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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

強烈な自負心が「活動家」を生む

問題の本を読んでいないのだが、ここで断片的に示されている筆者の人間性が非常に自己中心的、あるいは独断的で、気持ち悪い。これは右でも左でも「活動家」によく見られるタイプだと私には思える。東海アマ氏や「神戸だいすき」氏(地元振興の活動家)などもそれである。念のために言うが、私はアマ氏の反原発にも上間氏の反基地にも賛同している。
だが、「活動家」というのは一種のサイコパスというか、奇形な精神を伴う傾向があるように思う。なお、「海をあげる」権利は誰にもないwww この題名自体に筆者の精神の傾向が見えるようだ。

(以下引用)

上間陽子『海をあげる』

 リモート読書会で、上間陽子『海をあげる』を読む。

 

 

 エッセイ集である。

抗議集会が終わったころ、指導教員のひとりだった大学教員に、「すごいね、沖縄。抗議集会に行けばよかった」と話しかけられた。「行けばよかった」という言葉の意味がわからず、「行けばよかった?」と、私は彼に問いかえした。彼は、「いやあ、ちょっとすごいよね、八万五〇〇〇は。怒りのパワーを感じにその会場にいたかった」と答えた。私はびっくりして黙り込んだ。(本書p.177)

 他の参加者もまずここを取り上げて「違和感」を表明した。同断である。

 上間は指導教員のこの物言いに「強い怒りを感じた」とまでいう。

 なぜか。自分の住む東京で集会を開くでもなく、遠くの沖縄の集会を「ひとごと」、いや、「社会運動に参加する自分」の「癒し」であるかのように扱うだけだ。まずやるべきことは自分の生活圏を見直すことではないのか。それは沖縄と本土の関係そのもの、つまり沖縄に基地を押し付けて平然としている本土のあり方そのものではないのか、と上間は言いたいのである。

 ぼくは冒頭の、上間のパートナーが不倫をしていて、その相手は上間の友人であり、その友人は上間が提供する料理を平然と食べていた話にも強い違和感を覚えた。

 上間が友人に会い、どういうことかあなたの口から説明してといい、友人がどういう経過でそうした関係になったかを話したにも関わらず、そういうことを聞きたいんじゃないんだ、と否定するくだりである。

 説明をしろと言いながら説明し始めたら、そういうことが聞きたいんじゃない、と怒る。それはあまりにも説明をさせた側に対してひどくないだろうか。被害者の権利としてそこまで甘えられるものだろうか、という違和感がぼくを襲ったのである。

でも、私が聞きたいのはそういうことではなく、私のつくったごはんのことだった。なぜ私のつくったものを食べに来ていたのか、何を思いながらごはんを食べていたのか。日常生活に侵食して、ひとの善意を引き出すのはどういう気持ちなのか。(上間p.13)

 別の参加者が「でも、これはまさに本土と沖縄の関係の比喩のようにも読める。何食わぬ顔で付き合いながら、『基地負担を押し付ける』といううまい汁だけ吸っているという」と言っていた。

 まさにそういうことなのだろう。

「陽子、ほんまにごめん。今日、包丁で刺されるって思っててん」

 へぇと思い、また頭の芯が冴え冴えとする。包丁で刺されるくらいで許されることなのかな、これ?(上間p.14-15)

 パートナーの不倫相手を「刺す」のではなく、4年間優しくし続けた自分を刺してやりたい、と上間は言う。激しい暴力性は、かろうじて他者へは向かわず、自分の中に封じ込められ、しかし自分を殺すかもしれないほどの強い怒りとなって抱え込まれる。

 こう言われて、ぼくは戸惑うばかりだ。

 これは、あるフェミニストから四半世紀も前にぼくが言われたことへの戸惑いにも似ている、と思った。

 ぼくはポルノを見たことがある、とあまり重大視せずにこぼしたことがある。そしたらその言葉を聞いた、そのフェミニストである女性は「カミヤもそうなのか」と絶望し、死にたくなったと怒った。結局、進歩的な顔をしながら女性を差別する側にいるのではないかとぼくを激しく非難したのである。

 言われていること、批判されていることの中には、ある程度の道理がある。だから、ぼくはその批判を受け止める。しかし、その批判があまりに激しく、そして道理がないことも含まれていて、反発を覚え、全てを受け入れるわけにはいかなくなる。つまり「批判を受け入れられない」となる。

