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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

生活の技術(13)

第五章 日常の習慣

 

1)はじめに

 

 日常の習慣は大事である。人間は習慣の動物と言っていいくらいで、身についた生活習慣を変えるのは容易なことではない。そして、我々の生活の大半は習慣的行動によっているのだから、生活習慣はその人の人生そのものなのだ。我々が自分の個性だと考えている物の考え方の傾向や物事への好悪も、習慣が固定化したものにほかならない。

 たとえば、物事から逃げる傾向の人間、物事をいい加減にやる傾向の人間も、最初からそうだったわけではなく、そのような行動を何回かやるうちに、それを「個性」にしてしまったのである。(実は、これは私自身のことだ。私は女性が苦手で、女性の前から逃げてばかりいたのだが、幸か不幸か、今では女性が私から逃げるような加齢臭の漂う年齢になったわけである。)

 習慣の持つ力をよく表すのが、字の上手下手である。あれは才能ではなく、字を書く際の習慣づけの結果である。つまり、少しでもきれいな字を書こうと意識して字を書いている人間は、字がだんだん上手になり、下手でかまわないと思って乱暴粗雑な字を書いてばかりいると、見るに耐えない悪筆が固定化されてしまうのである。

 そこで、ここからは、日常の習慣として知っていると役に立つ知識を幾つか書いていこうと思う。第二章の「能力開発」の部分は概論だったが、ここでは各論になるわけだ。

 

2)字をきれいに書くには。

 

 字はきれいな方がいい。私も悪筆のために、何度も恥ずかしい思いをしてきた。ある時期から意識して注意するようにしたので、少しは改善されたが、まだまだ不細工な字を書いていることがある。全体に漢字は改善されたが、ひらがなはまだ不細工なようだ。というのも、私には、「こういうひらがなが美しいのだ」というイメージが無いので、ほとんど練習もしていないからだ。もちろん、明朝体活字のひらがなを真似ればいいだけだが、どうも、こういう曲線の字は、書いていて楽しくないので、あまり練習する気にもなれないのである。漢字なら、すっきりとした1本の直線が引けたというだけでも楽しいのだが、ひらがなは曲線で書かないといけないので面白くない。まあ、これは私の単なるわがままで、「習慣化されてないから、いやがっている」だけのことだが。

 ここでは、漢字をきれいに書くコツを説明する。そのコツとは、「まっすぐ、等間隔に」というだけのことだ。つまり、「三」という字を書くなら、その三本の線がゆがまないように、等間隔になるようにするのである。できれば、その三を囲む四角をイメージして、その枠線との間も等間隔になるといい。つまり、である。このイメージ上の升目を連続していき、その中心線(字の真ん中を縦につないでいった架空の直線)がゆがまないようにする。そう心がけるだけでも、かなり見た目がきれいになるだろう。もちろん、上下の平行線が等間隔になるだけでなく、左右も等間隔にする。要するに、最初は金釘流に近い字でいい。線を均等配分し、線と線の間の空間も均等配分するわけだ。横の線を水平よりやや右上がりに傾けて書く方が自分としては美的に感じるというなら、そうしてもいい。

 大体において我々は明朝体活字に慣れていて、その字体に近いものを美しいと思う心理が形成されているので、練習の際には明朝体活字をイメージすればいい。良く見れば、明朝体活字は線と空間の均等配分を追求した結果として出来ていることがわかるだろう。その中の斜めの部分や曲線部分は、活字に従えばいいだけだ。

 次に、「字を書く」ことを運動的にとらえよう。毛筆での書道など私はほとんど知らないが、ペン字でも毛筆でも運動の基本はそう変わらないだろう。しかし、毛筆の場合は毛筆という道具の特異性が様々な困難を招く(たとえば、毛先に含ませた墨汁が無くなるまでにどの程度の線が書けるかという計算などが必要になる。)ので、ここでは毛筆の扱いは除外しておく。

 まず、大事なことは「ゆっくりと書く」ことである。急いで書いても、ゆっくり書いても、書く時間はそれほど変わらないものだ。だから、テストの時でも、あわてて書く必要はない。まして、それ以外の場合なら、字はできるだけゆっくり丁寧に書くべきである。

 次に、姿勢は正しくし、ペンや鉛筆は立てて書こう。ペンや鉛筆を操作する際は、「手首は動かさず、指先を大きく動かして書く」と良いそうだが、これは私は試したことがない。

 ペンを持った指先の動きとして、上から下の動きや、右から左の動きはスムーズに行くが、逆の動きはぎこちなくなりがちである。言い換えれば、自分の体の中心に向かう動きはスムーズで、外に向かう動きはぎこちないということだ。それが分かれば、逆に、外への動きの際に注意すればいい、ということになる。つまり、外への動きはややおおげさにやるということだ。

 本気できれいな字を書きたければ、机の上にノートや紙を斜めに置く習性は直した方がいいだろう。書道をやるように背筋を伸ばし、体を机に正対させ、紙やノートもきちんと机のラインと並行(垂直)に置くべきだと思われる。 

