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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

自由意思と自由恋愛

「シロクマの屑籠」から部分転載。
まあ、「自由恋愛」時代になって、「結婚できない男女」が大きく増えたのは事実で、その最大要因は日本の経済的衰退と格差社会だろうが、実は「自由恋愛」が案外不自由なものだ、というのも大きい。つまり、結婚について「周囲が面倒を見てくれない世の中」になったのだ。


(以下引用)

そうしたわけで、私が異性の選択で失敗している人のソリューションとして精神分析的なアイデアを連想していたのは10年ぐらい前までで、それ以降、精神分析的に考えるのはやめてしまった。
 
それと、異性の選択には遺伝子の関与がある。服を着て法律を守って暮らしているようにみえる人間だって、配偶という次元では案外動物だ。その動物が、免疫学的事由なども含めて、たとえばにおいなども込みで異性を選択しているきらいがあるのは、まあ間違いないだろう。精神分析的なアイデアは、こうした本能的選択まで込みで考えるには向いていない。
 
 
それなら、精神分析が得意な生育環境の問題と、生物学的な遺伝の問題をまとめて考えるのに適したワードは無いものか?
あるじゃないか!
それが仏教でいう因縁だったというわけだ。
 
では早速、この問題を因縁に基づいて考えてみよう。すると、だいたい以下のような感じになってしまうだろう。
 
「人間は、くっつくべき人間とくっつく。なぜなら、家庭で育まれた病理性、生まれ持っての遺伝性、それからどんな場所でどんな人間と巡り合うかの縁の問題は、すべて因縁のなした結果と言えるからだ。」
 
となる。じゃあ、その因縁をもたらす原因や要因を分析して、未来を予測したり、未来を変更したりするにはどうすればいいんですかと考えると、仏教に忠実に考えるなら、以下のような答えになると思う。
 
「因縁をもたらすさまざまな原因や要因をすべて考慮し、そこから未来を予測できるのは、人間には難しい。仏教的にそれが可能なのは、如来だけである。ちなみに如来は、釈迦牟尼か、あとは形而上の存在だからよろしく。」
 
……まるで役に立たない。
 
いまどきは仏教にも色々あって、護摩壇に火を焚いて現世利益を謳うものや、念仏を唱えれば来世はなんとかなりますと宣伝するものもある。けれども、こと、因縁という考え方に基づいて配偶者選択をうまいことやろうと思っても、私たちには上手くいきそうにない。少なくとも如来のように、ズバリ未来を予測したり、自在に未来を変更したりってわけにはいかないだろう。
 
加えて、因縁の考え方次第では、自分の自由意志がなんとも頼りない気がしてくる。いや実際、自由意志とは(欧米の)近代個人主義社会が要請した概念として存立しているのであって、その要請を剥がして自由意志を点検すると、案外フニャフニャしていて、頼りなく見えるのだけど。そうした近代個人主義社会の要請をひっぺがし、因縁という考えにもとづいて点検する自由意志は、流されがちな、意のままにならないものである。今まで自由意志だと思っていたものが、(家庭や社会環境や遺伝子といった)過去の因縁にもとづいて構築されていると考え、それが毎回救われない恋愛や配偶を"自己選択"していると考えた時、なんだか救いがないように思えてこないだろうか。
 
そのうえ現代社会は自由恋愛化しているので、お見合いとか、会社の仲人とか、イエの押しつけとかで配偶が起こることはまずない。自由恋愛は、自由意志にもとづいた恋愛や配偶を可能にしてくれるが、まさにそうだからこそ、自分自身に内在する諸要因によって異性の選択に毎回失敗している人を、必ず失敗させてしまう。自分自身に内在する病理性や遺伝的素因が異性の選択に影を落としているタイプの人にとって、自由恋愛とは、出口なき永遠の輪である。
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男の「恋愛」と女の恋愛

