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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

密教とは何か

広済寺ホームページから転載。
素晴らしい記事である。私は仏教信者ではないが、仏教の簡単な歴史が理解できるのは嬉しい。
密教というのがどういうものなのか、まさに腑に落ちる説明だ。

(以下引用)

密教とは

 密教が成立し体系化されたのは、お釈迦様の入滅後1000年以上も経た7世紀のことである。密教はそれまでの顕教、すなわち明瞭な言葉で説く通常の仏教に対し、非公開な秘密の教義と儀礼を、師匠から弟子へと秘密裏に伝え持とうとする仏教である。

 神秘主義を好むインドにあって、当初の仏教は神秘主義を排除したといえる。ところが、この密教はインド古来のバラモン教の神秘主義的な要素を仏教に取り入れたものだ。秘密裏の相承形態もバラモン教の特徴である。

歴史的背景

 初期の仏教においては神秘的なものを排除しつつも、神々による不思議な力というものは認めていた。
 やがて、初期大乗時代に成立した『般若経』『法華経』などにも一部に呪文が登場する。2~3世紀頃になると呪文を中心とする単独の除災経典も成立する。6世紀までのこれら密教への発展過程ととらえるむきもある。

 しかし、何故インド仏教は密教化しなくてはならなかったのか。
 クシャーナ王朝(1世紀半ば~3世紀前半)までのインドでは仏教は盛んだった。その時代は東西貿易でローマ帝国より莫大な金が流入して経済は栄えていた。

 しかし、中央集権的にインド全体を統一したグプタ王朝(320‐550年頃)はヒンズー教を国教にしたので、仏教はそれなりの勢力を保持しつつも苦難の時代を迎える。
 さらに、西ローマ帝国の衰退と滅亡(476)により東西貿易が衰退し経済は衰退した。それにともない、仏教を支えた商業資本とそのギルドは衰退した。相対的に王権が強くなり、宗教上もその統制力が強くなる。
 都市のギルドの弱体化によって、相対的に農村に基盤をおくヒンズー教が優勢となり、やがて圧倒的となる。国王も彼らバラモンの意見を聞かざるを得ない状況となり、あるいは積極的にバラモンを利した。
 ヒンズー教が圧倒的になり仏教はその影響を受けた。また、ヒンズー教が圧倒的な社会となったため、仏教には適応策が必要となった。そして、ヒンズー教に妥協し、その民間信仰を受け入れざるをえなくなった。

インド仏教滅亡へ

 仏教はヒンズー教の一派のタントリズム(Tantrism タントラ教)の秘密の教義体系を受け入れた。それが密教となる。密教は呪文(真言・陀羅尼)、手の印相、曼荼羅を用いて修行の目的を達成しようとした。教義、儀礼は秘密で門外漢には伝えない特徴をもつ。これはヒンズー教化した仏教である。その結果、ヒンズー教の要素が増えて、ヒンズー教との区別がつかなくなってきた。それはインドで仏教が滅亡する致命的な原因の一つとなってしまう。

 7世紀に至って『大日経』『金剛頂経』といった体系的な密教経典が成立する。そして、宗教体験の絶対世界を象徴的に表現する曼荼羅が生み出される。それ以後のインド仏教は密教が盛り上がるのであるが、12世紀末頃を最後にインド仏教は消滅してしまう。
 イスラム教により滅ぼされたということも理由ではあるが、仏教が密教化したこともインド仏教滅亡の大きな理由だ
 仏教の密教化は、言い換えれば仏教のヒンズー教化である。ヒンズー教の側でも仏祖のお釈迦様をクリシュナ神の化身として崇めたりするものだから、仏教の存在意義がなくなったのではないだろうか。

密教の問題点

 密教は素晴らしい仏教である。歴史的には仏教発展の最終モデルともいえなくはない。しかし、その密室の相承や秘密の教義は時として危険な教義の発生や儀礼を実践することも可能にしてしまった。

 密教はインドでおこったもののお釈迦様の入滅後1000年以上経ってからの成立である。仏教が発展した最終モデルであると同時に、お釈迦様から最も遠い教えであることは事実であろう。

 展開には良い面と悪い面が有ると思う。良い面は、お釈迦様の入滅後1000年以上経ってからの仏教であっても取り入れるべきである。しかし、良くない面は捨てなくてはならない。
 そもそも、歴史上のお釈迦様は秘密の一子相承などしただろうか。それは長男か信頼できる弟子にしか相伝しなかったウパニシャッドの哲人の相承形態ではないか。