 したがって、告発されたぼくは「戸惑い」になってしまう。

 上間の告発を読んだ時、その時の「戸惑い」そっくりだと思った。

 ぼくは「もっとみんなに受け入れられる批判をしようよ」と言いたくなる。しかし、長く抑圧し差別されてきたという側には、そのように「配慮」させられること自体が耐えられないに違いない。怒りを率直にまず表明する。表明せざるを得ないのだ、というのが本人の気持ちなのだろう。このエッセイ集の冒頭で、不倫そのものとそれを黙っていた友人の関係に、気持ちが不安定となり、体調がおかしくなるほどの憤りを感じた上間は、その憤りをソフィスティケイトさせている暇などはなかったに違いない。

 「そんな形で発露することは権利ではないではないか」と言いたくなるが、他方で「それもわかる」と言いたくもなる。どうしたらいいのだろうか、という「戸惑い」で終わらざるを得ないのだ。

 

 不倫の話を聞いた、別の友人、真弓の言説にも違和感があった。

それまでうれしそうに私の話を聞いていた真弓は突然しんと静かになって、「あのな、陽子、ぜんぶ忘れていい」と言った。私がびっくりしていると、「本当に陽子は頑張ったんやなぁ。でもな、もう、ぜんぶ忘れていい。あのときあったことをぜんぶ、陽子の代わりに、真弓が一生、覚えておいてあげる」ときっぱり言った。(上間p.20)

 ぼくは、こんなふうに言うこともできない。相手がそんなことを望んでいないと拒否するかもしれないし、もしぼくが言われたとしても、全然心に響かない。何がわかるというのか? と言いたくなるような独りよがりの言葉にしか聞こえないからだ。

 しかし、これとて本土と沖縄の関係の比喩のようにも読める。

 沖縄に全ての負担を押し付けて涼しい顔をするのではなく、全て「引き受ける」ときっぱり言ってくれる。そこに上間は心打たれるのである。上間はこのような関係こそ期待をしているのだ。

 ぼくは「基地は一掃されるべきで、どこにもいらないではないか。本土と沖縄をなぜことさら対立させるのか」という思いを抱いてしまう。ますますぼくは「こんなふうには到底接することはできない」とやはりここでも戸惑うのである。

 沖縄で平和運動をしている元山仁士郎に最初つらく当たる話も出てくるのだが、のちにはすっかり元山を受け入れる。どう言えばいいのか、上間は良くも悪くも直情径行な人なのであろうか。しかし、沖縄が、本土が、という次元の話ではなく、上間という人物とリアルで近くでは生活できないのではないかと思った。

 

 本書には、風俗で働くことや妊娠のことなど、沖縄での貧困の調査についても描かれている。

 その聞き取りの細やかさは、本当に頭がさがる思いで読んだ。

 絶望的とも思える沖縄の貧困の具体的なありようがそこに提示されているが、もしぼくが同じような聞き手であったらおよそこんな話は引き出せないだろう。他の読書会参加者が巻末に記された聞き取りについての細かい日時の記録に驚いていた。研究者としての冷静さをそこにみる。

 けがの具合を聞いたとき、和樹はためらうことなく服をめくり、自分の身体を私にみせた。こういう、一見すると相手の意のままにふるまってみせる受動的なパフォーマンスはおなじみのものだ。

 こんなふうに自分のセクシャルな価値をよくわかり、それを使ってその場の空気を統制しようとする女の子や女のひとと私はこれまで何度も会ってきた。どこかで痛々しいと思いながら、そのひとがつくりだしてくれた空気に私はのる。それがそのひとのいちばん安心するコミュニケーションの取り方だからだ。(上間p.54)

 このようなスキルにぼくが感心していると、読書会参加者の一人であるぼくのつれあいは、「あなたはナイーブすぎる」と呆れられた。

 

 娘に性教育をする話、誘拐の話、祖父母の話などが書かれているが、それらはどこかで「沖縄」につながっていく。ぼくたちが日常で抱くいろんな感情がどう「沖縄」につながっていくのかを描くのである。

 

 次回の読書会は村上春樹『女のいない男たち』。

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仏教の種類と違い

前にも似たメモをしたが、これは比較的短くまとまっているので載せておく。日蓮宗は仏教ではない、という考え方もあるらしい。

(以下引用)

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ywa********

2007/10/29 10:50

浄土教の本質とは何か

別ブログに載せた記事だが、重要性が高いと思うので、ここにも載せておく。
何度も読み直し考察すべき文章だろう。

(以下自己引用)

