忍者ブログ

独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

名作文学のアニメ化を考える

私が不思議に思うのは、なぜアニメで世界名作文学を原作として作らないのか、ということだ。名作文学と言っても、大衆文学を中心にしてである。実写版だと読者のイメージした人物像と俳優の見かけが違うということがよく起こるが、アニメならキャラ設定を間違えなければいいだけだ。そして、俳優の出演料も要らない。ただし、アニメ「レ・ミゼラブル(少女コゼット)」のように、登場キャラの女性を低学年少女漫画キャラにしたために、せっかく素晴らしいシリーズ構成や脚本だったのに、その真価がほとんど知られないという悲惨なこともある。

私がアニメ化してほしい作品は、たとえば次のようなものだ。

1 三侠五義
2 児女英雄伝
3 戦争と平和
4 風とともに去りぬ
5 罪と罰
6 白鯨
7 鉄仮面(黒岩涙香版)
8 高慢と偏見




また、名作短編小説を、シリーズでアニメ化する、というのもいい。むしろ短編小説のほうがアニメ化には向いているだろう。つまり、30分、あるいは15分×2作という形で1クール作るわけである。物語るよりも映像作家的資質の強いアニメ作家にはそのほうがいい。
ポーの作品など、アニメ向きだと思う。ホラー系、SF系、童話系など、いろいろある。


1 耳なし芳一、茶碗の中(小泉八雲)
2 黒猫、アッシャー家の崩壊(ポー)
3 人面の大岩、リップ・ヴァン・ウィンクル(ホーソン)
4 冷たい方程式
5 偽百姓娘、その一発(プーシキン)
6 マテオ・ファルコネ(メリメ)
7 わがままな巨人、幸福な王子(ワイルド)
8 イワンの馬鹿、人にはどれだけの土地がいるか(トルストイ)
9 霧笛、みずうみ(ブラッドベリ)
10 夢十夜(漱石)















PR

年齢と小説の創作

若いころの私は、年を取って人生経験を積めば積むほど小説を書く能力は高まると思っていた。
しかし、現実には、若いころに素晴らしい小説を書いていた作家たちが、中年以降は創作能力が枯渇する例が多い。
その理由を考えてみる。

第一の原因は、「持ちネタが尽きること」だろう。
新しい情報そのものは幾らでも手に入るが、多くの知識を得ることで、逆に若いころのような「強迫観念」的に心をとらえる興味の対象が無くなるわけだ。
第二には「妄想力」が無くなることだろう。本物の女性を知らない間は、恋愛にしろ女体にしろ性交にしろ、どんなに素晴らしいものだろうかと妄想する。しかし、本物の女性を知れば、それは妄想していたものの半分の魅力も無いことを知るわけだ。性交なども同様だ。自慰より性交が勝ることはほとんど無い。面倒くささは倍以上だし、下手をすれば人生そのものを踏み誤る危険もある。
第三に、「(あらゆる)書は読まれたり。肉体は悲し」ということだ。世の中に存在する「面白い本」のほとんどを読んだ後で、自分が何かをそれに付け加えられると思うには、蛮勇が要る。まあ、スケールや知性的な高さでは古典を超えられなくても、古典では取り扱っていない素材や趣向を扱うことで新鮮味を出し、読者の関心を引くという「隙間産業」的な小説が毎年作られるわけである。1950年代から70年代くらいまでのアメリカの都会小説の雰囲気を日本を舞台に書くことで「村上春樹」の小説になるように、加工の仕方はいろいろある。

基本的に、小説とは19世紀で終わったジャンルであり、トルストイやドストエフスキーを超える作家や小説はもはや現れないだろう。もちろん、推理小説などが好きな人は、幾ら同じような話だろうが、推理小説でありさえすれば飽きもせず読むわけで、推理小説には限らず様々なジャンルで毎年のように新人作家が生まれ、ベストセラーを書く。だから、新作小説の需要は常にあるわけだが、それは古典を読まない層が膨大にいるからこそである。

内面の葛藤は「物語」たりうるか

この考えに基本的には同意だが、善人は基本的に心の中で葛藤するだけで悪行には至らない。
したがって、善人だけでは「物語」は生まれない。特に、劇的な物語にはならない。
大衆小説や大衆演劇、映画などで必要なのは優れた悪役なのである。純文学なら、内面の葛藤だけでも小説にはなる。





            さんがリツイート
10月1日

人間の醜い部分を露出させることを「人間を描く」ことだと思っている人がけっこういる。レビューなんかでもそんな作品の方が書かれやすい。逆に善人を出すと「理想主義」と言われたりする。でも善き人にも葛藤がありそこに物語は生まれる。