 歴史上のお釈迦様は秘密の儀式や修法などしただろうか。お釈迦様は伝統的なインドの古代宗教にとらわれず、自由な思索によって、生きるうえで避けて通れない苦しみという問題に対して教えを説かれたのである。その仏教の原点にたちもどって、密教を検証しなくてはならない。




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「密教」の(?)「三密」

この中の「仏と同じくする」というのが分からない。文脈からすると「密」は「慎む」意味だと思われるが、釈迦など、言葉を慎まなかったから旧宗教に迫害されると同時に偉大な教祖になったのではないか。膨大な仏典も、釈迦の教えが元になっているわけで、釈迦が言葉を慎んでいたら仏教など存在しない。
もうひとつの疑問だが、この「三密」は仏教全体ではなく密教だけに限定される教えのだろうか。また、そもそも、密教とは「顕教」の反対で、その教えを外部に秘したから「密教」だったと思う。その教えを外部に教えていいのか、という疑問もある。

(追記)一応調べてみたら、どのネット辞典も同じような説明で、「密」は「慎む」意味ではないようだ。では、「仏と同じくする」というのはどういう意味なのか。そこを説明しないと話をする意味がないだろう。「仏と同じくする」なら「秘密の三業」であるより、より多くの人に知られるべきものではないのか。まあ、宗教の秘密主義は商売のための作戦なのだが。
また、「三密」は主に密教で言われるようだ。


日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

仏教用語。秘密の三業(さんごう)(身(しん)・口(く)・意(い)によって行われる理想的行為)の意。すなわち身密・語密(口密)・意密(心密)の三で、おもに密教でいう。顕教(けんぎょう)では、凡人では推し測れない仏の三業をいうが、密教では、仏の三業は体(たい)・相(そう)・用(ゆう)の三大のなかの用大(真如(しんにょ)の働き)であって、衆生(しゅじょう)の三業もまたその隠された本性においては仏の三業とまったく同じであるとして三密という。[小野塚幾澄]




(以下引用)


蝉丸P@「住職という生き方」星海社新書・発売中
@semimaruP
それはそれで話の枕にはなるかなと>RT
「え~昨今3密と申しますと密閉、密集、密接だそうでございますが、密教では三密と言えば身と口と心を仏と同じくするというもので、我々は普段は身と口と心で業を積んでしまう三業が基本なんですが、これを転じて仏と同じくするのが三密でして…」みたいな


















二項対立思考でしか考えられない人々

私は、当たり前のことを事々しく言う癖があるが、それは世間の多くの人間は、当たり前のことも理解していないのが普通だと思っているからだ。かつての自分自身を振り返れば、そう思う。で、べつに今が昔の自分より進歩している保証は無い。とすれば、常に、「当たり前」を大事にして生きていくのは当たり前だろう。
たとえば、「敵の敵は味方」という言葉がある。これが大嘘であり、数学的に成り立たないことは少し考えれば誰でも分かる。敵の敵は自分にも敵かもしれない、というのは「三項対立」の図式を考えれば「当たり前」である。それを、「敵の敵は味方」と信じるのは、「そうであってほしい」という願望が事実の認識を歪めるのである。これは、「敵と味方」という二元論で考えてしまうからだろう。
現実は直線でも平面でもなく三次元なのである。右と左で全部がくくれるわけではなく、上と下もある。左だ右だと争っている構図を「上」はせせら笑って眺めているわけだ。もちろん、「上と下」という構図も二項対立思考であり、上の中にもまた上と下がいるし、下の中にも上と下がいる。そうすると、上の中の下は下の味方になる可能性があり、下の中の上は下の敵になる可能性がある。さらには、上でも下でも右でも左でもないという立場もある。世の中はそういうものだが、いったん党派で区切られると思考が単純化されてしまうのである。

二・二六将校と連合赤軍兵士

混沌堂主人さんの新しいブログ(覚えにくいブログ名なので、名前を書けない)からの転載で、引用先は「金玉満堂」ブログという、厭らしい名前のブログらしい。下ネタだろうが、カネのことだろうが、汚い名前だ。
しかし、ここに引用された山本七平の「二・二六将校」と連合赤軍兵士の精神的類似の指摘は実に卓見だと思う。私も昔、連合赤軍について論文を書きたい気持ちがあったが、書かなくてよかった。彼らの精神は幼稚の極みである。

(以下引用)

