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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

セダンの衰退の根本的原因

まあ、形状に問題がありすぎる、というのが正解だろう。車高が低すぎて車内空間が狭い、鼻が長すぎて、T字型路で左右に障害物や壁がある時の横の確認が難しい、などだ。つまり、「日本の道路事情にも生活利便性にも合っていない」のである。せいぜいが「美的センス誇示」や「地位誇示」しかメリットがない。貧乏国日本に合っていない。
セダンで引っ越しの荷運びや大きな物体の買い物ができるか?

(以下引用)

かつて定番だったのに… なぜ「セダン」廃れたのか

 以前はクルマの基本的なスタイルと言えば「セダン」でした。しかし、近年はSUVが人気の中心に変化し、セダンは各自動車メーカーからもラインナップを減らしてしまいました。

 なぜクルマの基本形が大きく縮小してしまうほど、セダンは不人気となってしまったのでしょうか。

数少ないFRスポーツセダンの日産「スカイライン」

数少ないFRスポーツセダンの日産「スカイライン」

【画像】この時代は良かった! これが「一世を風靡した名セダン」です!(30枚以上)

 セダンが不人気になった理由は、シンプルに「室内空間が狭く、利便性に欠けるから」です。

 ルーフが低くなるセダンのボディ形状は、SUVやミニバンに比べてリアシートの室内空間とラゲッジスペースを広く確保するのが難しくなります。

 実際のところは「セダンが不人気になった」というよりは、室内空間が広く採れる「ミニバンやSUVが人気になった」と表現するのが正しいでしょう。

 1990年代前半くらいまでは、ミニバンのようにスライドドアを有するクルマは「商用バン」といったイメージが強く、仕事で使う営業車のようなイメージが強かったのです。

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「誤算の論理」の考察

児島襄の書名に「誤算の論理」というのがあって、なかなか魅力的な書名だな、と思ってたので、それを借用して「誤算の論理」つまり、なぜ誤算が生じるのか、その大筋を考えてみたい。
とりあえず、誤算に至る要素を幾つか挙げてみる。

1:過去の成功体験への固着。
2:現状認識の不足。調査への意欲不足。
3:組織内の個人や特定集団への過度の権力集中。
4:特定思想への固着。
5:所属組織や個人の利益を最優先し、その弊害を無視する傲慢な姿勢。

などが考えられる。これを集約すると、「思想の偏り」「偏執性」「全体への視野の欠如」となるだろうか。

「デフレ=悪」論の一般的説明とその反論

「ダイヤモンドオンライン」記事で、私は下で説明されている「デフレ=悪」あるいはデフレと不況を当然のように結びつけた「デフレ不況」という「ロボット的思考」に疑問を持っているが、一応、彼ら(「デフレ=悪」論者)の説明として転載する。

不景気で給与が下がると消費者は消費を差し控える。ということは、要するに「不必要なものは買わない」ということであり、消費者自身はそれで問題はないはずだ。ところが、企業としては「物が売れない」から倒産するところが出てくる。それは「消費者が必要としていない品物やサービスを売っている」ということであり、本来は何も問題はない。だが、そうした企業が倒産することで失業者が増えることになり、「不況感」が昂じ、マスコミもそれを書き立てる。それが「デフレ不況」の意味である。それが最大化したのが恐慌で、つまり、恐慌とは常に「バブルの崩壊」なのである。これが「必要なものを必要なだけ生産する」社会主義国家なら、まったく問題にならない話で、「デフレ不況」は資本主義国家の特性なのである。社会主義国家では、失業者が増えたら公共事業を拡大して「政府が仕事を作ればいい」だけだ。まさに「ケインズ主義」とは社会主義の親戚なのである。
つまり、資本主義社会はインフレが宿命なのであり、それがたまたまデフレになると「不景気感」に満たされることになるわけだ。そして、絶えざるインフレの帰結は通貨価値の永遠の下落である。それは資本家(大富豪)にとっても好ましくないから、定期的に「操作された株式下落(金融恐慌)」を起こして、そのパニックによって中小企業を淘汰し、通貨価値をある程度引き上げ、倒産企業を安く買い占めるのである。

