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青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳
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地球上では、雷や電離層などが代表的であり、地球電磁気学や超高層大気物理学によって研究される。
マーチソン広視野電波干渉計を用いた観測によって、高度約600kmの電離層上部からその上のプラズマ圏に向かって地磁気に沿って伸びるチューブ状のプラズマ構造物の存在が確認されている。
我々の生活に必要不可欠な火もプラズマの一種である。
その他の地球におけるプラズマに、中間圏発光現象、セントエルモの火、球電、地震などがある。
宇宙空間においては全宇宙の質量の99%以上がプラズマであり、プラズマは最もありふれた物質の状態である。地球と太陽の近傍の宇宙の物理現象を扱う太陽地球系物理学、宇宙スケールの現象をプラズマと関連付けて探究するプラズマ宇宙論、天体における物理現象を扱う天体物理学などの研究領域がある。
邪馬台国はどこにあったのか――。古くから続けられてきた論争に決着が付かない理由は、『魏志』倭人伝に記された地理的情報にこだわっていたからだと、歴史学者・桃崎有一郎氏は指摘する。そして、あることに注目すると結論が見えてくるという。
◆◆◆
いわゆる邪馬台国論争(邪馬台国はどこにあったのか、という議論)は、詰んでいる。
当時は文字があまり普及していなかったので、「ここが邪馬台国だ」と書かれた遺物が出土する可能性は期待できない。遺跡や遺物は、複数の解釈を許すものしか出土せず、最後は文献の裏づけを援用しなければならない。
ところが、その文献史料での議論が詰んでいる。3世紀に成立した根本史料の『魏志』倭人伝には、「どこから、どちらへ、どれだけ進めば邪馬台国へ着く」という行程記事が明記されている。その通りに進めば邪馬台国に着くはずなのだが、着かない。現在の地理や、後代の遺存地名や、ルートの合理性などを考慮して、朝鮮半島から伊都(いと)国(後の筑前国怡土(いと)郡。今の福岡県糸島(いとしま)市)までのルートには疑問の余地がない。ところが、その先のルートの記述が曖昧で、どこでも好きな場所へ到達するルートに読めてしまう。そのため、誰かが「これこそ『魏志』倭人伝の正しい読み方の決定版」という説を発表しても、山ほどある「決定版」が一つ増えるにすぎず、議論が混迷を深めるだけだ。
これまでの議論は、〈『魏志』倭人伝には必ず、史実と合う一つの正しい解釈があるはずだ〉という楽観的な大前提の上になされてきた。ところが最近、古代中国史家から、それは希望的観測にすぎない、という指摘が出された(渡邉義浩説)。『魏志』倭人伝を含む古代中国の史書の地理情報は、著者が信じた(信じようとした/読者に信じさせようとした)教条主義的な儒教の世界観に基づいており、記述の根本が机上の空論なので、そもそも現実の地理情報として読めるという発想が誤りだ、と。全く筋が通っており、これに対する有効な反論は、恐らくできない。
私もこの議論の門外漢だが、外から見ていると、『魏志』倭人伝の解釈で争う限り、邪馬台国論争に解決の見込みがないことは明白だ。解決するには、『魏志』倭人伝を離れて決め手を見つけるしかない。ただし、それを見つけるのは、門外漢の私ではない。そう思っていた。
ところが、自分の研究を進める中で、偶然、その決め手らしきものを見つけた。古代中国の《礼》という文化が、日本列島の文化にいつ、どこを通って、どのように影響を与えてきたのかを追跡していた時だ。
私が見つけたのは、古代中国では一般的な法則である。その法則は日本にも導入されたが、そのこと自体にも、それがどれほど重大かも、気づいた専門家はいないようだった。『魏志』倭人伝の行程記事に微塵も依存せずに、邪馬台国論争を解決へ導ける文献史料。そのような、まず見つかるまいと思っていた鍵が、もしかしたら私の手元にある。
その話を雑談で本誌の編集氏にしたところ、原稿化を強く勧めて下さった。とはいえ、その情報が鍵として使えることの証明は煩雑で、本誌のような雑誌の読み物として公にできる分量や内容ではなかった。私はかなり悩んだ末、証明は学術論文として急いで発表し(末尾の参考文献参照)、また一般向けの丁寧な紹介は、著書として書ける機会を待つことにした。本誌では、その新説のあらましと結論を、ごく簡単に紹介させて頂きたい。
邪馬台国論争を解決から遠ざけてきた最大の誤りは、「邪馬台国」を「ヤマタイ国」と読んできたことだ。学校教育で「ヤマタイ国」と誤った読みを教えてきたのは、実に理解に苦しむ。「邪馬台」を「ヤマタイ」と読むのは新井白石あたりに始まるようだが、それが正しい証拠は、ただの一度も示されたことがない。