山本七平bot @yamamoto7hei
①二・二六の将校、特にその推進者は、一言にしていえば中隊付将校、すなわち「ヤリクリ中尉」であり、その社会的な位置は、はたちを少し越えた最下級の貧乏サラリーマン、それと最末端の管理職、課長というより係長ともいうべき「ヤットコ大尉」である。<『私の中の日本軍(上)』
  2013-12-07 00:39:01
山本七平bot @yamamoto7hei
②しかし「幼年学校」出の彼らの自己評価においては、天皇制ラディカルとして日本の根元を問い、それに依拠して一大革新を行うべき、自己否定に徹した革命家であった。
  2013-12-07 01:08:50
山本七平bot @yamamoto7hei
③だがその中の典型とも言うべき中橋基明中尉の言動を見ると、異常に高い自己評価と異常に低い社会的評価との間の恐るべきギャップが、このエリート意識の強い一青年を狂わしたとしか、私には思えない。
  2013-12-07 01:38:59
山本七平bot @yamamoto7hei
④そういう状態に陥ってしまえば、もう何も知ることができなくなる。
社会のことも自分のことも、また彼の専門であるはずの軍事すらも――
そして自分が何も知らないということすらわからなくなって、ただただ異常な高ぶりの中だけで生きている。
  2013-12-07 02:08:51
山本七平bot @yamamoto7hei
⑤そのため全てをただ不当だと感じ、怒り、幼児のように幻想を見、それに酔い、大言壮語し、感情を高ぶらせ、悲慣懐慨するだけになってしまうのである。
一度こうなると、その人々はもう外部のどんな事をも「知る事」が出来ず、目の前に起っている事を「見る事」もできなくなってしまう。
  2013-12-07 02:38:59
山本七平bot @yamamoto7hei
⑥そしてすべてを、その集団内の自己評価と相互評価に適合するように変形して受けとってしまう。
日本軍の将校はそうであった。
彼らは、目の前に起っていることが見えないのである。
  2013-12-07 03:08:51
山本七平bot @yamamoto7hei
⑦私と親しかったN兵長は…ノモンハンの生き残り、九州人で自ら「砲を捨てて逃げヨッタ敗残兵デスタイ」と称していたが、彼が何よりも驚いたことは、当時の関東軍の「偉力人」がソヴィエト軍についても近代戦についても「何一つ知リヨラン」だけでなく「何一つ見ヨラン」ことであった。
  2013-12-07 03:38:56
山本七平bot @yamamoto7hei
⑧もちろんこれは、アメリカ軍についても「何一つ知リヨラン」「何一つ見ヨラン」ことへの驚きと共に思い出したことで、そこでも、目の前で起っていることが何一つ見えないのである。
  2013-12-07 04:08:51
山本七平bot @yamamoto7hei
⑨「大本営チュートコは、気違イとメクラの寄り集リジャロカ、ありゃみんな偉力人のハズに」と――
確かに彼の目の前にある現実は、その「偉力人」が現実を「見ヨラン」で「知リヨラン」が故に起ったことであった。
  2013-12-07 04:39:03
山本七平bot @yamamoto7hei
⑩新聞等で「あさま山荘の銃撃戦」や「ロッド空港の乱射」に対する、赤軍派やそのシンパといわれる人々の「評価」などを読むと、ただただ自己評価の中に閉じこもっており、それは「何一つ見ヨラン」「何一つ知リヨラン」という彼の言葉を思い出させる。
  2013-12-07 05:08:52
山本七平bot @yamamoto7hei
⑪赤軍派の移動の仕方が「ゲリラ教範」に反すると獄中から批判した同志がいたが、それを読むと、彼らが知っているのは、ただ「ゲ」「リ」「ラ」という三文字の力タカナだけで、それをただ彼らの自己評価への裏づけとして使っているにすぎず「何一つ見ヨラン」「知リヨラン」のである。
  2013-12-07 05:38:56
山本七平bot @yamamoto7hei
⑫北部ルソンにも、現地人グーシンと米人ヒントンに率いられたゲリラがいたが、その実態は、赤軍派などとは似ても似つかぬものである。
ゲリラの戦士は、女づれのモヤシとは関係ない。
彼らはただ彼らの間だけで通用する相互評価と自己評価においてゲリラであると夢想しているに過ぎない。
  2013-12-07 06:09:09
山本七平bot @yamamoto7hei
⑬「あさま山荘の銃撃戦」も同じである。
独特の表現を連ねた、全く正気とは思えないような大仰な「評価」があるが、簡単に言ってしまえば、あれは「戦い」でも「銃撃戦」でもない。
戦場なら五分で終り全員が死体になっているだけである。今ならバズーカ砲、昔なら歩兵砲の三発で終りであろう。
  2013-12-07 06:39:00
山本七平bot @yamamoto7hei
⑭…砲兵が出る幕ではない。
だがこれも、彼らだけで通用する「評価」では、
「権力に対して徹底的に戦い」
「その戦いを全世界に知らしめた」
大戦争になってしまう。
  2013-12-07 07:08:55
山本七平bot @yamamoto7hei
⑮また前述の「週刊文春」の記事でも、岡本公三は
「これはテロ事件ではない。革命戦争なのだ……自分は革命戦争の先兵なのだ」
というわけだが、
「どの方向へ撃ったかわけがわからず」
「事件直後、極度の興奮からヒステリー状態で口もきけないほどだった」
という。
  2013-12-07 07:39:06
山本七平bot @yamamoto7hei
⑯これでは、応射されたら腰を抜かしたことだろうし、第一、危くってそばにおいておけない。
こんな兵士は私は見たことがない、
これで兵士だの先兵だの戦争だのとは、全く恐れいった自己評価である。
  2013-12-07 08:08:59
