マルキシズムの亡霊
「春曲丼より混沌丼」から転載。
内容に賛同してではなく(むしろ拒否感や嫌悪感のほうが強い)、こういう考えもあるのか、という参考のためのメモである。
まあ、昔の左翼によくいた「革命ごっこ」のアジ演説という印象だが、深く内容を検討したわけではない。言葉遣いが意図的にややこしくされているので、すらすら読める内容ではない。
私は現在の日本政府に批判的な者だが、日本という国の変革を「暴力革命」で行うのには反対するし、それ以外の「革命」が、下のような「革命ごっこ」で可能だとはまったく思わない。
「陣地」だとか「陣地の萌芽」だとか、戦争めいた言葉が使われたり、昔の「ナロードニキ(人民の中に溶け込んで左翼活動を人民全体の運動にする)」みたいな発言も、馬鹿馬鹿しく思う。
記事が長いので、私の意見はそれだけにしておく。ちなみに、私は漸進的社会主義者である。
(以下引用)
コモンズ より
内容に賛同してではなく(むしろ拒否感や嫌悪感のほうが強い)、こういう考えもあるのか、という参考のためのメモである。
まあ、昔の左翼によくいた「革命ごっこ」のアジ演説という印象だが、深く内容を検討したわけではない。言葉遣いが意図的にややこしくされているので、すらすら読める内容ではない。
私は現在の日本政府に批判的な者だが、日本という国の変革を「暴力革命」で行うのには反対するし、それ以外の「革命」が、下のような「革命ごっこ」で可能だとはまったく思わない。
「陣地」だとか「陣地の萌芽」だとか、戦争めいた言葉が使われたり、昔の「ナロードニキ(人民の中に溶け込んで左翼活動を人民全体の運動にする)」みたいな発言も、馬鹿馬鹿しく思う。
記事が長いので、私の意見はそれだけにしておく。ちなみに、私は漸進的社会主義者である。
(以下引用)
コモンズ より
上記文抜粋
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(前号からの続き)
特別連載】天皇制と闘うとはどういうことか 第八回(最終回)
Ⅷ.国家への幻想を超える隣人相互の信認の形成へ
菅孝行(評論家、変革のアソシエ運営委委員)
■ 隣人相互の信認へ
現在の天皇制に対する認識と、それに対する闘争に関する前回までの論旨は次の諸点に集約できる。
(1)現憲法下の天皇は憲法に「象徴」と規定され、国政の権能は持たない。しかし、「幻想の共同性」が収斂する中心、即ち国家権力の権威として機能する(日本会議派の1章改憲の目的は、天皇を象徴より便宜のよい権力の花飾りにすることだから、天皇に権力の実体を移すとは考えられない)。
(2)天皇制との闘争の目的は、国民国家日本の統治形態の転倒である。
(3)天皇という権威の規定力は、天皇の霊性の呪縛力に由来する。
(4)それが物質的規定力を発揮するのは、「主権者」が天皇の霊性の価値を内面化し、被統治者たることに甘んじる限りにおいてである。
(5)「主権者」が天皇の霊性に畏怖も敬慕も感じ無くなれば、天皇の統治機能は消滅する。
(6)以上から明らかなように、統治形態の観念上の<敵>は、被統治者の、天皇の霊性に対する畏敬にほかならない。
(7)天皇への畏怖や敬慕によって産出される幻想の呪縛を、隣人の作り出す関係の相互信認が凌駕すれば、現在の統治の規定力は消滅する。
(8)権力の獲得に先立って隣人の相互信認を形成するには、市民社会の只中で、権力に対抗するヘゲモニーを形成するグラムシのいう「陣地戦」の実践が不可欠である。
■ 避難所は<陣地の萌芽>
天皇にも、天皇の権威を笠に着た権力にも畏怖や敬慕を感じることがなくなる、隣人との相互信認を組織化する実践の場は、どこに想定できるだろうか。<陣地の萌芽>の形成は、多くの場合、様々な問題を抱えさせられた人々の駆け込み寺、避難所(アジール)としての機能を帯びた相談所、カフェ、パブ、シェア・ハウスから始まる。避難所・相談所は、当事者自身と、当事者に寄り添い、当面の心身の痛手を手当てし<問題>の所在を発見し、対処の指針を当事者とともに探る相談員・援助者・ファシリテーターで構成される。
