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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「IQ」をどう考えるか

「ネットゲリラ」愛読者コメントの常連、tanuki氏のコメントだが、IQ一般に関するこの認識はわりと正しいのではないか。つまり、平均が100くらいと大多数の人は思っているだろうが、90前後というのが正しい認識だろう。これは100という数字の「切りの良さ」からくる錯覚だと思う。実際、かなり優秀な人間でも150を超えることは滅多に無いわけで、外国だとIQ平均が80とかされている国もあるようだ。東南アジア各国は比較的IQが高いらしい。それでも90より少し上という程度だったと思う。北欧の国々など知性が高そうだが、東南アジアよりは低いようだ。

私が自分の知能に絶望したのも、中学1年くらいにやったIQテストの結果が110少ししかなかったからで、当時は100が平均と思っていたからである。しかし、90くらいが平均なら、さほど絶望する必要はなかったわけだ。まあ、誇るほどではないから、謙虚にその結果を受け入れれば良かっただけの話だ。
なお、「小学校の成績は知的能力よりも只の習慣です」というのもその通りで、中学以上になると、真面目に課題をこなすだけでは通用しなくなってくる。しかしまた、知的能力というのは可変的なものでもあり、「物事を徹底して考える習慣」のある人間は、多少IQは低くても、学問的分野でも大成できると思う。

(以下引用)



日本人はかつてIQの平均スコアが比較的良かったはずだがそれでも100はなくて90プラスアルファですな。

クラスの秀才君みたいなのは大体110前後くらいで、140くらいあると教育委員会に確か報告してたんじゃなかったか。ただこういうの学校に一人くらいいるが必ずしも勉強ができるわけじゃない。まあ変な子扱いですな。小学校の成績は知的能力よりも只の習慣です。

安倍晋三くらいの軽い知的障害(一応形だけは受け答えできる。意味は伝わっていない)のは80前後ですな。70以下になってくると明らかに相手にこいつアホだなというのがわかる。刑務所だとか底辺職種によくいるタイプです。

私の印象だと小泉進次郎というのは安倍よりかなりアホな感じがしますな。安倍は元は激悪だが多少は教育の効果(失敗だが)多少みられるが、変人小泉が家庭教育に熱心なんてこともないだろうし。

まあ世襲議員は世代が増すたびに知的能力が低下していく。痴民党の根治できない病ですな。






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八切史観とは何か

八切止夫の「切腹論考」にはいろいろと示唆的な事が書かれているが、まだ全部読んではいない。以下の文章は、八切氏の発言ではなく、それに触発された私の妄想である。

とりあえず、「八切史観」は、日本史とは日本原住民と大陸系侵略者の闘争史である、という思想だと見ていいのではないか。武士や非人などは日本原住民で、公家や朝廷は大陸系であるわけだ。
そして、大陸系侵略者が原住民宣撫工作として用いたのが仏教だったわけである。
つまり、聖徳太子の頃が、その闘争の一番最初のものだったと思われる。蘇我氏が大陸系の中心で、その神輿に担いだのが今の皇室の祖だろう。
征服された日本原住民がエタ・ヒニンやサンカとなり、百姓(八切氏は原住民の中の「投降者」だと見ているようだが)となり、その中で武技(屠殺の技)を持つものから武士が生じたわけで、武士は公家の下働きであり下層階級だった。
仏教は「まつろわぬ民」を精神的奴隷にするための手段だったわけである。単なる手段だから、公家や皇室も本気で仏教を信じてはいない。だから、古来の日本神話伝説を「古事記」や「日本書紀」では採用したわけだ。また、「神道」というものも、べつに存在していなかっただろう。単なる地方地方の土俗風習や迷信が総合されて「日本神道」になっただけで、大陸系侵略者への反発から「神道」というものを仏教に対抗して作ったのだと思う。

織田信長の仏教嫌いというのも、鎌倉武士が仏教の中で禅宗だけを採用したのも、八切史観で納得がいく。なお、「八幡神」は、武家の守護神だが、「ハチ」は日本原住民に与えられた名称だと「切腹論考」ではされている。

ところで、初期の仏教の教えというのがどんなものだったか、よく分からない。般若心教的な「哲学」でなかったことは確かだろう。仏像の荘厳さで恐れ入らせる類のものだったかと思う。仏教の真髄を理解していたのは聖徳太子くらいではなかったか。
彼の「世間虚仮、唯仏是真」とは、現実(外界)は虚構であり、虚構(心が作り出すもの)こそが真の現実である、と私は解釈するが、それは私と同じ思想である。外物は、心の中で受容されることで現実化されるわけだ。それは、心が現実を作る、と言っていい。
ところで、「仏(佛)」とは何か、と言えば、それは漢字から判断するしかない。「弗」とは、「非ず」の意味で、ニンベン(人)にこれが付くわけだから、「人に非ざるもの」となる。つまり、「人であることから脱却すること」が「仏道」だとなる。一般には、人としてのすべての迷妄から脱却することだろうし、また六道輪廻から脱却すること、あらゆる欲望(愛情も欲望である)から脱却することである。つまりは「超人」となる道であり、「祖佛を殺す」禅宗などもその意味では仏教であるわけだ。