山本七平bot @yamamoto7hei
⑰だが以上のように言えば言う程、彼らは自己評価の枠の中に引込み、絶対に耳を傾けようとしなくなる。
それはかつての青年将校も同じであった。
そしてこの自己評価と彼らの内部だけで通用する相互評価が、社会の評価から隔絶すればする程、これもまた一種の呪縛となって彼らを規制していく。
  2013-12-07 08:39:03
山本七平bot @yamamoto7hei
⑱しかし現実の生活では最低サラリーマンであり、その下の下士官は、職業人とすら認められない。
この緊張関係は、内部へか外部へかは別として、いつかは彼らを決起させ、その自己評価を社会に認証させねば耐えられないものになっていく。
彼らがせざるを得ないことは、それだけなのだ。
  2013-12-07 09:08:57
山本七平bot @yamamoto7hei
⑲認証させればよいのだから、それ以後のことなど彼らが考えているはずがない。
従って、二・二六の将校に何ら「決起後の改革のプラン」がなかったのはあたりまえのことで、そんなものは、はじめからあるはずがない。
  2013-12-07 09:38:59
山本七平bot @yamamoto7hei
⑳岡本公三も同じで
「あとのことは後継者がやってくれると信じている。
……後をついでいってくれる者たちが出てくると思う。
自分たちの死は無駄にはならない」
のである。
  2013-12-07 10:08:57
山本七平bot @yamamoto7hei
①二・二六の将校は、決起後のある一時期、時間にすれば僅か十数時間だが陸相や軍事参議官と対等に渡り合う事によって、この自己評価を社会に認証させえた。
そしてそれが崩れ去った後でも、最後まで彼らが求めたものは「勅使御差遣」という「自己評価への認証」であり、それが全てだった。
  2013-12-07 10:39:06
山本七平bot @yamamoto7hei
②テルアヴィヴの二人も同じであろう。
大学といわゆる学生運動の中だけでしか通用しない相互評価と自己評価の中で彼らは生きてきた。
だが例えその中では「ゲリラ」であり「パルチザン」であり「革命の戦士」であっても、それは集団内あるいは大学内でしか通用しない<『私の中の日本軍(上)』
  2013-12-07 11:08:58
山本七平bot @yamamoto7hei
③社会は彼らをかつての下士官以下にしか扱わず、一人の社会人・職業人としてすら認めようとはしない。
しかしそうされればされる程、自分をそう扱う人々を「めしいたる民」と軽蔑し、反発し、無視し、(続
  2013-12-07 11:38:59
山本七平bot @yamamoto7hei
④続>一方、自分の自己評価を認証してくれた者(または、くれたと誤認した者)の指示なら、地の果てにまで飛んで行き、何でも指示通りに行うようになる。
アラブ・ゲリラは彼らをグリラとして扱ってくれた。
これは彼らの自己評価への認証である。
それで十分である。
  2013-12-07 12:08:59
山本七平bot @yamamoto7hei
⑤言葉が通じようと通じまいと、そんな事は問題である筈がない。
元来彼らの言葉は昔の軍隊と同様にそのグループ以外には誰にも通じないし、通じなくする事によって自己評価を保ってきたのだから通じない方がいい。
まして「現地の実情」や「パレスチナ問題への理解」などそんな事は関係がない。
  2013-12-07 12:39:04
山本七平bot @yamamoto7hei
⑥二・二六の将校だって「自己評価」と自分たちだけの言葉の中に閉じこもって、日本の実情など何一つ知らなかったし、認めなかったし、フィリピンにとび込んでいった日本軍は、テルアヴィヴの二人同様、現地のことなど何一つ知らない。
現地の言葉が話せる将校すらいない。
同じことである。
  2013-12-07 13:08:57
山本七平bot @yamamoto7hei
⑦「東亜解放」とか「世界同時革命」とかいう言葉で、相手が自分達の自己評価を認証してくれている筈だと、勝手にきめこみ、一方的に連帯しているつもりだけなのである。
アラブ・ゲリラから武器と命令を渡された時が、彼らにとって、本当に自己評価が認証されたと感じた時であったろう。
  2013-12-07 13:39:02
山本七平bot @yamamoto7hei
⑧それだけのために、と言って彼らを笑う資格がだれにあろう。
同じことをやってきたではないか。
それらが、個人として行われようと、集団として行われようと、一国家として行われようと、自らの現状を、自ら冷たい目で見る勇気のない者が常に行なってきたことではないか。
  2013-12-07 14:08:58
山本七平bot @yamamoto7hei
⑨日本の軍人は、日本軍なるものの実状を、本当に見る勇気がなかった。
見れば、だれにでも、その実体が近代戦を遂行する能力のない集団であることは明らかであり、従ってリップサービスしかしない社会の彼らに対する態度は、正しかったのである。
  2013-12-07 14:39:04
山本七平bot @yamamoto7hei
⑩社会は能力なき集団に報酬を払ってはくれない、昔も今も、いつの時代も。
結局彼らが「何一つ見ヨラン」「何一つ知リヨラン」となったのは、相手ではなく、自分を「見る」勇気がなかったからである。
赤軍派を生み出した一つの集団も恐らくは、同じように自分を見る勇気がないだけに相違ない。
  2013-12-07 15:08:56
山本七平bot @yamamoto7hei
⑪そしてMさんのような人が、偶然その集団に入って行ったらきっと言ったに相違ない、
「あれじゃ―ね。テルアヴィヴの二人が出るのはあたりまえだよ……」
  2013-12-07 15:38:59