人々を煩わせる<問題>は何処から生み出されるか。第一に日々苛酷な搾取・収奪が行われている労働現場である。産業資本の時代と違って、労働が変わり、雇用の構造と期間が変わり、賃労働と資本がせめぎ合う現場が、同時に闘いの場であることが困難になっている。しかし、私的企業や公的組織の内部にも、職場を超えた地域にも、闘う意志と力を持つ労働組合運動は存在する。そのような運動の場は、同時に<陣地の萌芽>でありうる。それを強固な陣地にまで育て上げたのが関西生コン労組である。
また、幼児や学童の保育、高齢者介護・障害者介護の、当事者と家族・保護者・介護者の集合、学校で<問題>を抱えさせられた児童生徒と保護者の集合、病院の患者・家族・医療者の集合など、無数に闘いの火種となる場は存在する。更には、ひきこもり、失業者、犯罪被害者、元受刑者、独居老人など、放置されて尊厳を失い、生命の危機に瀕している人がいる。そういう人々に寄り添う集団が形成されれば、それらはみな闘う大衆による<陣地の萌芽>となり得る。だが、のっけから陣地であるようなユートピアは存在しない。資本や権力も、彼らの立場からの問題解決のために、それらの場に介入する。そこはまさにヘゲモニーの争奪の場とならざるをえない。
■ 資本・権力は介入する
首都圏で自治体労働者だった知人から次のような経験を聞いた。かつて学童保育の場は、地域の保護者たちが<問題>を発見し、「敵」を見出し、自身の要求とその根拠となる主張を形成し、行動に移る格好の拠点だった。いわば<陣地の萌芽>としての可能性を秘めていた。
しかし、第三セクターやNPO法人が学童保育関連の問題を「社会福祉」政策的に処理する機能を担うようになると、それに馴染むような性格の<問題>を抱えていた子どもの保護者たちは、自生的に形成されつつあった<陣地の萌芽>を離れていった。身銭を切り時間を使って活動しないでいいことが決定的だった。
NPOや第三セクターは、自発的な学童保育のコミュニティーの分断に大いに「寄与」したのである。そして、「上」からの問題処理に馴染まない、深刻な<問題>を抱えた少数の子どもと、権力や資本に主導された「解決」に疑問を抱く保護者が残った。組織者たちは<陣地の萌芽>をいかに再組織するかという課題ととりくむ新たな闘いの道を模索し始めた。
■ 組織者の誓約集団の不可欠性
ここには二つの教訓がある。一つは、誰の立場からの「問題解決」か―権力や資本の立場か、人々自信の立場か―が決定的に重要だということ、もう一つは、権力や資本の攻勢と対抗し、<避難所>・<相談所>を<陣地>へと育て上げるには、一度負けたら解散する個人の集合ではなく、組織者・工作者に媒介された持続的活動が不可欠だということである。
<陣地の萌芽>となる可能性を秘めた現場は、様々なイシューが並行して多層的多元的に現出する。だから、個々の現場には固有の資質の組織者が不可欠である。また、孤立することは危険なので、現場が近ければ地域的に、イシューが同一ないし相似であればイシューごとに、相互の交流と共同が試みられなければならない。それゆえ、組織者・工作者は、個々に分散的に活動するのでなく、誓約集団を組織して連携しながら活動することをめざす必要がある。誓約集団は、主張も要求も組織化の方法も多元的・多層的な複数の集団の連合にならざるを得ない。
■ 誓約集団の二つの次元
因みに「誓約集団」という概念は、ラディカルなキリスト者の労働運動研究家藤田若雄からの借用である。
この概念を用いるには注釈が必要だ。藤田は、個々の労働組合の構成員全員が誓約集団でなくてはならないと考えた。もちろん、個々の<陣地の萌芽>が陣地になるという次元で、自身が当事者として直接関与する問題に関する主張と要求と闘いの強固な盟約―労働条件や諸権利の保証とか、当事者の望む医療や介護の実施とか、不当な弾圧の撤回とか―を共にすることは必要条件であるだろう。