町山智弘のツィートだが、私は昔のフランス映画を見て、ラブシーンの長さ(セックスシーンが公認されていない時代だったから、愛の告白(口説き)シーンが延々と続くのである。)に実に辟易したのだが、それと対照的事象として思い出したのが、昔の確か少年チャンピオンに一時期連載され、二作目以降は聞いたことがない、「消えた漫画家」による「ふられ竜之介」という漫画で、その主人公は「美しき生徒会長」に恋しているのだが、オナニーした後でその生徒会長を見ると、電波障害のテレビ画面のような容貌にしか見えない、というシーンがあり、これは「男の恋愛」の深層を突いているなあ、と思ったものである。つまり、「射精したら終わり」が男の「恋愛」の常態、あるいは本質だろう。ちなみに、この漫画には「美しき不良少女」というセリフも出てきて、少年漫画の「パターン」をパターンとして認識できる鋭い頭脳の作者だったと思う。そのまま続けていたら、ゆうきまさみレベルの地位に達したのではないか。

なお、私には、女性の恋愛の本質が分からない。「女性は自分を愛してくれる(言い寄る)男性を好きになる」というのが本質ではないか、と思う。まあ、それ以前にビジュアルの問題はあるだろう。そして、「暴力的な(強引な)男を好きになる」というパターンもかなり多いと思う。
いずれにしても、恋愛の本質はかなりいい加減なもので、従って「つらい結果を迎える」のは当たり前なのではないか。逆に言えば「遊びとしての恋愛」が一番安全だろうが、それは「恋愛教信者」には汚らしい感じも伴うだろう。当然、性病と二人三脚だ。



(以下引用)

kei-zuさんのレビュー「つらい結果を迎えることがあっても、人はなぜ恋をするのだろう。本書のあとがきに掲載された著書の所感がすばらしい。 私は、紹介された映画のほとんどをみていませんが、著書の映画語りをたっぷり楽しむことができました(・∀・)」

「英語を読む」ための勉強法事例

「紙谷研究所」から転載。

(以下引用)

酒井邦秀監修・佐藤まりあ著『大人のための英語多読入門』

 

 英語を勉強していると書いたためであろうか、人から英語の勉強法を勧められることもある。ある人から勧められた勉強法もあるのだが、まだ読み終えていない。なので、ここでは引き続き「自己流」のものを書いていく。

 

 英文の記事を読んでわからない単語を単語帳に落としていく方式をとっていたが、たぶん同じような傾向の記事を読んでいたせいであろう、「全くわからない」という単語も少しだけ減ってきた。読むスピードも心なしか早くなり、量も増えたような気がした。

 

 そういう時に酒井邦秀監修・佐藤まりあ著『大人のための英語多読入門』を読んだ。

 

 

英語の勉強ばかりして、英語を「使わない」といつまでも使えるようになりません。素振りだけしかせずに、野球の試合やゴルフコースに出ても、さんざんな結果に終わるのと同じことです。(同書p.8)

とあるのに、揺り動かされ、もっと読んでみようと思うようになった。

 ただし、同書が勧める「多読三原則」はなかなかにシビアで、

  1. 辞書は引かない。
  2. わからない部分は飛ばす。
  3. 進まなくなった本は後回し。

というもので、2.と3.は道理があるとぼくも思ったものの、1.はキツい。同書が1.にこだわるのは「辞書を引きながら読むと『お勉強』になってしまい、『読書』として楽しめません」(p.10)という理由からだ。同書はこの原則には相当なこだわりがあり、何度もそれは説教している。さらに詳しくは展開されているのだが、ここで紹介することは省く。

 行方昭夫『英文の読み方』もやはり多読(厳密には「精読」と「多読」の並行)を進めるのだが、こちらは「ひたすら辞典を使い込む」(行方p.47)という真逆の原則を示す。

 

 

 そこでどうしたかといえば、読売や日経に載っている英語勉強のためのコーナー(英語工房・Step up English)は辞書を使う。

 しかし、次の3つは辞書を使わずに読む、ということにした。

  1. Penguin Readers(英語初心者のためのやさしい読み物)
  2. Japan Press Weeklyの記事
  3. The Guardianの記事

 