「邪馬」を「ヤマ」と読むのはよい。問題は「台」だ(正確には旧字体の「臺」だが、以下「台」と同じとして話を進める)。
古代中国の南北朝時代・隋・唐(5〜10世紀頃)では、確かに「台」は「ダイ」に近い発音だった。しかし、3世紀に書かれた『魏志』倭人伝やその原資料が、ある日本語の地名を「邪馬台」と音写した時に最も近い頃、中国の「台」の発音は、「ダ」と「ドゥ」の中間のような音だった。
さらにいえば、「台」と発音が全く同じ「苔」の字が、上代(飛鳥・奈良時代)に「ト」と読まれた証拠が、8世紀に成立した『日本書紀』以下のわが国の正史に多数ある。上代日本語の「ト」には甲類・乙類の2種類があるが、これは「ト(乙類)」である。上代日本語で「ヤマト(、)(乙類)」となるその音を、中国人は「ヤマダ(、)(ヤマドゥ(、、))」のような音として聞き取り、「邪馬台(、)」と書いたのである。後に、日本の正史は、日本全体や奈良地方を表す「ヤマト(大和)」を「野馬台(、)」「夜摩苔(、)」とも書いた。これらも、「邪馬台」の「台」が「ト」だった証拠だ。
かつて、江戸前期の松下見林(けんりん)という国学者は、著書『異称日本伝』の中で、「邪馬台」を「ヤマト」と読み、「大和」と同じだと結論していた。後世の人が、なぜこの結論をきちんと検証せずに捨て去って「ヤマタイ国」にしてしまったのか、不思議だ。我々は、「ヤマタイ(、、)国」論争とは訣別せねばならない(なお、九州にも「山(ヤマ)門(ト)」という地名があるが、「門」の字で表す「ト」は甲類なので、日本全体や奈良地方を指す「ヤマト」とは上代の発音が違い、ここでは忘れてよい)。
そうなると、後代の地名で「邪馬台」と完全に発音が一致するのは、日本全体や奈良地方を指す「ヤマト」しかない。ならば、「邪馬台」という地名の場所は、その「ヤマト」との関係から探る以外にない。
「邪馬台」が、日本全体のようなかなり広い地域を指す「ヤマト」としか結びつかないならば、邪馬台国の場所は特定できない。逆に「邪馬台」が、日本のどこか特定の地域を指す「ヤマト」と結びつくのなら、そこに邪馬台国の場所を求めるのが自然だ。もっとも、奈良地方に「ヤマト」という地名があるからそこが「邪馬台」だ、というだけでは新説にならない。私の説ではむしろ、奈良地方以外(、、)を指す「ヤマト」の存在が重要になる。
繰り返しになるが、「ヤマト」という地名が指す範囲の広さは、何通りもある。それが問題をややこしくし、なおかつ、問題を解く最大の鍵になる。
まず、日本列島の統一王朝全体(統一されていない状態も、便宜的にこう呼ぶ)を指す、国号としての「ヤマト」がある。話の都合上、これを「ヤマト(最上層)」と呼ぼう。
それより小さく、その中に含まれ、律令制では「大和国」とされた、現在の奈良県地方にあたる、かなり広い行政区分の「ヤマト」もある。これは「ヤマト(中間層)」と呼ぼう。
それより小さく、その中に含まれた別の「ヤマト」もある。「ヤマト」という地名が指す用例のうち最も小さいその領域は、奈良盆地東部の、律令制の行政区分でいう磯城(しき)郡(後に城(しきの)上(かみ)郡と城(しきの)下(しも)郡に分離)と十(とお)市(ち)郡の領域にあたり、その中心部は大和国の城下郡に属する「大和郷」(ヤマト郷またはオオヤマト郷)の場所にあった。この地域を指す「ヤマト」を「ヤマト(最下層)」と呼ぶことにしよう。
これら3つの「ヤマト」には、様々な漢字が宛てられた。「日本」「大和」「大倭」「倭」などである。これらのうち「日本」は、「ヤマト(最上層)」を指すものに偏(かたよ)る。『日本書紀』では、1例だけ「ヤマト(中間層)」の用例があるが、残る218例が「ヤマト(最上層)」であると、先学が指摘している(神野志隆光説)。
一方、「倭」については、興味深い使い分けが見られる。『日本書紀』には、飛鳥時代の朝廷の公式見解として、日本で書かれた本文と、外国(中国・百済)の典籍を引用した注の文章がある。そのうち本文では、「倭」の9割以上が「ヤマト(中間層・最下層)」を指した。ところが、注に引用された中国・百済の典籍ではすべて、「倭」が最上層の統一王朝全体を指した(井上秀雄説)。『日本書紀』の本文自体には、〈「日本」は国号。「倭」はそれ以外〉と書き分ける、ほぼ一貫した方針があったのに対して、外国の典籍には〈「倭」は国号〉という、本文とは異なる一貫性があって、両者で食い違っていた。この食い違いも、後で重要な鍵になる。
なお、「倭」の字を、卑弥呼に近い時代の中国人も「ワ」に近い発音で読んだが、その頃、訓読みはまだ存在しなかった。つい「倭」を「ヤマト」と読んでしまいたくなるが、訓読みの発明は、3世紀前半の卑弥呼の時代よりもかなり遅れることを念頭に読み進めて頂きたい。