守中高明氏の「革命的」浄土宗論

これも同じく「中外日報」の記事だが、凄い「浄土宗論」である。私は浄土宗を単なる「厭離穢土欣求浄土」の空想的宗教と思っていたが、この浄土宗論は実に革命的な現実変革の思想ではないか。
この小論の中には「神概念」についてのスピノザの思想の簡明な説明もあり、それが、私が以前に考えた「神とは何か」という考えに少し近い気もする。つまり、神とは人間の外部に在る超越的存在ではなく、人間の中に、あるいは自然物のすべてに内在する力だ、という思想だ。「山川草木悉皆成仏」であり、日本古来の「八百万の神」であり、あなたも私も神なのである。いや、「神性」を持つ存在なのだ。
もしそうだとすれば、「南無阿弥陀仏」という「称名念仏」つまり仏の名を呼び、念じることは、あらゆる存在の中の神性を強く確認する作業だ、と言えるのではないか。(「南無」は「至高の」の意味だと聞いた記憶がある。)そうだとすれば、他者を(自然物含め)破壊し傷つける行為や発言は、すべて「阿弥陀仏」に反する行為(慈悲の心の欠如や無視)だと言えるのではないだろうか。もちろん、「称名念仏」は神仏への賛歌であり、別に浄土宗徒だけの特権でもないだろう。要は、この宇宙の原理を理解し、生活に反映して生きることにあるわけだ。


(以下引用)まだ熟読していないが、とりあえず保存する。

阿弥陀仏、あるいは超越なき生成の力(1/2ページ)

早稲田大法学学術院教授 守中高明氏

2022年1月17日 09時19分
もりなか・たかあき氏=1960年生まれ。早稲田大法学学術院教授。浄土宗専念寺住職。著書に『浄土の哲学 念仏・衆生・大慈悲心』(河出書房新社、2021年)、『他力の哲学 赦し・ほどこし・往生』(同、19年)など多数。

法然・親鸞・一遍へと受け継がれ、深化し徹底化されていった日本中世浄土教――その思考と〈信〉を現代社会において真に実効性をもつ変革の力として甦らせるために、私たちはなにを考えるべきか。


現代の日本社会における浄土教についての一般的理解がどのようなものであるかは、容易にまとめることができる。浄土教とは西方極楽浄土への「往生」を説く大乗仏教の一形態であり、死後にこの現実世界とは隔絶した彼岸に往き生まれることを教えの中心とし、そのための手段として念仏を位置づけ、それを称える人間を阿弥陀仏という同じく現実世界には不在の超越的存在が摂取しその慈悲深い心で浄福を授けてくれると考える、そんな宗教であるというのが広く共有されている図式であるだろう。今日の世俗化社会にあって、それは端的に神話的世界観の表現であり、それを前にして問われるのはその非―現実的な物語を信ずるか信じないかという選択だけであると言ってよい。


だが、そのような理解に立つとき、私たちは浄土の教えをたんなる精神的ないし心的領域における救済論に矮小化することになる。なぜなら、そのとき私たちは近代的な理性の範疇と前近代的な説話の範疇とを区別したうえで、後者をそれが想像界にもたらす平安と慰めにおいてのみ肯定し顕揚していることになるからだ。そして、なるほど現代社会が宗教を許容するのは、その効果が精神的―想像的なものであるかぎりにおいてだと言える。すなわち、宗教が現実的な力をもつことは現代市民社会において望ましいことではなく、宗教者の側がその教えをみずから無力化することと社会の側がその教えの無力さを前提とすることが共犯関係にあり、その帰結として宗教の無害な安全圏への囲い込みが生じているというのが今日の状況である。宗教が現実的な力をもつとき、それは――宗教的原理主義に対する社会の警戒に現れているように――危険だと見なされるのである。


しかし私たちは、このような区別、このような境界画定に甘んじていてよいのか。否、法然が「凡夫」往生を約束したとき、親鸞が「屠沽の下類」との連帯を宣言したとき、そして一遍が「他力称名に帰しぬれば、自他彼此の人我なし」と断言したとき、それらの言葉が社会の現実を見据えたものであり、そのヒエラルキーや差別や搾取の諸構造を打破する根本的変革の意志に貫かれていたことを忘れるべきではない。この偉大な宗教家たちにとって、その〈信〉は社会秩序とその常識、その規範化する通念に抗う闘い以外のものではなかった。だが、そうだとすれば、現代の私たちが打破すべき常識・通念はどこにあり、どのような構造をしているか。