二次創作と換骨奪胎

創作のためのメモである。

テレビアニメの「サザエさん」の脚本は、最初から二次創作である。
つまり、長谷川町子の原作による設定やキャラクターが最初からあり、その設定とキャラクターを使って物語を作るわけで、これはまさしく二次創作であるわけだ。
「サザエさん」に限らず、原作つきのアニメやテレビドラマの脚本は二次創作に近いが、ストーリーまで原作に依存した脚本は二次創作ではなく「脚色」である。職人性は求められるが、脚本家の創造性や創作欲は押し殺す必要がある。しばしば批判される、「原作離れ」したアニメ化は、脚色であるべきところを二次創作にしてしまい、しかも原作の個性や独自性まで捻じ曲げたものだろう。「サザエさん」ではそのようなことが許されず、設定やキャラの個性は絶対だ。だから、複数の人間が脚本を担当しても、同じ作品個性が保たれる。

さて、完全にゼロから作品を作るより、二次創作のほうが容易に作りやすいというのは多くの人が賛同するだろう。だからこそ、ネットにはアニメ作品などを元にした二次創作小説が多いのである。もちろん、原作への愛から作られているものがほとんどだ。中には、原作には希薄なエロ要素を拡大した二次創作小説もある。読む人は自分が良く知っているアニメキャラを想像しながら、エロ小説を読むわけだから、想像力の乏しい人間でも想像を喚起しやすい。

で、二次創作の考え方を拡張して、優れた作品を換骨奪胎する、ということになれば、これは非常に多くの秀作に見られるもので、おおげさに言えば、あらゆる創作は先人の模倣による二次創作である、と言えないこともない。

やや強引な事例が多くなると思うが、少年ジャンプ作品を例にとる。

「ドラゴンボール」は「西遊記」の換骨奪胎、というのはすぐに分かる。
「ワンピース」は「宝島」の換骨奪胎、はやや強引か。
さらに
「ハンター×ハンター」は「不思議の国のアリス」の換骨奪胎、と言うと賛同する人はほとんどいないだろう。だが、「奇妙な論理の一貫した、奇妙な世界を描く」という点で、私は「ハンター×ハンター」から「不思議の国のアリス」を連想するのである。主人公は少女ではなく少年になり、少年もの(ジャンプ作品)の必然としてバトル要素が大きな要素となるから、本質的類似性は見えなくなるというわけだ。まあ、我ながら強引な論だとは思うが。

「ワンピース」は海賊が出てくる以外は「宝島」との類似性は無いだろう、と言われるかもしれないが、そこが換骨奪胎の換骨奪胎たるゆえんだ。
まず、主人公の少年を超人にする。これは、読者の願望実現であり、少年漫画の基本だ。
そして、「何かの宝を得る」という最終目標は、まさに「宝島」そのものだ。これまた読者の願望実現だ。
違いは、上陸する島はひとつではなく、幾つもあり、出遭う敵も島ごとに違うから、話がいくらでも引き延ばせることだ。これは、ヒットした作品はいつまでも伸ばすというジャンプ編集部の要求にもっとも応えやすい設定である。だからこそ、あんなにあきれるほど長い連載になったのだ。
そして、一番の違いは、戦う敵ごとにキャラクターをきちんと設定し、その過去のストーリーも作っていったことだ。つまり、短編を続けて長編にする「千夜一夜物語」パターンである。

実は、私は「ワンピース」をほとんど読んでいないしアニメも見ていない。以上は、私が耳にした範囲から想像したことである。

長くなったので、とりあえず今回はここまでとする。

笑いの原理

「独楽」的な趣味の一つとして、小説や漫画原作やシナリオを書く、ということについて考えてみる。
断片的に考えていくつもりである。

今日は、最初に、ギャグやユーモアの作り方を考えてみたい。

手元にある三つの漫画から、その特徴や、それがなぜ笑いを生むのかを考えよう。
三つの作品は、「三月のライオン」「でぃす×こみ」「蒼の六郷」である。「三月のライオン」はともかく、ゆうきまさみやあさりよしとおの漫画のユーモアが好きだ、という人は珍しいかもしれないし、彼らの漫画の特長がユーモアだ、と言う人も多くないような気がする。それだけに、なぜそれが「読んで心地いいユーモア」なのかを考察する価値はありそうだ。

