忍者ブログ

独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

異常性とポルノ

私が理解できないのが、腐女子趣味という奴で、しかし女性の多くはホモに興味があるとも思われるので、その理由というか、心理を考えてみたい、というのが私の予てからの考えである。まあ、宿題的な思考テーマだ。女性はホモのセックスを見て性的に興奮するのだろうか。そしてその興奮は男女間のセックスを見る以上のものなのだろうか。
もともと女性は視覚的な刺激で興奮することはあまり無い、という説もあるので、腐女子のホモへの関心は性的(肉体的)と言うより哲学的、あるいは観念的な興奮だと思うのだが、そのツボはどこにあるのか、ということへのヒントのひとつが下のツィートではないかと思う。
つまり、「男が犯される」という状況が彼女たち腐女子を興奮させるのではないか。女が犯されるという状況もある程度は性的興奮を与えるのかもしれないが、それは男がポルノを見るのと同じ「普通の興奮」だろう。しかし、男が犯される、というのは何か別種の興奮性があるようだ。
なお、高貴な存在(姫君、女騎士、ご令嬢)や無垢な存在(処女、少女、幼女)が汚らしい存在(老人、ブ男、ヤクザ、不良、動物)に汚される、ということがポルノの定番だが、それは腐女子においても同じであるようだ。そういうサディズムとポルノとの深い関係も考察に値する。

(以下引用)

石油価格暴落により没落した石油王受け大喜利でキャッキャする腐女子たちに腐フェミが「暴落した方が受けになるのは日本特有のジェンダー観が…」とか言い出して辟易してんだけど、いや…単に没落した貴族がモブにドチャクソ犯されるの見たくない?見たいよ…
PR

生存者バイアス

「いつか電池が切れるまで」から記事の一部を転載。
心理学的に興味深い内容である。

(以下引用)


 金持ちが貧乏人に厳しい言葉を吐いて叩かれている、のかと思いきや、実際にネットで批判されているのは、「自分だって若い頃に貧しくてつらかったけれど、こんなにがんばって今は成功した。だからお前にだってできるはず。努力が足りないだけだ」という感じの「生存者バイアス的な発言」をする「つらい目にあってきた人」が多いのです。


fujipon.hatenadiary.com


この本のもとになったNHKの番組のなかで、「健康格差」についての討論が行われたそうなのですが、そのなかで、俳優の風間トオルさんがこんな発言をされています。風間さんは5歳のときに両親が離婚し、その後、父親も失踪してしまい、祖父母のもとで育てられたそうです。

 (風間トオルさんの)著書『ビンボー魂』(中央公論新社)には、小学校時代「学校が休みになる=学校給食にありつけない」や「中でも空腹との長く厳しい闘いが強いられる夏休みをどうやって凌ぐかが大問題」と書かれている。そんな時、風間さんは家の前の公園に生えている、草やタンポポアサガオを食べたりして飢えをしのいだ壮絶な体験をされている。


「国の力を借りるのは最後の最後じゃないでしょうか。国が一律で何かすることでもないですし、個人が自分で努力して解決することじゃないでしょうか。僕なんかも子どもの時、貧困というか、お金がなくて、公園の草とか食べて飢えを凌いでいました。草の匂いをかいだり、口に入れながら、『これはいける』『これはいけない』って判断していました。そうやって努力して空腹を満腹にしてきた。だから、高齢になって動けなくなった時に初めて、国の力を借りることが許されるのかなって思いますけどね……」


 ギリギリのところ、厳しい状況から自分が努力して抜け出した人ほど、社会保障を受ける他者に対して厳しい態度をみせる、というのは、けっこうありがちです。
 自分は頑張って克服したのだから、みんなできるはずだ。
 あるいは、自分だけが苦労したのでは、割に合わない、って。

健康ファシズム

「シロクマのブログ」から転載。筆者は精神科の医者だと思う。
つまり、医療者の側の人間だからマスク着用に否定的な発言は不可能なわけで、下の文章は「行間を読む」必要がある。
私が読み取ったところでは、この「マスクファシズム」「健康ファシズム」に筆者は懸念を抱いており、それは冷静な批判精神を持つ人間なら当然だと私は思う。もちろん、そういうファシズムなら結構どころか絶対に必要だ、という意見の人は多いだろうが、筆者や私が懸念するのは、ファシズムは「程よい」ところでは治まらないのであり、それこそがファシズムの特徴なのである。つまり、「一歩を譲ったら、どこまでもテリトリーを拡大していく」わけだ。