「天皇」をなぜ「スメラミコト」と言ったか

まだ思想が熟していないのだが、「天皇」の和語を「スメラミコト」というのを、学者の多くは「澄む」と「御言葉」が語源だとみなしているようで、私はそれに違和感を持つ。
そもそも、「澄む」が語源なら、「スメラ」の「ラ」は何なのだ。「澄む」の活用語尾に「ら」など存在しないだろう。落語の「ちはやふる」ではないが、「ら」くらいまけろ、と言われても、「いや、まからねえ。説明しろ」である。
それに、「ミコト」の語源が「御言葉」だというのもかなり怪しい。「天(神)の御言葉を伝える」存在だというのなら、天皇はただの「ミコトモチ(国司)」(天皇の御言葉を持ち伝える者)の同類ではないか。「ミコトモチ」の「ミコト」と「スメラミコト」のミコトが同じだとは信じがたい。そもそも、日本書紀や古事記で天皇は神意を問うのに臣下や巫女などのアドバイスを受けており、天皇自身に天の御言葉が下る例は少ないのではないか。いや、「天皇」とは、天の代理人ではなく、「天皇自身が天の王である」という意味だろう。まあ、「天」とは何か、というのはまたいずれ考えたい。
「み」が「御」であるのは最上位の存在への敬意を示す意味で妥当である。
私は、「こと」は「言」ではなく、「事」ではないか、という可能性を考えている。
「物」と「事」の違いは、「物」が物質的存在であるのに対し、「事」は「行為、力の作用」の意味合いが強いことだと思う。言い換えれば「力」である。天皇の「霊力」(と仮定される権威)を「こと」と言ったのではないか、というのが私の考えだ。
で、「すめら」に戻ると、これは今は不人気な説だが、一部で言われるように「すべる(統治する)」が天皇の本質を表すものとして最適なのではないか。ちゃんと「ら行」の語尾もある。「め」は「べ」の音便変化だろう。
つまり、「この世を統治なさる偉大なお力」というのが「すめらみこと」の意味だったのではないか、というのが私の考えである。
ただし、「皇祖」のことを「すめろぎ」と言うのはなぜか、それはまだ考えていないが、「ぎ」は「基」ではないか、という気もする。そのころには漢文も知られていたから、「基」が音読みされてもおかしくないと思う。