経済学者や経済評論家は常に「デフレ」と「不況」を結びつけるが、インフレとデフレの循環(長期的にはインフレ期間が長い)が資本主義の宿命であることは絶対に言わない。言えば、この社会から追放されるからである。で、庶民にとってはインフレのほうが困ったことなのである。同じ給料が続きながら、その価値はどんどん低下するのだから。つまり、「デフレであれば、まだマシ」なのである。

下の引用記事の中の

「先生、モノの値段が下がることはいいことじゃないんですか」

こそがまさに正論なのであり、それに「教えている」先生(らしき人物、筆者)が大嘘つき、詐欺師なのである。企業の売り上げが減ることでお父さんお母さんの給料が減るかどうかは、その企業の問題である。それと「モノの値段が下がること」とは別の問題(その企業が社会に必要な企業であり、有能な経営陣かどうか。また、被雇用者がどういう企業に勤めているか)である。
もちろん、資本主義社会とは「ムダな会社がムダな商品やサービスを売る」ことで膨張していくのであり、それを「善」であり、カネの神の思し召しだ、というのが資本主義思想だとも言える。その最悪の地獄的思想が「カネのためなら親をも子をも殺す」「新自由主義」というアモラル思想である。
念のために言えば、私は社会主義も資本主義もそのままではマイナスが大きいと思っており、その融合こそが望ましいという考えだ。それは、社会福祉に大きく配慮した「人道的資本主義」である。

(以下引用)

インフレーションとデフレーション

インフレーション(インフレ)とは、物価が継続的に上昇する状態で、通貨の価値は下がります。たとえば、極端なケースでは、今日は100円でりんご2個買えたのに、翌日には1個しか買えないという状況です。景気が良くなると、インフレが起こりやすくなります。インフレ時には、企業の売上が増加し、従業員の給料が増え、モノを買おうとする意欲が生まれる、という循環が生まれます。

一方、デフレーション(デフレ)とは、物価が継続的に下落する状態を言い、通貨の価値が上がります。皆さんも何となく聞いたことがあると思いますが、これまで日本は長年に渡って「デフレ」を経験してきました。

理由はいろいろあります。1990年代に入ってバブル経済が崩壊し、景気が悪化したこと。経済のグローバル化が進み、中国など人件費の安いところから輸入されるモノが増え、安い商品が増えたこと。そもそもモノが余っていること。お給料が増えないため少しでも貯めようという意識から消費が抑制されていること。老後の不安からお金を使わなくなっていること。挙げればきりがないのですが、日本経済はバブルが崩壊してから30年も経つのに、物価はほとんど上がらず、状況によっては下がるというデフレを経験してきました。

物価が下がると、相対的にお金の価値は上がります。同じ1000円で買えるモノの数量が増えるからです。バブル経済が崩壊してからの30年間、日本人はただ現金を握りしめているだけで、相対的にお金の価値は上がっていたのです。

「先生、モノの値段が下がることはいいことじゃないんですか」

そう思いますよね。そう思って当然だと思います。でも、モノの値段が下がるということは、企業の売上が減るということです。それはお父さんお母さんの給料も減るということにつながっていきます。モノの値段が下がる以上に、給料が減ってしまったら、結局貧乏になってしまいますね。だから政府は、公共投資を増やしたり(財政政策)、世の中に出回るお金の量を増やしたり(金融政策)することで、人々のインフレ期待を高め、デフレ脱却を図る政策を採っていますが、いまのところ成功しているとは言えない状況です。

このままこのような政策を採り続け、国の借金が増え続けると、スタグフレーション、すなわち景気が悪いのにインフレが起こってしまうという最悪のシナリオになりかねません。これは給料が下がる中で物価が上がり、買えるモノが少なくなってしまうという現象です。