(以下引用)記事の前半部がコピーできなかった。


マスクをつけることが感染予防に貢献する仕草とみなされ、マスクをつけていないことが周囲への感染に無頓着な仕草とみなされれば、マスクをつけていない人に対する世間の目線、人々の心証は変わる。ひいては「マスクをつけるという仕草」の社会的な位置づけや意味合いも変わる。
 
たとえばヨーロッパでは、長らく、マスクをつけることは社会的に許容されない仕草だった。日本では、インフルエンザや花粉症の季節を迎えるたびにたくさんの人がマスクをつけるし、郊外汚染の激しい途上国でもマスクをつけて出歩く人は多い。しかしヨーロッパでマスクをつけて出歩くのは社会的に許容されない仕草だった。ところが今回の感染騒動をとおして、「マスクをつけるという仕草」の社会的な位置づけや意味合いが激変した。おそらくこの騒動が終わった後も、そうした社会的な位置づけや意味合いの変化は尾を引くことだろう。
 
そして日本では、冒頭で引用したツイートの方が察しておられるように、「マスクをつけるという仕草」は他人や世間への配慮、パンデミックな状況下において功利主義に適い、危害原理にも抵触しない、市民にとって望ましいものに変わりつつある。マスクをしていない人の咳き込み、マスクをしていない人のくしゃみに対する周囲の目線は、2か月前より厳しくなっている。公共交通機関において、マスク無しでくしゃみをした人に対する周囲のぎょっとした目線に驚いてしまうこともあった。
 
みんながますますマスクをつけるようになった結果として、2020年4月現在、「マスクをつけるという仕草」は感染予防に貢献するだけでなく、自分が世間に配慮している人間であること・他人に感染させるリスクを慮った道徳的人間であることをディスプレイする手段としても役立つようになっているのではないだろうか。
 
私たちは、ウイルスに狙われる自然科学的で生物学的な存在であると同時に、世間に生き、周囲からの評価や評判を意識せざるを得ない社会的な存在でもある。社会や世間に適応する個人にとって、マスクをつけて感染症対策をするということも重要だが、マスクをつけて世間体を守るディスプレイをすることも、それなりに重要なものだ。
 
そのうえ、幸か不幸か、マスクは顔につける品である。
顔は、他人の視線が集中する場所であると同時に、他人に対してメッセージを発し続ける場所でもあるから、顔の目立つ場所に装着するマスクはディスプレイの効果がとても大きい。であれば、医療関係者や為政者の意図していなくとも、マスクが他者配慮や道徳性のシンボルとしての意味合いを(勝手に)帯びることに不思議はない。
 
 

ラジオ体操にみる「健康でなければならない世の中」

 
社会や世間から「かくあるべし」という圧力がかかっている状況下では、自然科学的な目的は社会科学的な目的としばしば結託する。
 
一例として、戦前の日本で励行されていたラジオ体操を挙げてみる。
 
 

「健康」の日本史 (平凡社新書)

「健康」の日本史 (平凡社新書)

  • 作者:北沢 一利
  • 発売日: 2000/12/01
  • メディア: 新書
 
 

 ラジオ体操は、家族や職場に集う人々が全国一斉に、「同じ時間」「同じリズム」「同じ動き」で行う体操であったため、人々に連帯感を感じさせるにはたいへんよくできたものでした。簡易保険局はラジオ体操を考案する際に、「民族意識」を高める目的で行われる、チェコスロバキアの「ソコル」を手本にしたといいます。
(中略)
 ラジオ体操の広がりによって、人々の考える「健康」に一つの変化が生じました。体操や運動が「連帯感」などの精神的側面の向上も重視するようになったため、「健康」が身体に生理的な異常を持たないという意味に加えて、国民としての道徳的貢献としても要求されるようになるのです。
 簡易保険局に寄せられた感想文の中で、当時の山梨県知事鈴木信太郎は「不健康は不道徳」というタイトルの文章を寄稿します。その中で鈴木は「私の考えでは、不健康は自分一人の不幸であるばかりでなく、社会的にも不道徳であると思う」といいます。
(中略)
 さらに、「不健康は国に対してもすまないし、社会的にも不道徳である。愛国心のない人であるといっても差し支えないと思う。自身の健康に注意して、絶対病気にかからないようにするのが国家社会に対しての義務である」と述べています。
 鈴木の感想は、たんに彼一人の個人的見解であったわけではなく、この時代の雰囲気を反映したものでした。鈴木は健康になることが、国家社会に対する「義務である」といっています。つまり、この時点で私たちは、「健康になるかどうか」を自分で決定することができなくなったのです。
 たとえば、あなたが怠惰な生活を送ったり、やけっぱちや自暴自棄で不健康になることは「不道徳」として禁じられます。しかもその理由は、あなた自身を不幸から守るというよりも、国家社会に与える不利益を未然に防ぐためです。この時代の「健康」とは、いいかえれば国家に利益をもたらす献身的な行為を意味するようになったのです。
『「健康」の日本史』より

