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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「心の貧しい者」とはどういう意味か

「カトリック東京大司教区」というところのホームページから転載。
書かれた内容のすべてに同意するわけではないが、「心の貧しい者は幸いである」は誤訳だ、とはっきり言っているところには同感する。つまり、ルカ伝の「貧しき者は幸いである」で良かったのであり、それが「革命者」としてのイエスの真意だったと私は思っている。(「革命者キリスト」は別ブログに載せてある私の昔の記事。)

(以下引用)

さて、本日のミサの福音は「山上の説教」です。誰でも知っている有名な箇所ですが、正直に言いますと難しいです。「心の貧しい人は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」これからして難しいですね。「難しい」などと言ってはいけない、「こうなのです」と言わなければいけないのですが、やはり難しいです。なぜ、「幸いである」のか。「心の貧しい人々」というのは何か。「心の貧しい」というのが、そもそも日本語ではつまずきです。「心の貧しい」というのは心がさもしいとか、がつがつしている、心が曲がっている、というように良い意味ではありません。ですから、山上の説教をするときには、説明をしなければなりません。

この箇所を直訳すると、「霊において貧しい」となるようです。ところが、並行箇所のルカ福音ではもっと端的に、「あなたがた貧しい人々は、幸いだ」と言っているのです。だから、貧しい人が幸い、なのです。これがまた解りにくいわけです。「貧しい人」は幸いとは思いません。特に今の日本の社会では、金持ちの方がいいわけです。しかし、考えてみると、たくさん持っていると、いろいろ心配なこともありますし、心がそちらの方へ奪われ、束縛され、心が豊かになれない。やっぱり持っていない方がいい。「離脱」ということでしょうか、そのように常識的に考えることも可能です。しかし、貧しければいろいろな問題があるわけでして、常識的に考えると、そんなに貧しくない方がいいと思うし、かといって、そんなにお金持ちであったら大変ですので、ほどほどに収入なり資産があった方がよいと思います。旧約聖書にも、神様にお願いする話があります。「わたしをそれほど金持ちにしないでください。そして、それほどみじめな貧しい者にしないでください。ほどほどのところでお願いします。」虫のいい話ですが、そういう祈りをささげています。イエス様のメッセージはいろいろなところで常識と合いません。合わない、というところが大事なのです。合わないのに、合っていると思って、無理矢理自分を納得させるとかえってよくないと思います。

実は今日、ここでお話しするので、幸田神父様はどう話されるのかなあと、彼がホームページに載せている「福音のヒント」をちょっと拝借しようと思って見ましたら、良いことを言っています。ホームページを閲覧できる方は見てください。「心の貧しい」という言い方は非常にまずい、誤訳といっていいくらいだ、と彼は言っています。「心が貧しい」という日本語は確かに、本当の意味を伝えないのです。むしろ「心」がない方が分かり易いです。イエスの周りに集まったのは貧しい人々でした。経済的に貧しかった人、病気の人、障害を持っている人、寄る辺のない人、なんら社会で自分を主張する手だてがない、惨めな、見捨てられた、後回しにされた、本当に情けない気持ちで生きていかなければならない人たちでした。そういう人に向かって、「あなたがた、貧しい人々は幸いだ」。全然幸いではない、この人たちは幸いだとは思っていません。幸いでない人たちに向かって、「幸いだ」と言い含めるのはインチキではないか。(宗教はインチキ臭いところがあるわけです。)

なぜ、イエスは「幸いである」と言ったのか。マタイの「天の国」は、「神の国」と同じです。普通は「神の国」=神の支配、神の支配が行われる、神が王として支配される、と説明するわけです。「神様は、あなたがたのことをよく分かっている。あなたがたは、神様の子どもであり、あなたがたの苦しみ、悩みを放っておかれるはずがない。神の国はすでに到来した。そして、神の国は完成する。その神の国に真っ先に入るのはあなたがたなのだ。」 「心の貧しい」というのはまずいので、日本語のいろいろな翻訳を見ると、「自分の貧しさを知っている人は幸い」と訳している場合もあれば、「神にだけ寄り頼む人は幸い」と訳しているものもあります。神様にしか頼れない、他のものに頼ろうと思っても、お金も、地位も、何もない。神様はそういう人を助けるのだよ、そういう人を大事に思っているのだよ、だから、あなたがたは幸いなのだと。逆に言うと、わたしたちの信じている神は、そういう神様なのだということです。

旧約聖書には「残りの者」という考えがありますが、排斥され、今にも根絶されそうな人たちが最後に残った。その残りの者から救い主、メシアが来られて、イスラエルを再興してくれる、という信仰があったようですが、イエスは、その残りの者の考え方をもっと深めて、神様というのは、本当に貧しい人、弱い人、惨めな人の神様なのだ、ということをおっしゃいました。そして、そういう人々と一緒に歩まれ、最後はご自身、最も貧しい者として十字架にかけられました。そして、そのイエスを天の父は復活させられました。そういうイエスのメッセージを、そしてその生涯を、わたしたちは福音として信じています。

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告白する側とされる側

かなり爺ィになって、恋愛などまったく興味も無いのだが、過去の記憶で書くと、モテるというのはいいことばかりではない。それは「告白してきた相手を断る」つまり、「ごめんなさい」をする側になるということだからだ。
私の数少ない経験からしか言えないが、あれは辛い経験である。告白してきた相手の気持ちを慮ると、自分が非常に残酷な行為をしていると感じる。私は記憶力が非常に弱いのだが、その相手の顔は今でも覚えている。
告白する側は、告白される側のそういう気持ちを知っているのだろうか。