 自分が得意でもないことを長々と書いてもしょうがないので、字を書くことについてはこのくらいにしておこう。というのは、実は、考えながら書くという作業をする場合には、私の場合は字のきれいさなどに構ってはいられないので、私のメモやノートは今だに(この「今だに」は誤字ではない。否定を伴う場合は確かに「未だ・に~ない」のように「まだ」の意味で「未」の字を使うが、肯定文ならば「今・だに」、つまり「今でさえも」の意味だから「今」の字を使うべきなのである。)ひどい悪筆なのである。それで「上手な字の書き方」を論じているのだから、図々しいにもほどがある。

 

3)集中力を高めるには

 

 集中力を高める確実な手段は、集中を妨げるものを排除することである。つまり、自分の内面のコントロールによって集中するよりも、そのほうが簡単確実なのだ。こういうのはコロンブスの卵の一種であって、聞けば当たり前としか思わないが、それを自分で気づいて実行している人間は少ない。

 次に挙げる項目のうち、特に③は盲点になるところだ。人間の根本的エモーション(情動)は「自己愛」なのであり、我々はいつも自分が気になって気になって仕方がない存在なのである。自分が受け取る情報が「他人事」なら、その情報を我々は少しも気にすることはない。だが、ひとたびそれが自分のこととなると、我々の耳は地獄耳になり、またそれを聞いたことで死ぬほど心をかき乱すのである。

 集中力を高めるには

 

① 雑音をシャットアウトする。~自然の音はあまり我々の集中をかき乱すことは無い。人工的な音は、(音楽も含めて)我々の集中を乱すものである。

② 気になる視覚的情報をシャットアウトする。~たとえば、部屋の壁にアイドルのポスターを貼ると、そこに目が行くたびに、必ず雑念に誘われるだろう。その数秒・数分の積み重ねが、膨大な時間の無駄になるのである。

③ 作業中は自分に関係する情報が届かないようにする。~電話でも伝言でも、作業(勉強・仕事)中はすべてシャットアウトするという決まりを家族と取り決めておくと良い。

④ 定期的に休憩する。~人間の集中できる時間は15分が限度だという説がある。これは個人差があるだろうから、自分が集中できる時間を適当に決めて、定期的に休憩を入れるべきである。ただし、その休憩の時に、他のことへの集中が起こらないようにすること。たとえば、面白い本などを読み始めてはいけない。せいぜい、お菓子を食うか、軽い運動をするくらいが「中休み」としては適当である。

⑤ 定期的に集中ワード(「東大合格」などの目標・標語など)を見て、集中力を取り戻すように習慣づける。

 

 

【補足】上に書いたことと関連するが、物事を自分と関連づけることで関心が能動的になるということは重要だ。関心が能動的になると、知識の吸収や定着の度合いが高まるので、学習や自己教育に利用することもできるだろう。

 たとえば、美術が理解できない、絵の良さが分からない、という人間は多いが、そういう人間が美術館に行った場合、「その中の作品の一つだけただで貰えるなら、どれを貰うか」という思考実験をするのである。「どれか一つを買うなら」でも「家に飾るなら」でもいい。そうすれば、そこにある無数の絵は、心理的にすべて自分とつながる可能性がでてくるわけで、それだけでも絵に対するアンテナの感度が上がることは請け合いである。(これは赤瀬川原平が言っていた。)

 

4)会話能力を高めるには

 

 会話を面白く見せるには

 

① 表情を豊かにする。~表情は感情を導き出すものである。むっつりした表情をしていると陰鬱な気持ちになり、笑顔でいると明るい気持ちになる。そして、表情は伝染するものなのである。だから、最初は「作り笑顔」でもいいから、笑顔で人と接することである。笑顔で話せば、つまらない内容でも面白く聞こえるし、下手な冗談でも笑顔で言えば、相手は笑いやすい。ぶすっとした顔で冗談を言われても、相手は笑っていいのかどうか判断に困るだろう。つまり「笑顔は人間関係のスタートライン」なのである。

② 話し手自身が自分の話す内容を信じること。~これはセールスマンの極意でもある。自分の売っている商品が本当に素晴らしいと信じて話しているセールスマンと、自分は価値の無い商品を、騙して売ろうとしていると思っているセールスマンと、どちらに説得力があるかは自明だろう。冗談を言うにしても、「自分の冗談は面白い」と心から思っていれば、そう聞こえるものだ。では、どうすれば自分自身を信じられるか。『GS美神』の横島に「自分ほど信じられないものがあるか!」という名言があるが、この言葉に激しく同感する青少年も多いだろう。だが、それには自己暗示という有効な手段がある。要するに、人間の思考は一時に一事しか考えられないシステムだから、自分自身に常に心の中で言い聞かせるのである。たとえば、不安な気持ちになったら「Yes I can.」と心の中で叫ぶのである。オバマは「Yes we can.」で全米を催眠術にかけて大統領になったくらいだから、自分で自分に暗示をかけるくらいは難しいことではないだろう。