 
ラジオ体操が浸透していった頃と現在では国家の体制が違っているし、ラジオ体操による健康増進とマスクによる感染予防では目的も違っている。しかし、健康を守るべきか否かが個人の問題から社会の問題へとシフトしている点や、健康の名のもとに皆が同じ方向を向き、ある種の連帯感、いや、空気が生まれている点は共通している。
 
医療者が世間や道徳を意識しているか否かにかかわらず、こぞってマスクを着用する人々はそれらを世間の慣習と結び付け、道徳とも結びつける ── これに類することは戦前にもあったし、公衆衛生の黎明期にもあったことだから、起こる可能性の高いこと、いや、起こっている可能性の高いことだと私は踏んでいる。
 
現在の日本では、"自粛"や"要請"や"推奨"といった言葉がメディア上を駆け巡っている。表向き、どれもソフトな言葉だが、それが空気と結合する社会では個人に強い圧力を与え、私たちの慣習や感性にも大きな影響を与えずにいられない。そういう状況のなかで私たちはマスクを争うように買い求め、できるだけ着用しようと心がけている。
 
こうした状況の延長線上として、今まで以上に健康と道徳が結びついた社会、衛生と道徳が結びついた社会を連想するのはたやすい。伊藤計劃の『ハーモニー』は、そうした健康ディストピア社会を舞台とした作品だったが、今まで遠いSF世界だった『ハーモニー』が、最近はすっかり間近に感じられるようになってしまった。医療と福祉に関心と影響力とリソースが集中する状況が長く続き、そこに道徳や功利主義や危害原理が結びついたままの状況も長く続いたとき、どういう社会の地平が待っているのか。考えると怖くなる。もう、SFの気分でそういうことを考えられない。

密教とは何か

広済寺ホームページから転載。
素晴らしい記事である。私は仏教信者ではないが、仏教の簡単な歴史が理解できるのは嬉しい。
密教というのがどういうものなのか、まさに腑に落ちる説明だ。

(以下引用)

密教とは

 密教が成立し体系化されたのは、お釈迦様の入滅後1000年以上も経た7世紀のことである。密教はそれまでの顕教、すなわち明瞭な言葉で説く通常の仏教に対し、非公開な秘密の教義と儀礼を、師匠から弟子へと秘密裏に伝え持とうとする仏教である。

 神秘主義を好むインドにあって、当初の仏教は神秘主義を排除したといえる。ところが、この密教はインド古来のバラモン教の神秘主義的な要素を仏教に取り入れたものだ。秘密裏の相承形態もバラモン教の特徴である。

歴史的背景

 初期の仏教においては神秘的なものを排除しつつも、神々による不思議な力というものは認めていた。
 やがて、初期大乗時代に成立した『般若経』『法華経』などにも一部に呪文が登場する。2~3世紀頃になると呪文を中心とする単独の除災経典も成立する。6世紀までのこれら密教への発展過程ととらえるむきもある。

 しかし、何故インド仏教は密教化しなくてはならなかったのか。
 クシャーナ王朝(1世紀半ば~3世紀前半)までのインドでは仏教は盛んだった。その時代は東西貿易でローマ帝国より莫大な金が流入して経済は栄えていた。

 しかし、中央集権的にインド全体を統一したグプタ王朝(320‐550年頃)はヒンズー教を国教にしたので、仏教はそれなりの勢力を保持しつつも苦難の時代を迎える。
 さらに、西ローマ帝国の衰退と滅亡(476)により東西貿易が衰退し経済は衰退した。それにともない、仏教を支えた商業資本とそのギルドは衰退した。相対的に王権が強くなり、宗教上もその統制力が強くなる。
 都市のギルドの弱体化によって、相対的に農村に基盤をおくヒンズー教が優勢となり、やがて圧倒的となる。国王も彼らバラモンの意見を聞かざるを得ない状況となり、あるいは積極的にバラモンを利した。
 ヒンズー教が圧倒的になり仏教はその影響を受けた。また、ヒンズー教が圧倒的な社会となったため、仏教には適応策が必要となった。そして、ヒンズー教に妥協し、その民間信仰を受け入れざるをえなくなった。

