさは私の主観では言語に絶していた。学生時代の遊び事は、たいていはスポーツだから、私が遊び下手なのは言うまでもない。トランプや麻雀などの頭脳ゲームも、あまり強くはなかったから、頭もたいしたことは無かったのだろう。

 私が言えることは、遊びが上手になる必要は無いが、どんな遊びでも参加できる程度には知っていたほうがいいということである。碁も将棋も麻雀も知っていたほうがいいし、スキーもスケートもゴルフも野球もできたほうがいいということである。そうすれば、メンバーが足りない時に、参加できる。もちろん、こちらは下手クソなのだから、その遊びで活躍することは無いが、その代わりに、他の人間に活躍の機会を与えて、彼もしくは彼女に幸せな時間を贈ることができる。これも陰徳というものである。

 下手だろうが何だろうが、機嫌良く、楽しく遊び、他人を良い気持ちにさせることができるなら、たかが遊びでまで勝利至上主義を振り回して他人を不愉快にする「遊び上手連中」よりも、はるかに価値ある存在だろう。

 音楽という遊びもあるが、これも私は音痴に近いので、発言できない。音痴でも聞いて楽しむことはできるから、そうした遊びは鑑賞する立場にとどまっているだけでいいだろう。ついでながら、苦手なスポーツでも、私は見るのは好きである。「スポーツは見るものじゃなく、するものだ」という傲慢な発言をするスポーツ強者もいるが、見るだけでも十分に楽しいのだから、わざわざ自分でするまでもないのである。

 絵を描くのも遊びの一つになることがある。これも私には才能が無いから、発言資格は無いが、才能があろうがなかろうが、絵を見たり描いたりすることが楽しければ、それはそれで結構である。俳句や短歌などを趣味とするのもいいし、書道などもいい。

 だが、遊びが肯定されるのは、「本業」がきちんとうまくいっている場合である。遊びに淫して、本業が疎かになっている素人画伯の類は多い。多少上手な絵が描けようが、個性的な絵が描けようが、本業が半端な人間は偉くもなんともない、というのが私の考えだ。相撲取りが絵が上手だろうが歌が上手だろうが、相撲が弱ければ、価値は無い。芸人が多少上手に日本画を描けるというので、タレント業をやめて「画伯」ぶっているのなども嫌みなものである。

 もちろん、遊びが遊びの範疇にとどまっていれば、結構な話である。

 「独楽」という漢字は「こま」のことだが、独楽の回転が落ち着いて「澄んだ」状態になっているのは、まさしく「独りを楽しむ」という状態に見える。このように、他者の目とは無関係に、物事に夢中になっている状態は、まさしく「遊び」の状態である。この境地になれば、それが仕事でも、それは遊びと同じなのである。 

 

3 身体能力

 

 前の「遊び」の項目から分かるように、私は、身体能力は著しく劣っている。要するに、運動神経がゼロに近い。ボーリングなどでは、100点も出せないし、2回に1回は溝にボールを落っことす人間である。

 これは、小さい頃に運動をしなかった結果ではないかと思っているのだが、ただの遺伝かもしれない。しかし、後で「健康」の項目を長々と書くつもりだが、現代人にとって(あるいはいつの時代の人間にとっても)、大事なのは運動能力ではなく、健康だというのが私の信念なのである。人より少し速く走れようが、少し高く跳べようが、どれほどの意味があるのか。走り高跳びで1メートルしか跳べない人間と、1メートル50センチ跳べる人間とで、生きていく上で何の違いがあるのか。それらは、すべて「スポーツ」という土俵においての意味しか無いのである。確かにスポーツが学校生活の中で持つ意味は大きい。スポーツマンは学校の王侯貴族なのである。だが、社会に出たら、スポーツマンの存在価値など、アフターファイブの遊び事の場にしかない。仕事でも家庭でも、運動能力など不要なのである。

 まあ、しかし、人生の一時期だけでも輝く時期があった連中は幸せかもしれない。

 とりあえず、ここで私が言いたいのは、人間、健康でありさえすればそれ以上言うことは無いのであり、身体能力も運動能力も、実社会ではほとんど無用の能力だということである。したがって、それを向上させる必要などないし、そのノウハウが知りたければ、図書館で運動関係の本を探せばよいということだ。

 

4 対人関係能力

 

 対人関係能力を大別すればA 無意識的部分と、B意識的部分に分かれる。Bの意識的部分とは、「計算と演技力(弁舌能力を含む)」である。Aの無意識的部分とは、「自然な人間的魅力」である。Aに恵まれている人間なら生きていくのに苦労は無い。だが、通常はBの修練を通して、それがAに移行していく例が多いかと思われる。ここでは、Bを中心に述べるが、その前に、一般的に人間的魅力とは何か、あるいはどういう人間が魅力的な人間かを見ておこう。