③ 自分を否定的にとらえないこと。~たとえば、「自分の態度は馴れ馴れしいと思われるのではないか」というのは否定的なとらえかたであり、「自分の態度は相手に親しみやすく思われるだろう」というのが肯定的なとらえかたである。どちらの場合も態度としては同じなのだが、その態度を取る際の心の持ち方で、相手の受ける印象は違ってくる。自分が自分を否定的にとらえれば、相手もあなたを否定的に見ることになるのである。これを「自己開示の返報性」と言う。つまり、こちらの話すレベルに応じて、相手も同じレベルで返すということだ。こちらがよそよそしい態度をとれば、相手もよそよそしい態度で返すのである。ではなぜ、自分を否定的にとらえるのか。それは、良いことを期待して、それが裏切られた場合を恐れるからである。つまり、前もって自分を否定しておけば、相手に否定されても傷つかないという計算をしているのである。要するに人間関係に対する臆病さの表れだ。逆に、人間関係を重大視しすぎているとも言える。我々はすべての人間に愛されるというわけにはいかないのである。ならば、いちいちびくびくして一生を送るのは馬鹿げた態度というべきだろう。

 

5)怒りを抑えるには

 

 これは「心術」の心のコントロールにもつながる話だが、感情コントロールの中で、特に怒りについて書こう。

 前段に「表情が感情を惹起する」ということを書いたが、怒りはその最たるものである。怒りの表情ほどすさまじい表情は無い。その表情をしながら、心を冷静にするというのは、相当に困難だとわかるだろう。表情とは体の情報であり、そして、表情(体の情報)が感情を惹起すると同時に、感情もまた表情(体の情報)を惹起するのである。

 生理学的に言えば、

 

「怒るべき事柄の情報」→脳の「怒り」の感情→ノルアドレナリンの分泌→心拍数増加・血圧上昇→脳へ怒りの情報を送る→さらにノルアドレナリンを分泌→……

 

のように、怒りが拡大されていくのである。

 では、この悪循環を解消するにはどうするか。それは「認知的再評価」による。言い方は難しいが、簡単に言えば、「自分の怒りは適正なのか?」と考え直してみるということだ。あるいは「怒って何かいいことがあるか?」と考えてもいい。実際のところ、怒りは不愉快な感情だし、怒りを他人にぶつけて、いっそう険悪な状況を作っても、何かのメリットがあるわけでもない。ただ、「怒りを発散させないと気がすまない」から怒るだけのことである。子供が癇癪をおこして物を壊すのを見れば、大人はそれを馬鹿げていると思うのだが、自分が同じような行為をしても、気づかないのである。子供も大人も怒りのために破壊的行動をしているという点では同じなのだが。

 人間はそれほど悟れるものではないさ、と言うならば、怒りたい時に怒るのもいいだろうが、怒りを爆発させて状況がましになることはほとんど無い、と言える。(これは、理不尽な扱いを受けても黙っていろということではない。正当な抗議をするのと怒るのはまったく違う行動である。)

 とりあえず、怒りの感情が起こったら、大きく深呼吸して、心臓の動悸を鎮め、血圧を下げることだ。体の怒りの情報を抑えることで、脳から怒りのアドレナリンが生じるのを抑えるのである。

 

6)創造のコツ(「能力開発」補遺)

 

 ここで言う創造は、芸術的創造のことであるが、美術や音楽についてはうといので、文芸の創造について、そのコツのようなものを書く。もちろん、プロの創作家にはそれぞれの創造の秘訣があり、それは秘密のコツだろうが、小説家の軽いエッセイの中にそういう事が書かれていることもあるので、その中から私の記憶に残っているものや、また私自身の体験などから芸術的(文芸的)創造のコツのようなものを書いてみる。

 

① 創造物のオリジナリティを生むのは、その作者の強迫観念である。つまり、「これはどうしても書きたい」というモチーフ、あるいは気にかかってたまらないことなどがあれば、それを書いた場合、オリジナリティのある作品になるだろう。ほとんどのドラマで男女の性的関係が水面上のあるいは水面下の主題になっているのは、それがほとんどの人間の強迫観念、つまり気になってたまらないことだからである。同様に、自分が死ぬことへの恐怖が、逆に、殺人をモチーフとした作品の力となる。世の中でミステリーの需要の高い所以だ。

② ある程度の長さの作品を書くなら、毎日の継続性が大事である。つまり、その作品世界に精神を没入させるには、時間と、精神の集中が必要なのであり、まとまった時間をそれに使わないと、作品の水準は維持できないということだ。ジェイン・オースティンは、自分が小説を書いていることを家族に隠していて、家事の合間のコマ切れな時間で長編小説を何本も書いたそうだが、これは特例と言うべきだろう。