超越への欲望とそれに起因する人間中心主義を解体すること――最重要の賭札はそこにある。そして、浄土教におけるその具体的課題は、なによりもまず阿弥陀仏を超越的〈一者〉と見なす通念的理解を突き崩すことに存する。実際、阿弥陀仏を西方十万億土の彼岸にいる存在、それもキリスト教における人格神イエスと同じような唯一の超越者と見なし、それを人間的形姿によって表象することは、今日最も広く行われており、教団としての浄土宗における公的教義さえもそのような理解を支持している。しかし、これは完全な誤謬、しかも日本浄土教をキリスト教と同じ一神教的構造をもつと人々に誤解させその教えを神話的物語に縮減する点で、きわめて大きな弊害をもたらす根本的に誤った認識である。


阿弥陀仏とはなにか。言うまでもなくそれは「無量寿」「無量光」という本来的に物質性を一切もたない「法身」であり、衆生済度のために時と場所に「応」じて仮の身体となって現れる「応身」、さらに仏となるための果てしない修行を積んだ結果「報」れて現れる「報身」とは、いずれも衆生の理解を容易にするための方便に過ぎない。この点を明確化すべく錬成されたのが、法然・親鸞・一遍における「自然(じねん)」概念である。


「自然」とはなにか。それはスピノザが「神あるいは自然(しぜん)」というテーゼにおいて示した「能産的自然」にきわめて近いなにかである。すなわちキリスト教における神が、最高度の知性と自由な意志においてあらゆる産出の選択を可能性としてもつ超越者であるとすれば、スピノザ的「神」はまったく反対に、事物のそれぞれに変様し、様態化する「内在的原因」であり、それはあらゆるものを必然という様相において産出する。そしてそれゆえに、私たち人間存在にできるのは、ただその「自然」の生成に内在することだけであり、その必然を肯定することだけである。法然のあとを承けて親鸞が「自然(じねん)」とは「おのづから」「しからしむ」はたらき、すなわち「行者のはからひ」の外で作動する自律的な生成のプロセスだと述べるとき、それはまさにスピノザ的「自然(しぜん)」の原理を指していると言ってよい。「無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり」と言うとき親鸞は、阿弥陀仏がいかなる擬人化される存在でもないことをはっきり認識している。すなわち、「自然」である阿弥陀仏とは、形相なき力能にほかならないのである。


そのような「かたち」なき生成する力として認識し直された阿弥陀仏は、したがって、浄土教における〈信〉のあり方そのものに変更を迫り、私たち衆生に現実を変革する力を与え返してくれるだろう。阿弥陀仏を超越的〈一者〉として表象し、その疑似人格的意志によって救われたいと欲望するかぎり、浄土教は神話的説話体系にとどまり、その救いの力はどこまでも精神的―心的な慰藉であるほかない。


しかし、衆生が阿弥陀仏への〈信〉を「自然」の生成への内在として実践し、その必然を留保なく肯定するとき、浄土教は神話的世界から脱却し、「自然」の論理と倫理を説くすぐれて現実的な教えへと変貌を遂げる。実際、阿弥陀仏がその仮定され捏造された超越的意志によって衆生を救うという論理は、衆生がみずからの超越への欲望を阿弥陀仏に投影し、阿弥陀仏をみずからの似姿として理解してしまうことから生じる妄念に過ぎず、それは衆生を人間中心主義的なイデオロギーの内部に閉じ込め続けるだろう。そのイデオロギーの最も深刻な現れが、今日の世界における自然環境破壊であることは言うまでもない。「自然(じねん)」=「自然(しぜん)」から超越してあり、そのすべてを対象化し操作し利用し続けることが可能だと信ずる傲慢――その典型が、たとえば「持続可能な開発目標SDGs」という空疎なスローガンである。


しかし、この妄念から目覚めるとき、衆生はまったく新たな認識を獲得し、まったく新たな世界を生き始めることができる。


たとえば「浄土」――それはもはや、はるか彼岸に位置する実在性を欠いた幻想の領土ではない。そうではなくそれは、阿弥陀仏の大慈悲の力が貫徹しているすべての実在の場、衆生が称名念仏の声とともに生成変化していくすべての内在性の平面となるだろう。


たとえば「往生」――それはもはや、死の瞬間に来迎する阿弥陀仏によって摂取され来世における安楽を約束されることではない。そうではなくそれは、衆生がこの世界において念仏を称えることで阿弥陀仏の「本願」の構造にほかならない閉じざる未来完了の中へ身を投げ入れ、新たな誕生を繰り返しつつ、この穢土そのものを「浄土」へと生成させていくプロセスと化すだろう。いかなる超越への欲望も知らない内在性の領野に立ち現れる、この真の仏国土……。



宗教が本来的にもつ現実的な力を回復すること――ここにこそ、今日の日本浄土教の使命と課題はある。

少年たちよ、自由になれ!