しかし、個別イシューを超えた政治構想の次元―世界をどう認識するか、日本国家をどう批判するか、資本制(市場原理)に替わるどのような経済システムを構築するか、現存する統治形態の後にどのような自己統治のルールと組織を確立するか―での強固な一致は、<陣地>の構成員全てではなく、陣地相互の横断的結合をめざす工作者たちにこそ求められるべきものだと私は考えている。それこそが、この国に、隣人の相互信認を縦横に組織する力の源泉となる。
■ 重要なのは相互信認の自覚
天皇制の統治の転倒をめざす工作者は、それに必要となる変革の理論の全体像を獲得していなければならない。しかし、個別の現場の闘う大衆に不可欠なのは、権力への臣従と無縁の、隣人の相互信認に基づく言行であって、天皇制についてのあれこれの能書きではない。日常生活空間の中にある大衆が、資本制のイデオロギーと国家の価値の呪縛から解放されたその度合いこそが、結果として天皇幻想からの解放の度合いに他ならないのである。
闘う大衆に必要なのは直面する個別の現実を変える物質力となる理論と、先進的な「社会的左翼」が目指して来た、日常における強固な経済的基盤に基づく人間諸関係の獲得である。換言すれば、「社会的左翼」こそが、はじめて天皇制の統治を政治的に失効させる規定力を育てるのである。
■ 反奉祝統一メーデーを
だが、<陣地の萌芽>に集まる人々は反政府・反企業ではあっても、必ずしも反独占資本でも反権力でもない。まして反天皇制でもない。工作者は<陣地の萌芽>で、当事者に寄り沿いながら固有の<問題>に向き合い、解決への道をともに探る作業を通じて信認関係を築かなければならない。その上で、個々の<問題>を抱えた当事者相互にも、陣地に集まった人々の集合相互にも信認関係を築く必要がある。この信認が、工作者が提起する政治の説得力を強固にする。それには、長い蓄積の道程が必要である。しかし、時間は待ってくれない。
今年五月、天皇の退位・即位・改元がある。安倍は改憲発議を急いでいる。政権は、即位式奉祝でメーデーを呑みこむために労働者の祭典であるメーデーを即位式と定めた。政権はこの国の労働者階級の尊厳を貶め、社会と政治にイデオロギーの横串を差してきたのである。代替わり儀式から漂い出る霊性への崇敬を自己の正統性の根拠にしようと政権が企んでいるからにほかならない。
それ故、今年のメーデーには特別の意味がある。反天皇制闘争の飛躍の一歩は、これを迎え撃つことから始まる。反権力の側にとっても、社会と政治に横串を差し返す運動経験の好機であるからだ。本来、全労連・全労協は共同して、傘下の労働者だけでなく、連合傘下の労働者をはじめ、即位礼に恭順の意を表することを潔しとしない全ての人々に反奉祝統一メーデーで迎え撃つべきなのだ。反天皇制闘争の今後の発展は、五月一日が労働者の祭典であって即位奉祝の日ではないことをどれだけの強度で示せるかに懸かっている。
■ 国家の霊性との永久闘争
天皇制との闘争は、統治形態の総体と対峙する性格を有し、かつ、国政の権能のない象徴に統合の機能を付与しているのは主権者の幻想だという再帰的・自己言及的性格を有する。それは本質的にシングルイシューの闘争ではありえない。それは、資本と権力に対峙する性格を帯びる全ての闘いを繋ぐ赤い糸となる。逆にいうと、階級闘争が国家の幻想を超える隣人の相互信認を組織する限りにおいて、反天皇制闘争でもあるともいえる。
先述のように国家の霊性への人々の「信仰」は、共和制国家でも被統治者を呪縛する。天皇の霊性との闘いの後には「日々の国民投票」という「信仰」との闘争がある。それを忘れれば、ヒトラーやプーチンの再来を阻止できないのだから。
(連載完結)
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