「書くこと」「問題とその解決」

私は、自分が嫌なことはしないという主義なので、ブログはもちろん趣味で書いている。書くことによって考えが生まれてくるので、書くのに苦労は無いし、だから長く続いている。これが、義務で書いていたら、毎日が苦痛だろう。
で、書くことで考えが生まれるというのは、「徒然草」でも、「筆取れば物書かれ」と書いているとおりで、書くことが次の考えを連想的に生み出すのである。
これが、「最初から設計図を作って書く」のだと、書く楽しみがあるのかどうか。
児童文学どころか世界文学の最高峰のひとつと私が見ている「不思議の国のアリス」は、ボートで川遊びをしながら、思いつきで語り始めた話が原形であるらしい。そして、アリスを兎の入った穴の中に落とした後どうするか、その時点ではまったく考えていなかったと言う。「不思議の国のアリス」の奇想天外さ、予想することすら思いもさせない展開は、そこに理由があったのかもしれない。
かりに私が物語を書くとしたら、その作品もそういうものでありたいものだ。

ついでに言っておけば、私は「推理小説」があまり好きではない。登場人物が、話のために存在するだけの操り人形でしかないように思えるからだ。そのキャラも、キャラ作りのために特徴を付与されただけの作り物に思える。まあ、そうでない作品もあるにはあるが、とにかく、「謎のための謎」というのが馬鹿馬鹿しい。謎は無くても、読者を考えさせ、先を読み進めたい気持ちにさせる小説が理想である。
そうは言っても、謎というものは物語の先を読み進めたい気持ちにさせるもの(私はこれを「小説エンジン」と言っている。)の最大のものではあるだろう。謎と言わずに「どう解決されるか気になる問題」と言うほうがより適切か。たとえば、「高慢と偏見」を先へ先へと読み進めさせる小説エンジンは、ベスとダーシーはどうなるのか、という「問題」の解決を知りたいという気持ちだろう。そういう意味では、恋愛小説と推理小説とはさほど大きな懸隔は無いとも言えそうだ。

「マグカップに六分目」説

生活の知恵というより、人生の基本思想、あるいは生活設計みたいな話なのだが、「コーヒーはマグカップを使い、六分目くらい入れるのを原則とする」のがいいのではないかと思う。つまり、必要な時は八分目九分目くらい入れるが、普段は六分目くらいで使うということだ。
我々がコーヒーを飲む時、実は最初の一口二口で満足の九割は得ていると思う。後は惰性で飲むだけで、三分の一から五分の一くらいは冷めてしまってから飲むのではないか。それではコーヒーの真の味わいは無くなっているわけである。つまり、マグカップになみなみと入れることで、かえってその機能(大きさという機能)がマイナスになっているわけだ。
会社なども、人員や仕事内容に余裕が無いと、少しのアクシデントで会社機能がストップし、倒産してしまう。それを「自転車操業」と言う。つまり、常に漕いでいないと倒れるわけだ。
「SHIROBAKO」は素晴らしいアニメだったが、アニメ制作会社のこの「自転車操業」を肯定しているような印象もあり、会社の危機は一部の人間の怠慢や我儘から来るという間違った印象を与える可能性もある。それなら、無数のアニメ会社の倒産や経営危機は常に人災なのか。そうではなく、「自転車操業」が平常運転であるという、その体質そのものが根本原因だろう。それが、アニメーターその他の異常な低給与にも結び付いているわけだ。誰かが搾取しているから下が低給与だというわけでもないと思う。
ただし、危機に追い込まれないとその人間の潜在能力は開花しない、ということもおそらく事実であり、私などは、その潜在能力(笑)を一度も開花させずに一生を終わるのではないかと思っているが、私のように気が弱い人間だと、若いころに追い込まれると簡単に自殺したような気もする。
まあ、そこで「マグカップに六分目」説を出したのである。