奈良時代の半ば以降、「ヤマト(中間層)ノクニ」は「大和、国」と書かれたが、それ以前は「大倭、国」と書かれた。和銅6年(713)に出された「地名は好ましい漢字二字で表記せよ」という朝廷の方針=“好字二字令”の影響で、「倭」が〈穏和・調和〉を意味する「和」に書き換えられたのである。従来、「ヤマトノクニ」は「大倭国」と書かれたが、天平9年(737)に「大養徳国」と表記を改められ、10年後にまた「大倭国」に戻された。要するに、「ヤマトノクニ」の漢字表記は、「大倭国」→「大養徳国」→「大倭国」→「大和国」と変遷した。
これらの固有名詞の部分から、すべてに共通する「大」の字を差し引くと、「倭」=「養徳」=「和」という等式を導ける。「養徳」は「徳を養う」と読め、当時の日本で支配的だった儒教の《礼》という価値観に沿って、好ましい漢字に置き換えられた宛字だ。そして、「養徳」の二字で「ヤマト」の音写にもなっている(ヤ、ウト、ク)。とすると、この等式にあてはめて、「倭」=「養徳」=「和」=「ヤマト」という関係を導ける。
大和・大倭・大養徳の「大」は発音されない字(“黙もく字じ”という)で、あってもなくても「ヤマト」という発音は変わらない。「倭国」で「ヤマトノクニ」を表せるし、実際に藤原宮(藤原京の天皇の宮殿)で出土した木簡には、行政区分としての「ヤマトノクニ ソフノコホリ」を「倭国、、所布評」と書いたものがある(評こおりは後の郡のこと)。これに黙字の「大」の字を付したのは、好字二字令に沿って、“偉大なる”を意味する美称の「大」を「倭(和)」に付加したからだろう。
「大」も「養徳」も「和」もすべて美称であり、地名としての本質とは関係ない。「ヤマト(区分)」という地名の本質に関わる漢字は、それらの黙字や宛字をすべて取り去った後に残る「倭」である。
◆
本記事の全文は「文藝春秋」2024年3月号と、「文藝春秋 電子版」に掲載されています(桃崎有一郎「 画期的新説 邪馬台はヤマトである 」)。
(桃崎 有一郎/文藝春秋 2024年3月号)
買弁(買辦)とは、
元々「買辦」とは、上記の1.の意味すらなく、中国の明朝において宮廷や地方官庁のために日用品を代理購入して用立てることを担当していた商人を指す言葉であった。使用されている漢字を見てもそれがわかり、「買」は「買う」「購入する」ことを指し、「辦」は「処理する」「務める」「扱う」ことを指す。つまり「購入係を務める者」と言った程度の意味でしかなかった。この職掌は明から清へと王朝が移っても存続した。
清朝は1757年から、広東のみを欧米諸国との通商を行う港湾都市とする制度を設けた。これを「一口通商」と言い、この時代の広東は、鎖国時代の日本における長崎にも例えられる。だが、アヘン戦争を経て南京条約を締結することになり、広州・福州・厦門・寧波・上海の5つの港湾都市が対外貿易のために開かれるようになった。これを「五口通商」という。
その後、この五都市に商社や銀行など多数の外国資本が進出した。これら外国資本に雇用されていた、あるいはビジネスの相手となった中国人商人たちは、上記の「宮廷・官公庁の求めに応じる商人」になぞらえて「買辦」と呼ばれるようになった。
「買辦」らの中には、外国資本の元でのビジネスでノウハウを身に着けて、外国資本から独立し自らが主体となって貿易などを行う企業を立ち上げた者などもおり、成功して巨万の富を築き上げた例もある。
一方、これら「買辦」らの商行為について、自らの利益を追い求めるあまり(あるいは、自国の利益を鑑みることを放棄したために)、外国諸国が中国を半植民地化していく過程に協力するものであった、として非難する視点もある。ここから、次節で触れるように、「批判する言葉」としての「買辦」が派生した。
現在の日本では「買辦」ではなく、簡略化した新字体で「買弁」と記されることが多い。ちなみに「弁論」や「弁別」「花弁」の「弁」は新字体では「買弁」の弁と全く同じ文字だが、それぞれは元々「辯論」「辨別」「花瓣」であり、「買辦」の「辦」とは異なる文字である。
「買弁」とは、「外国の利益となるが自国の国益を損なう行為」を批判する時に用いられる言葉である。
ニュアンスとしては一部の右派が好んで使う「売国」と大差ない。だが左派は「売国」という表現を嫌う傾向があるが、この「買弁」については一部の左派なども使用している。一種の言い換え語であるとも言える。
例えば、「安倍晋三総理の採決した平和安全法制は、米国への買弁行為だ」という批難は左派から出ている。他にも「安倍政権の日韓合意での10億円バラマキも米国の顔色を窺った買弁行為だ」という批難がリベラルと右派からも出ている。
このように右派左派関連無く使用される傾向のある言葉が「買弁」という単語である。ただし、「売国」に比べて知名度・認知度は低い。