③ これは私の考えだが、「まず問題を設定する」というのが案外といい創作のコツではないかと思う。昔、堀江卓という漫画家がいて、その人の創作法は、主人公を毎回、絶体絶命のピンチに陥れて、そこで「次回に続く」とし、ペンを放り出して酒を飲みに行ってしまうというやりかただったらしい。もちろん、その先など、まったく考えていないのである。そして、次回は、前回のピンチからいかに脱出するかに頭を絞るわけである。これは、賢い方法だと思う。というのは、創作とはある意味では問題を解くことであり、その問題がいかにして解かれるかに読者の興味はあるからだ。作者自身も答えを知らない問題なら、これほどスリリングな問題も無いだろう。人間の頭は、問題を解くという方面では案外と良く働くものである。むしろ、問題を発見したり、問題を設定したりするほうが苦手ではないだろうか。そして、無の状態から作品を作るのが難しいのは実は問題が設定されていないからなのである。その点、①に書いた強迫観念には、すでに問題が設定されているのである。

 

 プロの作家でもない人間が、偉そうに創作講義をするのも何なので、これくらいにしておくが、実は世の中というものは常に「間に合わせの答え」で動いているのである。だから、ミステリーなどの解決を不合理だとか、非現実的だとか言って文句を言う人間は間違っている。現実はフィクション以上に不合理なものである。だから、作品を書こうという人間は「ある程度の合理性」さえあれば、それで十分だと、気軽に考えるのがいいだろう。なにしろ、世の中には不可能犯罪の解決を「実は犯人が宇宙人だったから」ということで片付けた作品もあるくらいだから、ノックスの「犯人が中国人であってはいけない」というハードルも、楽にクリアできるというものだ。

 

7)女にもてるには

 

 これは簡単である。常に女の側にいて、何やかやと話しかけていればいい。ただし、「百人にアプローチして、数人をモノにする」というつもりでやることだ。蓼食う虫も好き好きだから、あなたがどんなに下劣で厭な人間でも、どんなに不細工な顔でも、それでもいいという女は必ずいるはずだ。もちろん、「そんなのはモテる範囲に入らない」という人もいるだろう。では、そういうあなたは、何を望んでいるのか、世界中のすべての女から好かれ、愛されることか。そういう人間は、そういう状態が地獄であることを知らないのである。吾妻ひでおのある作品の主人公はすべての女にモテるフェロモンのために悲惨な目にあった後、「もてないってのは、なんて心が休まるんだろう」とつくづく思うのである。

 ついでに言うと、顔の良さなどというものは、女にもてる条件としてはたいした問題ではない。これは、かつての美少年である私が断言する。私をひそかに慕う女性は絶対に、無数にいたはずなのだが、実際にもてたことはほとんどなかったのである。

 

8)金を得るには

 

 これも簡単だ。金に縁の深い仕事につくことである。つまり、銀行業や証券会社。あなたに才能があればその世界で出世するし、才能がなくても、そこにある金を盗む機会はある。普通のサラリーマンなどやっていては一生金に縁が無いことは、「金持ち父さん貧乏父さん」の著者が力説しているところだ。ただし、そういう職場が非人間的職場であっても、当方は関知しない。より安全なコースとしては、公務員になるという道がある。これは国民の払った税金を優先的に使える職場であり、公務員組織全体に守られて一生を過ごすことができる。ただし、ここでも、その仕事が楽しいかどうかは別問題だ。要するに、人生の優先順位が何かということである。「あれもこれも欲しい」と思って、そのすべてが手に入るほど、この世は甘くない。芸能界で成功した美男美女たちも、枕商売無しで成功した例はほとんど無いだろう。人間としての誇りを優先して清貧に甘んじるか、金と名声と地位を得るために他の何かを犠牲にするかである。もちろん、まともな努力で地位や栄誉を得るという場合もあるだろうが、それには運命にも恵まれる必要があるだろう。

 

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生活の技術(12)

 

8 心術の6「感情のコントロール」あるいは自己の他者化

 

感情は理性ではコントロールできないのが普通である。自分で自分の心が意のままにならないのだ。では、なぜそうなのだろうか。

ここで言うコントロールできない感情とは、怒りや悲しみといったマイナスの感情である。喜びや楽しさなどの感情なら、コントロールする必要は無い。なぜなら、それらは「幸福」の実体なのだから。つまり、幸福とは我々が喜びや楽しさの感情で充たされていることなのである。逆に、我々が怒りや悲しみの感情で充たされているときは、我々は不幸なのである。したがって、幸福とか不幸とかは結局は感情の問題に帰着する、と言える。つまり、外部的な条件は幸福や不幸の条件にはなりうるが、幸福や不幸そのものではないのである、世の中の人間の多くはここを錯覚しているのだが。