自分の別ブログの過去記事を読んでいたら、「boys be free!」の歌詞が引用されていたので、前置きと共に転載する。記事後半は省略した。

大好きよ 強くなくても
 大好きよ ガンバらなくても

これは、すべての「男の子」への優しい言葉である。枯堂夏子は天才だ。

(以下自己引用)


勝つって本当に「楽しい」のか

珍しいスレッドなので、転載しておく。
この問いかけに対する反応はだいたい予想どおりで、おそらくアスリートである側の反応は、基本的には

でも負けて楽しいとか言えんわ、そもそも勝つための技術やし
体育会系でそんなこと考えてる人おらんと思うで

これだろう。もちろん、何事でも負けるよりは勝つほうが楽しいのは当たり前の話であり、要するに、自分が、負けることが不愉快ならば、自分が勝てば相手にその不愉快な思いをさせている。それが本当に楽しいのか、と私などは疑問に思うわけだ。
まあ、負けて平気だという考えが昂じれば、人生の負け犬になるかもしれないがwww
しかし、勝利至上主義者が不愉快極まる連中であることは断言できる。
会社や組織の構成員や突撃隊員としては利用価値が高いから、大企業などがスポーツマンを優先的に採用するのは理解はできる。


(追記)枯堂夏子の「Boy's be free!」の歌詞を上げておく。世の少年たちが、もっと自由になってほしいものだ。


BOYS BE FREE!

歌:小桜エツ子
(作詞:枯堂夏子/作曲・編曲:長岡成貢)

魔法使いが
あなたを 女の子に
変身させても

わたし 平気よ
いままでどおり きっと
あなたが 好きでいられる

おそろいの リボンつけて
おしゃれを しましょ

いまよりも もっと
なかよくなれる
そんな気も するわ

◇大好きよ 強くなくても
 大好きよ ガンバらなくても

 守って欲しい
 わけじゃないわ

 あなたと ただふたり
 いっしょに いるだけでいい

大きな 敵と
戦っているような
鋭い目は イヤ

甘い夢 見て
トロンとしてる そんな
瞳が とても 好きだわ

しなきゃいけないことなど
この世に ないわ

優しさが なければ
自由になる
資格はないのよ

◆大好きよ 偉くなくても
 大好きよ 負けてばかりでも

 勇気も 力も
 いらないわ
 あなたと いつまでも
 なかよくしていたいだけ

解説

    OVA「神秘の世界エルハザード」のエンディングテーマ. アレーレの歌というよりは,誠に捧げる歌といった感じでしょうか. ポップなリズムがエッちゃんの声にとってもマッチしていて良いですね. 「
それでいいのだ
    」で 新録されていて,落ち着いた雰囲気で歌い上げてます.

垂加神道

「垂加神道」というと、ただの神道と何が違うのか疑問になるが、単に山崎闇斎の唱えた神道、くらいに解していいようだ。明治政府による「天皇の神格化」は、この垂加神道が背後にあったのだろう。

(以下引用)

「垂加」の由来[編集]

臨済宗の僧侶であった山崎闇斎は、その後儒教を学ぶがあきたらず、度会延佳(出口延佳)及び大中臣精長(河邊精長)から伊勢神道を学び、ついで吉川惟足に師事し、吉川神道の奥義を伝授された。垂加とは、このとき、惟足が闇斎に贈った号である[要出典]。「倭姫命世記」の「神垂以祈祷為先冥加以正直以本」の語句に由来する。

思想[編集]

垂加神道は、天照大御神に対する信仰を大御神の子孫である天皇が統治する道を神道であると定義づけ、天皇への信仰、神儒の合一を主張し、尊王思想の高揚をもたらした[3]。また、人間の「」を最も大切な徳分とし、敬を全うすれば天地と合一できる「天人唯一の理」を唱えた。この「敬」の実践行為とは「正直」であるとした[4]

影響[編集]

垂加神道は、 その内容から、尊王思想の思想的バックボーンを形成することとなり、水戸学尊王論国粋主義思想に大きな影響を与えた[3]。また、この系譜から竹内式部山県大弐のような熱烈な尊皇家が出た。浅見絧斎も儒教的大義名分論から尊王論を唱えた。やがてそこから日本主義国学の隆盛をもたらすこととなった[要出典]