 

 1.は『大人のための英語多読入門』で紹介されていたものだが、レベル3とか4あたりだとほとんど苦痛なく、辞書なしで読める。

 『英文の読み方』でも平易な読み物を併せることは勧めている。

これは読み続ける意欲を高めるための特効薬といっていいでしょう。「自分には初級の文章は簡単すぎる」という方でも、少し行き詰まりを感じたときなど、いったん初級に戻って「多読」を試してみる価値は十分にあると思います。(行方p.18)

 オーウェルの『動物農場』とかもむっちゃ簡単な英語で書かれているので、楽しく読めた。

 

 2.は主張や報道事実をよく知っているせいであろう。これもスラスラ読める。

 3.が一番歯ごたえがある。手当たり次第、というわけにはいかないので、気候変動関連、今ならCOP26の記事ばかり追っている。電車で読むことが多いが、たいてい1記事が終わらない。

 

 そして、楽しい。

 「楽しいので続けられる」という根本原則が今のところ守られているのが大きいと思う。

 

 進歩を感じる日々なのだが、他方で、「読む」以外の機能はほとんど発達しない。

 中学生の娘に英語の宿題などを聞かれるのだが、正確に答えられない。全然英語ができないみたいな感じになってしまうので、娘から笑われる。「缶詰が必要です。なぜなら、保存がきくからです」っていう英作文を要求されるが、

「うーん…I need cans.かなあ…。缶詰ってなんだろ。それで…ええっとBecause they are keepable.か…?」

などとあやふやに答えていると、そもそもtheyで良かったのか不安になる上に、横からつれあいが「keepableってここで使うのはおかしい」と言い出すので、面目丸潰れである。

 

議論は、まず議論の前提条件の正否を確認するのが当然

まあ、こういう「どうでもいい問題」を真面目に論じるのは嫌いではないが、問題なのは「問題の前提が事実かどうか」を確かめないで論じていることだ。
これは「酸味のあるコーヒー」の場合の話だろう。私は酸味のあるコーヒー(キリマンジャロなど)は大嫌いなので、まったく買わず、酸味のほとんど無い「コロンビア、マンデリン、モカ」を好みとするが、ブレンドでもちゃんと味の「酸味、苦み」の度合いはパッケージに書いてある。
そして、もともと酸味の少ないコーヒーは、時間が経っても酸味が強くなることはまったく無い。

(以下引用)

講義後に質問に来た学生と、なぜコーヒーは煎れて時間が経つと酸っぱくなるかについて文献検索した。小一時間の調査の結果、焙煎によって生じたコーヒーの成分クロロゲン酸ラクトンがお湯の中で加水分解してカルボン酸になるからではないかということで一件落着。私としても面白い時間になった。

後見よソワカ

某漫画家のツィートだが、年を取るとありがちなことだろう。
で、こうした物忘れがしばしば大きな事故になる。
そういう事故を防止するための呪文があって、これは幸田露伴が娘の文に教えた呪文で、自作の冗談めいた呪文だが「後見よソワカ」というのである。「ソワカ」は真言の呪文の最後に付ける言葉で「成就せよ」みたいな意味らしい。漢字では「蘇(薩)婆訶」と書くようだ。
つまり、何かをやって、次の行動に移る前に、周りを見回して、見落としが無いか確認しろ、ということである。昔の駅員は「指差し呼称」をしたものだが、今でもやっているだろうか。
とにかく、行動はゆっくり確実に、がプロの心得である。これは素人にも日常生活にも通じる。
なお、「買ってきたトートバッグ」は、トートバッグを買ってきたわけではなく、「買い物に使ったトートバッグ」だろう。短文にしようとあせるとこういう文になる。まあ、ツィッターは意味が通じればいい、という考えが普通なので、日本語が壊滅的になる。

(以下引用)

夕方4時ごろ買ってきたトートバッグ、玄関に置きっぱなしにしてた。牛乳パックどうしたものかなあ。