何億円もの年収があり、映画女優かモデルのような美女を恋人にし、名声にも恵まれている人間を見たら、多くの人は彼を羨望するだろう。私も多分そう思う。だが、一瞬の後には、「だが、本当に彼は羨むべき存在かどうかわかったもんじゃないぞ」と私は考える。というのは、人間の本当の生活は、彼の心の内部で起こる生活、つまり彼の感情生活だと考えるからである。たとえて言うならば、味覚障害の人間にこの世でもっとも贅沢な美食を与えたとして、その彼を羨むかどうかということである。もちろん、羨ましくもなんともない。だが、世の多くの人間は、彼がその美食を口に運んでいるという事実だけを見て、彼を羨むのである。

要するに、大事なのは我々自身に適切な感受能力があるかどうかということなのである。

とりあえず、それはあるものとしよう。そうすると、問題は次のようになる。

「我々がどうあろうが、我々の毎日の生活は外部の条件に左右され、我々の感情もそれによって幸福になったり不幸になったりする。それにどう対処すればいいのか」ということだ。

言葉を変えれば、外的な条件によって心が動揺せず、穏やかな幸福感を保ち続けるにはどうすればいいのか、ということだ。これが冒頭に書いた、「感情のコントロール」の問題である。果たして感情はコントロールできるのかどうか。冒頭に私は「感情は理性ではコントロールできない」と書いた。それで話が終わりでは「心術」の意味がない。

感情は理性でコントロールできるという想定で考えてみよう。それには何が有効か。

 

ここで、妙なテクニックを提出しよう。それは「自分を他者化する」という方法である。

ある出来事によって生じる負の感情が制御できないのは、その出来事が自分自身の存在を傷つけるからである。それが他人事なら、我々は平気なものだ。「我々は他人の不幸に平然と耐えきれるほどに勇敢だ」と皮肉ったのはラ・ロシュフーコーだったと思うが、まさしくその通りであって、マイナス感情はすべて、それが自分に関わる何かを傷つけるところから生じるのである。自分の恋人や友人の不幸が我々を傷つけるのも、我々がその恋人や友人と一体化した感情を持っているからなのである。だから、たとえば自分のひいき俳優や歌手の悪口を言われると我々が不愉快になるのは、その悪口が、「その俳優や歌手が好きな自分」とか、「自分の趣味」への批判になるからなのである。つまりは自分自身が攻撃されたように感じるから我々は不愉快になるのである。

言い換えれば、我々が負の感情を感じるのは、その出来事が我々への攻撃だと無意識に判断しているからであり、その土台には我々のナルシシズムがある、と言える。

そこで、「自己の他者化」という「心術」が対策として考えられる。

「自己の他者化」とは、自分という存在と我々の精神の中の自我(自我とは思考の主体だとしておこう)とを切り離すことである。そして、自我のみが真の自分であり、他の部分は自分のロボットだと考えるのである。つまり、私という自我が私というロボットを操って行動させているのだと考えるのである。そして、その操られている自分は真の自分ではないから、それに対する如何なる攻撃も批判も気にしないようにするのである。

言い換えれば、これは「日常を演技する」ということだ。

ビートたけしが、「俺は笑わすのは好きだが、笑われるのは嫌いだ」と言ったことがあるが、「笑われる」とは、彼自身が笑われることであり、「笑わす」とは、彼の演技によって彼の虚像が笑われることだ。見かけの上ではどちらも同じに見えるが、内実は違うのである。彼が「笑わす」場合でも、見かけの上では笑われているのは彼だ。しかし、その時、彼は「自分自身が笑われている」とは思わず、「演技している自分を笑わせてやっているのだ」と考えるのである。本質的にシャイな人間である彼がなぜ、舞台に立って、笑われることに耐えきれるのかと言えば、それは「笑われているのは自分ではない」からである。

これで、「自己の他者化」ということがわかるかと思う。

我々は実は、日常的に演技をしている。ただ、それに対して無意識なだけである。前にも書いたが、『徒然草』の中に、「人と交わると、言葉は、他人がそれをどう聞くかを顧慮しての発言となり、自然のままの言葉ではない」という一節があるが、発言に限らず、他者と交わる時の我々の言動のすべては他者を顧慮した「演技」なのである。あるいは、他者を顧慮した「政治的行動」なのである。

そして、そうした演技から解放された時に我々の願う「随所に主となる」ことが達成されるのだが、それは、あるいは演技を演技と意識しなくなった状態なのかもしれない。自分の演技の無様さに不愉快さを感じている人間が、他者との交流を不快に思うようになり、引きこもりなどになるのだろう。自由自在に演技のできる人間こそが「この世界のチャンピオン」なのである。

演技の話は前にもやったので、ここでは「心術」としての「自己の他者化」という方法だけを心に止めておけば良い。要するに、誰にも「真の私」を理解できるはずは無いのだから、他者の批判や攻撃はすべて的外れであり、それを私が一々気にするには及ばないということである。この世のすべては自分をも登場人物の一人とする人形芝居にすぎない、というような考え方をすればいいのである。言い換えれば、「自分という存在や自分の感情をあまり過大視するな」ということだ。