吾妻ひでおの作中人物の言葉を借りれば、「モテないってのは、何て心が休まるんだろう」である。

(以下引用)某「イタコ漫画家」のツィートである。

中学・高校生のころ、イケてないオレらは、好きな人に告って、「ごめんなさい」される、ことでしか相手に気持ちを伝えられなかった。 一方イケてるヤツらは、好きな人の心を自分の方に向けさせることに長けていたから、「告る」必要もなく、楽しい青春の日々を送ってた。 この差は大きかった。(^o^;

箕輪厚介的生き方

箕輪厚介のモットーの「死ぬこと以外かすり傷」というのは、非常に気持ちの悪い言葉なのだが、案外、彼のファンは多いようだ。箕輪の生き方が「死ぬこと以外かすり傷」という生き方なのだ、と素朴に信じているのかもしれない。まあ、実際、箕輪がそのモットーを本気で信じ、そういう生き方をしているとしても、私にはこの言葉は気持ち悪い。
なぜか。それは、この「モットー」が

1:自分の「勇気」の誇示である。
2:世間の法やモラルを踏みにじる行為もあえてすることの言明である。

という2点からだ。
この第二の点は分かりにくいので、逆方面から言うと、彼のこの「モットー」は、「死ぬことだけは恐れる」という言明であり、それは昔の武士が、些細な恥辱でも、それを晴らすため(つまり、モラルを守るため)には簡単に切腹した、という(少なくとも、そう思われている)ことと正反対であるからだ。
つまり、「死ぬこと以外はかすり傷」とは、「死ぬことを避けるためなら何でもやる」の言い換えで、それはたとえば自分の命が助かるためなら仲間を裏切るとか、敵の前に命乞いの土下座をする、という行為を含むわけであり、それは第1点の「自分の『勇気』を誇示する」ことと矛盾しているわけだ。あるいは、自分の命さえ安全なら、どんな汚いことでもやる、という「美意識がまったく欠如している」性格を表している。
まあ、そういうことである。
付記すれば、箕輪厚介の言動も顔も私には昔のボクシングの「亀田兄弟」を連想させる。つまり、「恥知らず」の言動であり顔である。私個人の人相学的にはチンピラ特有の、粗暴で他人を平気で踏みつけにするが、上位の人間(兄貴分や親分)にはぺこぺこする顔である。

奴隷から経済奴隷へ

「ネットゲリラ」常連の弦巻町氏のコメントの一部だが、これは氏の推理なのか、それとも誰かの著作で知った理屈なのか。
私は西洋人種が自ら奴隷解放をしたことに興味があり、そのほうが経済合理性があったからだろうとは思っていたが、下の説明は明快だ。
「ヒューマニズム」からの奴隷解放、というのは大嘘であり、米国の解放奴隷は衣食住を失って都市に出て最下層の労働者となったわけだ。つまり、「経済奴隷」となったということで、それが現在の世界中の社畜の精神的祖先である。

(以下引用)


 古代の奴隷制度は、たしかに過酷な制度だったが、食い詰めた者にとっては、餓死するよりは債務奴隷のほうが、まだ生きるチャンスが残されていた。 
 奴隷制度が崩壊したのは、農園主にとって、食わせる義務がある奴隷よりは、契約小作人のほうが、そういう義務もないし、命令されなくても自分から首になり餓え死にするのを恐れて、奴隷の2倍働いた。

「東海アマ」氏の天皇制否定論

「東海アマ」ブログ記事の一部で、氏の「天皇制否定論」(「天皇制」という言葉自体が妥当かどうかという議論もあるが、それは措いておく。)のエッセンスのようなので参考までに転載。
私自身は天皇制肯定論なのだが、その理由は自分でもあまり見つめたことがない。まあ、前天皇ご夫妻(現上皇ご夫妻)への敬愛の気持ちがその土台にあるかもしれない。ただし、若いころの私は現上皇(当時の天皇)など、「ただの人」としか思っておらず、天皇時代の絶えざる公的活動を長年見続けて、敬愛の気持ちを抱くようになった者だ。戦前は現人神でもあった昭和天皇より平成天皇ご夫妻ははるかに神々しさを感じさせた。顔は人格を顕すのである。
下の記事は、天皇制への論考をいずれする参考として載せただけである。

(以下引用)

天皇制に関する議論も、放射能被曝と同じように完全にタブー化されていて、公的メディアも、まず絶対といっていいほど取り上げないし、検索からも排除されている。
 だが、「タブーを作る」ことの意味は、タブーを解消するポテンシャルを生み出すことであり、すなわち、タブー意識を排除しなければならない力学的必然性を生み出すことである。

 だから、ほとんどのメディアが天皇制をタブー化していることは、むしろ天皇制を廃止する力を生み出すことになる。
 天皇を神格化することは、「天皇家に人間としての自由と権利を!」という合理性、意思を生み出すことになる。神格化の嘘を排除し、真実を知りたいという欲求を拡大することになるのだ。

 私は、天皇制の存在こそが死刑制度を生み出していると、繰り返し糾弾してきた。
 
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1009.html

 天皇という合理性のない、虚構を容認することが、死刑制度という合理性のない劣悪な報復主義の制度を生み出している。
 こうした権力主義の虚構こそ、日本人の自由と人権を破壊する張本人である。
 この意味で、日本に、本当の自由と人権が来るときは、天皇制が死滅するときである。

 このとき、天皇家の人々は虚構の拘束から解放され、真実だけをよりどころにして、はじめて一市民としての権利と自由を保障されることになる。
 天皇制は、歴史と人間の合理性という観点から、死滅してゆかねばならない制度である。