 まず、外貌は大事ではあるが、それはここでは論じない。私が考える魅力的な人間の条件・資質は次のようなものだ。

 

① 善良さ

② 他者への愛情(優しさ・思いやり)

③ 正義感

④ 勇気

⑤ ユーモア感覚

     謙虚さ

     本質的な賢さ

 

 実は、これは私がフィクションの主人公で一番好きな、「未来少年コナン」の性格・資質と思われるものを列挙したものである。フィクションの主人公なら誰でも魅力があるわけではない。特に、最近のフィクションの主人公は「面白いけど厭な奴」が主流だから、ここで挙げた資質は、昔風のヒーローの特徴と言えるかもしれない。

 フィクションの主人公なら、上に挙げた以外に、何かの特殊能力が必要だろうが、現実人生の人間は上に挙げただけで十分以上である。問題は、①、③あたりと⑦が一致しづらいところである。つまり、賢い人間なら、この世が善良では生きていけないことにすぐに気づいて、自分の善良さを棄てて、社会に対応していくはずだからである。しかし、これらの資質が現実でも共存できると仮定して話を進めよう。

 「善良さ」がなぜ魅力的か。これは言葉の定義次第だ。「善良」とは「良い」ことなのだから、悪いはずがない。周囲の人間がその人に接して「良さ」の影響を蒙るなら、その人を悪く思うはずはないのである。ただし、「退屈な人間」と思うことはありうる。刺激的かどうかならば、悪人のほうが刺激的には決まっているのだから。

「他者への愛情・優しさ・思いやり」が魅力的なのは論証不要だろう。我々は自分に愛情を向ける存在を愛するものである。愛されない人間は、たいていはその本人が自分しか愛していない人間であることが多い。

「正義感」があることも、魅力の条件である。我々の生きるこの世界は、様々な不正に満ちている。弱者を虐げる人間への怒り、すなわち正義感は人間として当然の資質だ。

「勇気」は、悪と戦うための条件である。

「ユーモア感覚」とは何か。それは高揚しすぎて足が地上から離れそうになった心を地上に引き戻すことである。自分の人間的な弱さを自覚し、笑うことだ。そうしたバランス感覚の無い「シリアス型・緊張型」の人間は魅力が無いものだ。

「謙虚さ」は「ユーモア感覚」と同様に、バランス感覚である。傲慢さとは自己の過大評価であり、その本人の本質的な頭の悪さを示してもいるが、それはまた、他人への思いやりの無さの現れでもある。

「本質的な賢さ」とは、学校の成績などとは無関係な賢さであり、現実人生の様々な問題に正解を与える能力を持っていることである。東大出の官僚のほとんどは、そういう意味では賢くないようだ。

善良で、謙虚で、ユーモア感覚があるだけでも、この世界では十分に魅力的な人間だろう。その上に、正義感と勇気があれば、ヒーローにもなれる素材である。ただし、「ユーモア感覚」には微妙な部分があり、「意識的に自ら笑いを作る」人間と、「見ていて何となく楽しい人間」のうち、魅力的なのは、実は後者である。前者はただのお笑いタレントであり、彼の作る笑い自体は魅力があっても、その当人が魅力的なわけではない。

 

では、以上に述べた性質や能力は、意識的な努力で身に付くものだろうか。半分はそうだろうし、半分は、意識的な努力とは無関係に身に付くものだろう。しかし、たとえば、善良さなどというものは、無意識に身に付くものではあるだろうが、幼い頃の読書の影響や、身近な人間の影響が大きいのではないだろうか。つまり、無意識的ではあっても、そうなるだけの原因はあったと思われる。だが、人間は、家族を選んで生まれるわけにはいかないから、幼児期の周囲の人間の影響をここで論じても仕方がない。

ここでは、前にも書いたように、人間の性格や行動は、その人間の生活信条の現れであるという観点から、対人的能力をいかにして養成するかを論じてみる。

前にあげた「人間の魅力」を大きくまとめると、

 

1 善良さ

2 賢さ

3 ユーモア

 

の三点に絞れそうである。

 このうち、個人的な努力が効果があるのは2と3だろう。特に、ユーモアは修練による習得が可能な能力だと思われる。

 しかし、賢さの養成とか、ユーモア能力の養成については、ここではなく、「心術」の項目で扱うことにする。