もちろん、この考え方は「だから何をしてもよい」とか「だから責任を取る必要はない」とかいう短絡的な思想に至ってはならない。あくまでこれは精神的な姿勢の話であり、演技だろうが何だろうが、人の社会的言動のすべては(本当は、内面的生活もそうだが)その人に返ってくるのである。禅問答で、「お前は、そのうち閻魔大王に飯代を請求されることになるぞ」と言う面白い言い方があるが、要するに、一生を終える時に、お前は自分の生き方を後悔しないか、ということだろう。これを現代風に言えば、「お前の人生の責任はお前自身にある」という「自己責任」になるが、

 

生活の技術(11)

7 心術の5「記憶力」

 

記憶力の強い弱いは、学生などにとっては大きな問題である。我々の思考は自分の記憶に基づいて行われるのだから、記憶力の弱い人間は思考の内容も貧弱にならざるをえない。ところが、記憶には幾つかの傾向があって、覚えようとしなくても覚えることもあれば、覚えようとしても覚えきれないこともある。

まず、自分が深い興味を持っている事柄は、強いて覚えようとしなくても覚えるものである。よく子供で、駅名やら自動車の種類やら怪獣の名前やらを無数に覚えている子供がいるが、これは子供というものが記憶能力がすぐれているからだけではなく、自分が興味があるから覚えているのである。

また、具体的イメージのあるものは覚えやすく、抽象的なものは覚えにくい。鎌倉幕府成立を「いい国作ろう鎌倉幕府」とか、ルート2を「一夜一夜に人見頃」とか覚える類だ。

短い言葉は覚えやすく、長い言葉は覚えにくい。元素記号の「水素・ヘリウム・リチウム・ベリリウム」などをを「水兵リーベ」と覚える類だ。あるいは古文助動詞「べし」の文法的意味「推量・意志・可能・当然・命令・適当」を、その頭文字をつなげて「スイカトメテ」とする類だ。これらは短くすると同時に、「イメージ化」も含まれている。

人の名前と顔を一致させて覚える能力は、教育者や政治家には必須の能力だが、これが苦手な人間もいて、私はその一人である。そもそも、人の名前と顔は恣意的な結びつきでしかないのだから、その相手が絶世の美男美女でもない限り、覚えきれるはずがない、と私などは思うのだが、これを楽々とやっている人もいるようだ。楽々とではなく、努力してやっているのかもしれないが、努力してもそれができない私のような人間は、脳の欠陥があるのかもしれない。しかし、若い頃から本ばかり読んできて、現実よりも虚構世界の住人の方が好きな人間が、現実の人間の名前が覚えきれないのは当然だろう。要するに記憶力のいい人間というのは、これまでに頭をあまり使わなかったために脳の皺が少なく、新しい事を刻みやすいのではないだろうか。年を取ると物覚えが悪くなるというのは、これまでの記憶のために新しい記憶がインプットできなくなることだろう。といって、これまで覚えたことを消すのも不可能なのだから、物覚えが悪い人間は、繰り返し口に出したり、紙に書いたりして覚えるという作業をするしかないだろう。

学習に際して、前に書いたような工夫がなされてきたのは、逆に言えば、大多数の人間にとってそれらがいかに覚えにくいかを表している。にもかかわらず、学校の先生などは、こともなげにそれらを暗記しろ、などと生徒に命令したりする。私など、大学の生物の授業の最初に「クレブス回路」を覚えろ、と言われて、それをどう覚えればいいのか見当もつかず、絶望した記憶がある。まあ、今にして思えば、そこで工夫をして、何としてでも覚えるのが大学生としての義務だったのだろう。ある程度の暗記は専門家になるための関門であることは、「外部記憶装置」であるコンピューターが普及した現在でも変わらない。むしろ、パソコンに記憶させる習慣によって、本来の記憶力が低下して、専門家としては重大な欠陥が出てくる可能性もある。いくらコンピューターが有能でも、データ入力が適切かどうかの判断は人間がするしかないのだから、覚える事柄の内容が変わるだけで、覚えることがなくなったわけではない。あまり機械に頼りすぎて人間自体の能力が低下しないようにする必要があるだろう。

まあ、教育勅語の暗唱や、歴代天皇の名前を全部暗唱できることなどが、何のメリットがあるかなどはわからないが、歴史学者などにでもなれば、それも無意味ではないだろう。世の中には、円周率を何百桁も覚えるという「記憶のための記憶」でさえも趣味にする人間もいるくらいだから、一番大事なのは、「覚えることを過度に苦痛に思わない」ことかと思われる。

ステージで披露する「記憶術」というのがあるが、これは短時間に大量に覚えるだけで、長く続く記憶ではないから、一般人には無益である。そのコツだけ言えば、「イメージ化」である。たとえば、「帽子、ロケット、トランプ、試験、兎」と出てきたら、「帽子をかぶったロケットがトランプを使って兎に試験をしている」イメージを描くわけだ。ここで大事なのは、「帽子をかぶったロケット」のような意味不明のシュールなイメージこそが、むしろ強い印象になるということである。また、自分の体に記憶の順序を割り振って、頭から足先まで、記憶するものをイメージでくっつけていくという方法もあるようだ。