これを防ぐには、経済を健全に拡大することが必要です。財政政策や金融政策に頼ることなく、企業活動を自律的に活発化することで、経済のパイそのものを大きくしていくしかありません。現状維持などと呑気なことを言っていると、いずれインフレで現状維持すらかなわなくなるのです。

参考記事
資本主義の世界で、「現状維持」は
落ちていくのと同じである

恋愛の発明

仏教の特徴は「問題の要素を分類して考える」という、デカルト的思考にある。
たとえば、苦しみという問題を考えるのに「苦しみの分類」をするわけだ。
その中に「求不得苦」というのがあったと思うが、これは「求・不得・苦」で、「何かを求めて得られない苦しみ」である。
また「愛別離苦」というのがあり、これも「愛・別離・苦」で、「愛したものと別れる苦しみ」である。昔の歌謡曲に「逢うは別れの始めとは~知らぬ私じゃないけれど」という一節があるが、愛する人に出会わなかったら別れの苦しみも無いわけで、また、その人を愛さなければ別離の苦しみもないわけだ。
つまり、誰かを愛するということが無い人間は、人生の苦のひとつを最初から逃れているわけだが、人が愛したり別れたりするのは資本主義の商売の機会だから、テレビや映画は毎度毎度、つまらない惚れた腫れたのドラマを作るわけである。子供が生まれれば、また金儲けのネタになるし。
この世から恋愛が無くなったら、社会の面倒事のかなりが消えるが、それは商売の多くの消滅になり、人類の消滅になる、というわけで、「恋愛の発明」は人類の偉業だと言えないこともない。
なお、古代民族の大半は、「性欲はあるが恋愛はなく」、性欲の調節システムと子孫維持のシステムとしての婚姻制度はあった。

日本人の「神」観念と社会秩序

単なる思い付きだが、白川静の「回思九十年」の中の対談の一部に、「人が神や死者を叱責する」話があり、そこに、日本人にとっての神や死者はやたらに崇高なものでもやたらに畏怖する対象でもなく、もっと身近な存在だったのではないか、という発想を得たのだが、いわば「となりのトトロ」である。人間でも動物でもないが、意思を通わせることが可能な不思議な存在が神や死者だったのではないか。
それは何かの禁忌を人間が犯すことで時には人間に罰を与えもし、捧げものをすることで喜びもするという「人間的感情」をもったもの、というわけだ。と同時に、キリスト教やユダヤ教のように人間が神の奴隷というわけでもない。神や死者は天国や地獄にではなくもっと、「隣りにいる存在」である。
つまり、「物の怪」と「神」、あるいは「神」と「死者」はさほど遠い存在ではない、という思想である。祖霊崇拝は、まさしく「人間が神になる」のと同義である。そして人間(死者)は幽霊にもなるのである。

そこからの思想の系として、日本人は「偉い人」を心から畏敬してはいない、という考えも生じる。神や死者でさえ「隣人」なのだから、支配者など同じ人間でしかない、というのは明白であるわけだ。
西洋や中東の絶対神思想と、支配者の絶対性というのは表裏の関係ではないだろうか。

すなわち、日本の民衆は権力者には従うが、尊敬はしない、ということだ。そうすると、「面従腹背」というのは重要な思想である、とも言えそうである。いざとなれば、どんな偉い人でも刀を振るって殺す、というのが本来の日本人だったとまで言えば大袈裟になるが、とりあえずは「利害計算で従っているだけだ」というのはむしろ日本人の「誇り」を示すものだろう。それは精神の奴隷化とは正反対なのだから。会社社長は君主ではないし、社員は奴隷(某大会社の社長は子供に「社員は犬だ」と言っているらしい。)でもない。単なる雇用関係だ。
そしてその「面従腹背」によって社会は安定し、和が保たれるのである。これこそが、「実用道徳」かもしれない。