生活の技術(7)
3 心術の1「主体性」
我々の人生が不幸であるのは、その人生が不如意であるからである。つまり、意志や意欲が存在しながら、その意志や意欲が満たされない場合に、我々は自分を不幸に感じるわけだ。つまり、不幸とは不満足な状態のことであり、幸福とは、欲求や意志が満たされた状態のことである。したがって、幸福を得る手段は二つ。一つは意志や欲求の求めるものを得ることである。もう一つは、欲求や意志そのものを捨てることである。後者が仏教的な行き方だ。いつでもどこでも欲求の対象を獲得するということは不可能だから、後者の生き方が確実な幸福への道に見えるが、欲求が無く、何も得ないならば、それは幸福とも言えない。もちろん、金銭や地位や女色などを捨てて、知識欲だけを残すという生き方もある。これがエピクロス一派の「快楽主義」だ。エピキュリアンの快楽主義は、世間で誤解されているような世俗的欲望の肯定ではない。
仏教でも禅宗などは、特に欲望を否定する思想ではない。禅宗においては、要するに、自分を迷わすものを捨てて、心が自由であればいいのである。そして、心が自由だという実感、心が解放されているという実感は生の喜びの土台である。
「随所に主となる」
これが、心術の目標である。つまり、どこにいても周囲に惑わされず、心が自由で何の恐怖も不安も無い状態、日常を平安な落ち着いた心で生きていくことが最高の心境だ。
我々は自分の仕事、家族、友人関係、将来の不安など、様々な問題を抱えて生きている。だが、それらはすべて「外物」である。つまり、外物によって心が囚われた状態が悩みの状態だ。悩んでいるとき、我々は自分の人生の主ではない。外物に支配された奴隷だ。
屁理屈を好む文化人なら、喜びの状態でも、外物に支配されているではないか、と言うだろう。むしろ逆である。奴隷であっても、現在の状態から喜びを得ているならば、彼はその場の主なのである。この説明は難しいが、喜びとは最善の幸福の状態であると仮定するなら、喜びの状態においては、主も客も無意味になるとでも言っておこう。
では、いかにして外物の支配から心を解放するか。それは
「汝の手に堪ゆることは力を尽くして是を為せ」
という聖書の中の言葉が教えてくれる。
つまり、我々が不幸、不自由であるのは、だいたいの場合、自分の手に及ばないことを制御しようとしているからである。たとえば、愛する人に愛されないという悩みなどがその代表だ。他人に愛されることは、自分の力でどうにかなることではない。相手に好かれるために、一般的には大抵の人に愛されるキャラクターを作ったところで、相手がそのキャラクターを愛するかどうかは分からない。
昔、コン・タロウという人の漫画で読んだ、私の好きなジョークがある。高嶺の花にあこがれて悩んでいる男に向かって、その友人が慰めて、「君はあきらめる必要はないよ。だって、その人は趣味が悪いかもしれないじゃないか!」と言うのだが、実際、世の中には、何でこんな素晴らしい女性(男性)が、こんな最低の男(女)とくっつくんだ、という例は多いのである。
だが、そもそも、人を愛することはこちら側の問題だが、相手が自分を愛するかどうかは、相手任せにしかならない。こちらの努力ではどうにもならないものがある。
ならば、できる努力はするが、努力してもどうにもならないことはあきらめる、というのが賢い生き方なのである。そして、実は人生の悩みの多くは、自分の努力ではどうにもならないことを悩んでいるのである。たとえば、仕事でベストを尽くすことは努力の範囲だ。だが、その仕事がどう評価されるかは、自分の努力でどうなるものでもない。
勝海舟がうまいことを言っている。江戸幕府と明治政府の二君に仕える生き方を福沢諭吉に批判され、彼からその批判の文章を世間に公表していいかと言われた時に、「行蔵は我にあり。褒貶は他人のこと。」と言って、どうぞ勝手に批判しなさい、と答えたのである。つまり、ある行為を「やるかやらないか」は私のすることであり、それについて他人がほめようがけなそうが、俺には関係ないよ、ということだ。彼のこの言葉こそ、人生の達人の言葉だろう。
基本的に、不自由とは、自分の手ではどうにもならないことを言うのだから、それはあきらめるしかない。実に当然の話なのだが、これが分からない(分かっていても納得できない)から、たいていの人は不自由がそのまま不幸につながるのである。つまり、不自由とは運命的に我々の生の半分であり、完全な自由などどこにも存在はしないのだが、その事実が受け入れきれずに自分で自分を苦しめているのが世の大半の人間なのである。
我々が問題とするべきことは、その自由と不自由の範囲が納得できる範囲かどうかだけである。
そもそも、我々が求める自由とは、まるで夢想的なもので、子供などは物理法則に反する自由をすら欲しがるものだ。漫画やアニメの超人は、我々が持ちたいという自由の実現者であり、我々の代わりにその自由を行使してくれる存在なのである。
それほど、我々は自分を取り巻く不自由に、息がつまるような束縛感を感じているということである。
そのような自由へのあこがれが、芸術創作の原動力でもあるが、しかし、我々の日常生活は、この不自由とのつきあいでもある。
我々はまず物理法則に縛られ、社会の倫理道徳に縛られ、法律で行動を制限され、仕事で求められる規範に縛られる。家庭においては、家庭秩序を維持するための決まり事に縛られ、友人との交際では、「真の自分」を知られずに、そう思われたい自分として見てもらうための努力に苦労する。他人と交わす言葉の一言一言に、自分がこういう発言をしたらどう思われるか、と悩み、そう悩む自分に苛立つ。
つまり、我々の生活とは、雁字搦めの不自由なのである。普段はそれを意識しないから、平気でいられるが、それが気になりだすと、精神がおかしくなりかねない。
つまりこれが「随所に主となる」の正反対の状態なのである。ここまで言えば、なぜ「随所に主となる」ことが心術の目的地であるかも理解されるだろう。
では、いかにすれば「随所に主となる」ことができるか。修行によって、である。私はもちろん、そうなれてなどいない。しかし、その目標を持つことで、自分を苦しめる物事はすべて自分にとっては本質的ではないという「見切り」をつけることが早くなった。そして、悩むことも少なくなった。
ここで、最初のあたりで述べたことに戻る。
すべては意識することから始まるのである。問題を見つけだせば、その問題は半分解決したも同然なのだ。一番の問題は、問題の所在に気が付かないことなのである。精神医療でも、患者自身が問題の所在に気が付けば、その病気はほとんど解決するのである。