見て覚える、書いて覚える、口で言って覚える、歌にして覚える。さまざまな覚え方があるが、一番効果的なのは、「理解して覚える」ことだろう。特に、理系科目では、理解できていないことは覚えにくいものだし、仮に覚えていても使えないものだ。

歌にして覚えるのと似ているが、「語調」は記憶にとっては大事な要素だ。有名な俳句や和歌などは自然に覚えていることが多いのは、五七調や七五調は、日本人の魂にしみこんだリズムだからだろう。だから、「この土手に登るべからず 警視庁」のような標語でさえも、実に覚えやすいのである。

意志力も記憶力も、私の苦手な分野だから、この話題はこれくらいにしておこう。

生活の技術(10)

 

6 心術の4「意志力」

 

この「心術」は、コリン・ウィルソンの言う「健常人のための心理学」であり、普通人がよりよい人生を送るために、自分の精神をコントロールする技術を考えてみようという意図で書いている。

さて、精神の能力という点で、あって欲しい能力は何か。それは、若い人なら誰でも、意志力と記憶力だと言うだろう。意志力は、あらゆる目的を達成するのに不可欠の能力(ただの幸運による、偶然の成功という、私好みの『三年寝太郎』『物臭太郎』的な成功は、ここでは度外視する。)であり、成功の大きな要素である資格試験などを突破するには記憶力が必要だ。

意志の弱さと記憶力の弱さでは自信のある私が、こういうテーマで何かを言うこと自体、ちゃんちゃらおかしいと思われそうだが、とにかく、必要なテーマについては考えてみるというのが、この文章の基本方針なので、それを考えてみよう。

私自身は意志力も記憶力も弱いのだから、ここで書くことは、あるいは、人によっては有効かもしれない方法という程度の話である。というのは、私自身は、これから成功しようという気もないし、自らを鍛えようという気もないので、これは、若い頃の自分にアドバイスするなら、こんなところかなあ、という程度のものなのである。

グルジェフという神秘思想家がいる。詳しくは、コリン・ウィルソンの著作などを読んでもらえばいいが、彼の思想の一つに「オクターブの理論」というのがある。理論などと言うと大袈裟だが、要するに「人間とは三日坊主な存在だ」というだけの話である。つまり、我々の意志には、必ず弱まる時期がある、ということである。それを音階のミとファ、シとドの間の欠如した半音部分にたとえたのである。これはなかなか上手い比喩だが、問題は、現実には我々の意志は、断絶した部分でそのまま途絶えてしまうことだ。もう一度意志するときには、前に実行した部分はほとんど使用不可能な無価値なものになっていて、新たな事業をするのと変わらない。つまり、「オクターブ」よりは、「三日坊主」のほうが、はるかに現実に合っている。とりあえず、その意志の弱まる時期の存在を最初から計画に組み込むというのが、「意志薄弱な自分」への対処法だ。

具体的には、「監視装置」を作るのが一番だ。たとえば、個室で勉強するよりは、居間で家族のいるところで勉強するほうが、勉強できるものである。それは、監視する目があるかないかの違いである。

もう一つは、意志を当てにせず、意志力などどうせ15分くらいしか続かないという前提で学習計画を立てることである。つまり、連続する長時間の勉強ではなく、5分から15分程度の短い学習を組み合わせて計画を作るのである。これは「細切れ学習法」というタイトルで別の文章に書いてあるので、別記する。

後一つの方法は、「苦しい仕事(勉強)」を、楽しいゲームに変えることである。計画を達成するごとに、自分に褒美を与えるといったようなこともその一つだ。計画の達成の度合いをグラフにして壁に貼っておくのも、一種のゲーム化である。ゲームとは「成功と失敗」を意識することなのである。

意志力については、とりあえず、このくらいにしておこう。

 

生活の技術(9)

5 心術の3「嘘と演技」

 

「心術」の一つとするべきかどうか迷うところだが、私が人生を生きていく上でもっとも大事なことの一つと考えているのが「嘘」と「演技」である。この両者は本質は同じだ。どちらも、事実ではないことを事実として見せることだから。そして、嘘と演技の能力こそは、社会人として上に登るためには必須の能力にほかならない。

わざわざこうして論じることからもお分かりの通り、私は嘘と演技が大の苦手である。無精な人間にとっては、嘘も演技も面倒臭いことこの上ない。嘘にも演技にも、それを厭わない「献身性」が必要であるのは、あらゆる技術と異ならない。自分のついた嘘を覚えておくだけの記憶力もない人間が嘘つきになれるわけがない。かくして、世間には怠け者で記憶力が悪いために、やむなく正直である人間が無数に存在する。嘘と演技の能力は、一部のエリートだけに許されているのである。