インド仏教滅亡へ

 仏教はヒンズー教の一派のタントリズム(Tantrism タントラ教)の秘密の教義体系を受け入れた。それが密教となる。密教は呪文(真言・陀羅尼)、手の印相、曼荼羅を用いて修行の目的を達成しようとした。教義、儀礼は秘密で門外漢には伝えない特徴をもつ。これはヒンズー教化した仏教である。その結果、ヒンズー教の要素が増えて、ヒンズー教との区別がつかなくなってきた。それはインドで仏教が滅亡する致命的な原因の一つとなってしまう。

 7世紀に至って『大日経』『金剛頂経』といった体系的な密教経典が成立する。そして、宗教体験の絶対世界を象徴的に表現する曼荼羅が生み出される。それ以後のインド仏教は密教が盛り上がるのであるが、12世紀末頃を最後にインド仏教は消滅してしまう。
 イスラム教により滅ぼされたということも理由ではあるが、仏教が密教化したこともインド仏教滅亡の大きな理由だ
 仏教の密教化は、言い換えれば仏教のヒンズー教化である。ヒンズー教の側でも仏祖のお釈迦様をクリシュナ神の化身として崇めたりするものだから、仏教の存在意義がなくなったのではないだろうか。

密教の問題点

 密教は素晴らしい仏教である。歴史的には仏教発展の最終モデルともいえなくはない。しかし、その密室の相承や秘密の教義は時として危険な教義の発生や儀礼を実践することも可能にしてしまった。

 密教はインドでおこったもののお釈迦様の入滅後1000年以上経ってからの成立である。仏教が発展した最終モデルであると同時に、お釈迦様から最も遠い教えであることは事実であろう。

 展開には良い面と悪い面が有ると思う。良い面は、お釈迦様の入滅後1000年以上経ってからの仏教であっても取り入れるべきである。しかし、良くない面は捨てなくてはならない。
 そもそも、歴史上のお釈迦様は秘密の一子相承などしただろうか。それは長男か信頼できる弟子にしか相伝しなかったウパニシャッドの哲人の相承形態ではないか。

 歴史上のお釈迦様は秘密の儀式や修法などしただろうか。お釈迦様は伝統的なインドの古代宗教にとらわれず、自由な思索によって、生きるうえで避けて通れない苦しみという問題に対して教えを説かれたのである。その仏教の原点にたちもどって、密教を検証しなくてはならない。




「密教」の(?)「三密」

この中の「仏と同じくする」というのが分からない。文脈からすると「密」は「慎む」意味だと思われるが、釈迦など、言葉を慎まなかったから旧宗教に迫害されると同時に偉大な教祖になったのではないか。膨大な仏典も、釈迦の教えが元になっているわけで、釈迦が言葉を慎んでいたら仏教など存在しない。
もうひとつの疑問だが、この「三密」は仏教全体ではなく密教だけに限定される教えのだろうか。また、そもそも、密教とは「顕教」の反対で、その教えを外部に秘したから「密教」だったと思う。その教えを外部に教えていいのか、という疑問もある。

(追記)一応調べてみたら、どのネット辞典も同じような説明で、「密」は「慎む」意味ではないようだ。では、「仏と同じくする」というのはどういう意味なのか。そこを説明しないと話をする意味がないだろう。「仏と同じくする」なら「秘密の三業」であるより、より多くの人に知られるべきものではないのか。まあ、宗教の秘密主義は商売のための作戦なのだが。
また、「三密」は主に密教で言われるようだ。


日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

仏教用語。秘密の三業(さんごう)(身(しん)・口(く)・意(い)によって行われる理想的行為)の意。すなわち身密・語密(口密)・意密(心密)の三で、おもに密教でいう。顕教(けんぎょう)では、凡人では推し測れない仏の三業をいうが、密教では、仏の三業は体(たい)・相(そう)・用(ゆう)の三大のなかの用大(真如(しんにょ)の働き)であって、衆生(しゅじょう)の三業もまたその隠された本性においては仏の三業とまったく同じであるとして三密という。[小野塚幾澄]




(以下引用)


蝉丸P@「住職という生き方」星海社新書・発売中
@semimaruP
それはそれで話の枕にはなるかなと>RT
「え~昨今3密と申しますと密閉、密集、密接だそうでございますが、密教では三密と言えば身と口と心を仏と同じくするというもので、我々は普段は身と口と心で業を積んでしまう三業が基本なんですが、これを転じて仏と同じくするのが三密でして…」みたいな