人は社会と隔絶して生きられるか

「東海アマ」ブログから転載。前半の他記事引用部分は省略。
僻地での、極貧の一人暮らしの有様が、細かい収支決算付きで書かれていて興味深い。
これほどの極貧生活ではないが、私も「病院に行かない」覚悟をしている。まあ、要するに病院と喧嘩したのである。地元の病院の紹介で行った病院と喧嘩して、地元の病院に戻ると、「紹介状無しでは診察できない」と断られたわけだ。まあ、「紹介状」云々は医療業界の仁義というものだろう。
今後は、大病しても病院には行けない、という覚悟だが、もともと認知症になるまで生きたいとも思っていないから、重病をしたら、その時はその時だ。べつに摂生もしないが不摂生もしないで、死ぬまで生きればいいだけである。
病院に頼れない、というのは現代社会では最大の「社会との隔絶」だろうが、江戸時代くらいまではそれが普通だったのであり、今のように個人が医療組織と強固に結びついている(ほとんど生殺与奪の権を奪われている)状態のほうが異常なのだ、くらいに思っている。



(以下引用)


 私も、上に紹介した人ほどの質素で節約的なライフスタイルを実行しているわけではないが、5万円以下の年金に合わせたライフスタイルを模索している。
 大都会暮らしの人に、田舎暮らし17年の経験から言いたいことは、「過疎の田舎暮らしは安く上がる」ということだ。

 もちろん、高級レストランや映画鑑賞などの贅沢は一切できない。遠いので行く気もしない。
 最大の贅沢が、週に一二回行く喫茶店で、コーヒー一杯400円、8キロほど離れていて、徒歩では無理があるのが辛いところだが、20キロ離れたスーパーやドラッグストアに買い物に行くついでに立ち寄って、週刊誌などで情報を収集することにしている。

 スーパーでは、値引き品を買うことが多い。低年金の老人たちは、19時を回ると、半額値引きサービスが始まるので、この時間帯は、老人たちがたくさん寄ってくる。
 半額の弁当をたくさん買い込んで、数日間も食べ続けることが多いという。

 私は、原則自炊で、米は地元米で10キロ4000円程度と結構高いので、安売りのインスタント食品を食べることも多い。
 外食したくとも、一番近いのが8キロ離れた喫茶店で、千円札が軽く飛んでゆくので、コーヒー以外を注文することはない。そういえば、大好きだった焼き鳥屋などの居酒屋は、もう20年近く行っていない。
 たまに我慢できなくなって、スーパーで焼き鳥と、「信長鬼ころし」という2リットル900円の安酒を買って熱燗にして楽しむ程度。肝硬変になったので深酒はできない。
 野菜は、地元産の直売所がたくさんあって、どこでも朝取れ野菜が安く買える。

 私の場合、何に一番金がかかるかというと、上の記事にあるように、やはり車だ。
 しかし、山奥の坂道だらけの過疎地で、車なしで生活するのは無理がある。
 凍結地帯なので、スズキアルト4駆を使っている。リッター23キロ走るが、週一名古屋に行く用事があるので、燃料代は月に1万円くらいかかる。
 車検代が2年で8万円程度、税金が年間7200円、対人対物保険が年間4万円程度、結局、維持費は年間9万円程度、月割りで7500円前後かかってしまう。プラス燃料代だ。

 次に高くつくのは、インターネットで、NTT西日本に月あたり6000円強支払っている。経済的困窮が進むとき、最初に切り捨てるのが、ネット環境ということになる。ガラゲーからスマホに変えたら毎月4300円程度支払うので、併せて1万円になってしまう。
 もう、これだけで毎月3万円近い支出なので、残りを2万円以下でまとめないと破産することになる。
 読者にあっては、私のブログが消えたときは、生活費節約のためネット環境が失われたとご理解いただきたい。

 都会暮らしで一番金がかかるのが借家の家賃だ。
 私は、自分で製作した100万円のキットハウスで、家賃がかからないのが一番助かっている。ただ、EM菌を使った完全自己完結型浄化槽システムを二カ所で自作し、経験を重ねながら研究しているので、この維持費が、毎月数千円と馬鹿にならない。

 冷暖房代は、マイナス10度にもなる内陸の寒冷地でありながら、真夏は40度近くなるので、結構かかる。エアコン暖房を使うと電気代が月に1万円を超えるので、原則使わない。夏場の冷房は、新型エアコンに変えたので、昨年、3000円程度ですんだ。
 灯油は、ファンヒータを使うと、週に18リットル使ってしまう。毎月6000円だ。

 すると残額は1万円弱しか残らず、これで一ヶ月分の食費を賄わねばならないので、必然的に質素なものになる。一日の食費は300~500円程度だが、自炊していると、これでも、そこそこ食べてゆける。
 しかし5万円では収まらないので、差額を貯金から支出することになるが、預金通帳残高は日に日に心細いものになってゆく。

 たとえ健保があっても、病院に行けるほどの金はないので、腸閉塞や尿管結石も自分で治した。現在、たくさんの病気を抱えているが、最後は諦観の域に達するしかない。田舎暮らしは、誰にも頼らない最期の覚悟が必要なのだ。

(以下略)