その「エリート」たちが嘘や演技の技術をどのように身につけるのかは不明だが、おそらくはほとんど無意識に身につけていくのだろう。私やカントのように、「自分の行動が、人生を一貫する格率に適合するように行動しなければならない」などと考える愚かな人間に嘘がつけるはずはない。少なくとも、私がつく嘘は拙劣そのものであり、私の演技は無惨そのものである。そういう人間が、結婚などができたというのも嘘みたいな話だが。

我々の日常の会話のほとんどは、嘘に満ちたものである。社会人でありながら本音の発言をするという馬鹿者は、一日だってこの世で生きていくことはできないだろう。まあ、学生の頃くらいは、多少は本音の会話もするかもしれないが、それでも仲間の気を悪くさせないために、意識的無意識的に発言をオブラートにくるんでいるのは言うまでもない。それをわざわざ嘘というのも馬鹿馬鹿しいとも言えるが、やはり嘘には違いない。

「人と向かい合っていると、言葉は、相手がそれをどう聞くかということに縛られて、本心そのままの言葉ではなくなる」というのは、兼好法師の『徒然草』の一節だが、我々の日常の他人に向けて発する言葉とは、要するに、その九割までは嘘である。嘘というのがどぎつければ、他人がどう聞くかを考慮してアレンジされた言葉である。相手が家族だろうが、これは変わらない。そして、これはけっして悪いことではないのである。思ったことを、何の気兼ねもなしに口に出していいのは絶対権力者だけであるが、現実には絶対権力者も、不用意な一言で災いを背負い込むことを避けるため、言葉に手心を加えているものである。要するに、これは「自由」の問題なのだ。我々には完全な「行動の自由」というものがありえないのと同様に、完全な「発言の自由」など無いのである。

では、なぜあらゆる社会で「嘘」は禁じられているのか。実は、これは典型的な二重基準(ダブルスタンダード)なのである。形の上では禁止されているが、現実には嘘は許容されているのであり、その形式的な禁止によって社会秩序は維持されているのである。頭の悪い人間や幼稚な子供は、「嘘の禁止」を心から信じてしまい、現実との衝突で混乱する。頭のいい人間や精神年齢の高い子供は、現実とモラルの違いを見抜いて、「嘘をついてはいけない」という言葉自体の嘘を見抜く。

嘘抜きでは社会活動は成立しない。たとえば、お腹の大きい妊婦の姿を美しいと思う子供などいない。妊婦が美しいなら、デブも美しいはずだ。だが、社会では、妊婦が醜いなどと発言することはできない。そんなことをしたら、袋叩きに遭うだろう。もちろん美醜自体が主観なのだから、女が妊娠した自分の姿を美しいと思うのは大いに結構であるが、それを本気で信じているとすれば、ちょっと怖いものがある。

だが、こうした「正直な」発言は暗黙の社会的儀礼に反する発言となるのである。私も、こういう文章を書いたために、世の女性の敵とされるかもしれない。こういうところが私の子供っぽいところだ。ただの馬鹿か?

また、たとえば官僚の仕事の大半は、自分たちの権益を拡大し、守ることだということを、ほとんどの大人は知っている。だが、公務員の前でそういうことを言う人間はいない。

一般に、専門家の仕事の半分は「専門家としてのポーズを取る」ことなのである。社会に出て必要な本当の能力は、仕事の能力ではない。「仕事をしたことをアピールする能力」つまり、嘘と演技の能力なのだ。いや、これはもちろん、話を面白くするために言っているのであり、仕事の実力で出世する人間も数パーセントはいる。とは言っても、実力による出世にしても、何が実力なのか、誰がどう判断するのかという問題もある。要するに、実力と地位とは必ずしも一致はしないし、偉そうな顔をしている人間の中のかなりな割合が、親の七光りやコネでその地位についただけの、仕事の能力などない人間だということを若い人間は覚えておけばいい。つまり、そういう連中に形式的には頭は下げても、心の中では馬鹿にしていればいいのである。素朴な(「ナイーブ」とは、英語では悪口なのだそうだ。)人間は、他人を見かけや地位だけで判断するから、世の中では詐欺師たちがあれほど活躍できるのである。

ここまで書けば、次には「嘘と演技の能力を身につける方法」を書く義理があるが、自分に無いものを他人に教えるほどの無責任、あるいは嘘つきでは私はない。であるから、この項目は、「出世したければ、嘘と演技の力を磨きなさい」とアドバイスするだけにとどめよう。もっとも、「正直は最善の政策」というのも、真理である。つまり、嘘や演技の能力が無いくせに、嘘をつくのはおやめなさいということだ。下手な嘘を他人はだいたい見抜いているものだが、相手に恥をかかせたくないという優しい気持ちから、それをすっぱ抜かないだけなのである。それをいいことに、嘘に嘘を重ねて出世する見苦しい「エリート」もよくいるのだから、他人にどう思われようと、実質的利益を得さえすればよいというなら、それでも良い。どう生きようが個人個人の勝手である。