まず、「三月のライオン」から考えてみる。
そのユーモアは、「いい大人が子供じみた行動を大真面目でする」、あるいは「大人を大きな子供として描く」ことから来ることが多いように思う。美女も美男も善人も悪人も、どこかで子供っぽい一面を見せ、それで読者は彼らを好きになってしまう、ということが多いのではないか。「悪女」キャラの香子が、食い過ぎで動けなくなる等。
もう一つは、「心で考えていること(自分を美化したりしている)」と、現実行動や他人から見た姿の食い違いによる笑いである。
こう書けば、簡単なように見えるが、その具体的な事柄をひとつひとつのプロットや出来事として頭脳から生み出すことは、なかなか大変だろうと思う。おそらくは、人物たちの出遭う事件に際して、それぞれの人物が考えることや行動することが、「三月のライオン」キャラとしてはこう考え、こう行動するはずだ、という線があるのだろう。
つまり、笑いを狙って、ありえない行動やありえない事件を無理に作るのではなく、ありうる行動だが、「三月のライオン」キャラらしい誇張を加える、ということかと思う。
たとえば、「自分が考えている自分の姿」と「他人が見たその人の姿」の食い違いのような、当たり前の食い違いでも、漫画として描けば、それだけで笑うに足るものとなる。そういう内面と外面の落差というのが、「三月のライオン」ではかなり大きな比重を占めているようだ。それだけでなく、過去の自分と今の自分の落差、理想の自分と現実の自分の落差が、この作品の物語としての大きな柱であり、笑いをも生み出す部分だろう。結論「落差は笑いを生む」。

「でぃす×こみ」の笑いは、何によるものか、分析が難しい。概して、主人公の一人である高校三年生の女生徒でかつ新人漫画家である渡瀬かおるのキャラクターが笑いを作っているようだ。可愛いが少し癇癪持ちで、頑固で融通が利かないところがあるが、素直に他者の美点を認めるし、常に前向きである。頭はいいがどこかずれていてのんびり屋の兄とのコンビネーションが笑いを生むのだと思う。落語の「長短」みたいなものだ。いずれにしても、キャラから来る笑いであり、また、兄妹両者の落差(編集者との落差もある。)から来る笑いだから、ここでも「落差は笑いを生む」原理に従っているかと思う。


「蒼の六郷」はどうか。絵柄の可愛さで読者をほのぼのとした気持ちに誘うのはいつもどおりだし、笑いの質もいつもどおりだが、あさりよしとおの笑いとはどういう笑いなのか、これも分析は難しい。一番目立つのは「何か重大そうな出来事」があって、それに対して登場人物たちが身構えていると、無害そのものの出来事であったことが判明する、という「大山鳴動して鼠一匹」の笑い、「拍子抜け」の笑い、「肩すかし」の笑いかと思う。これは「落とし噺」の常套手段でもあるが、あさりよしとおはこれを多用しているように思う。そして、これもまた「予期したこと」と「解決(真相解明)」の落差から来る、と言える。


以上から結論されることは、「落差が笑いを生む」という原理かと思う。

ハゲ頭そのものも笑いを生む(これは「不調和が笑いを生む」原理と言っておく。)が、禿げ頭の男がかぶっていたカツラが取れて禿げ頭がばれる、という事態のほうが、「落差」が大きいから、それだけ笑いも強くなるのではないか。

なお、「気持ちいい笑い」と「不快感を与える笑い」の違いは、後者にはわざとらしさ(極端な不自然さ)、臭み、他者(特に弱者)に対する悪意が感じられるところにあるかと思う。



(追記)「真田丸」のある場面についてディレクターの一人が語った言葉が、「落差がギャグになる」ことのいい事例かと思うので、引用しておく。ここでは、ギャグが同時にその人物の性格をも表現している。


 一例は第1話「船出」(1月10日放送)。武田家が絶体絶命の危機を迎え、囲炉裏を囲んだ真田家の“家族会議”。父・真田昌幸(草刈正雄)は一家全員を前に「安心せえ。この真田安房守がいる限り、武田が滅びることは決してない」。直後のシーン、息子の信幸(大泉洋)信繁(堺)と3人だけになると、昌幸は「武田は滅びるぞ」-。

 「単純に見るとギャグのようにも思えるし、もちろん笑えるんですが、そこには行間が生まれていて。(昌幸の)母・とり(草笛光子)、妻・薫(高畑淳子)、娘・松(木村佳乃)と女たちの前だと『滅びない』と言い、息子2人の前だと『滅びる』と言う。その間に『昌幸がなぜそうするか』ということは全く語られていないわけですが、昌幸は息子2人を他の者とは全然違うふうに見ているということ、息子2人には本音を語るということが象徴されています。そして昌幸が、必要ならためらうことなく二枚舌を使う男だということも」