忍者ブログ

独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

ショーヴィニズム

一般人はほとんど耳にしない言葉だと思うが、フェミニズム界隈ではよく聞く言葉のようだ。
ファインマンが、ある時女性たちに囲まれ、「メイルショービニストピッグ!」と罵られた話をその本の中で面白そうに書いている。


ショーヴィニズム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ショーヴィニズム (英語: chauvinism) は、自身の属している集団が強大で徳が高いとみなし、他の弱く無価値で劣った集団より優っていると信じる、反理性的な思想を指す[1]パトリオティズム(愛国主義)やナショナリズムの一形態とも言うことができ、自身のネイションの卓越ぶりと名誉を熱狂的に信奉するものである[2]。ショーヴィニズムを奉じる人はショーヴィニスト (英語: chauvinist)とも呼ばれる。

英語において、ショーヴィニズムという言葉は特に「男性ショーヴィニズム」の略として使われることもある。2018年版ウェブスター辞典では、ショーヴィニズムの第一義を「異性の人々に対する超然的な態度」と説明している[3][4][5]

由来

[編集]

この言葉の名称は、あるフランス人兵士ニコラ・ショーヴァンの逸話に由来している。ナポレオン戦争に従軍していた彼は重傷を負い、わずかな傷病年金を受給して暮らした。ナポレオン1世が退位した後、ショーヴァンは復古王政期の風潮に逆らい、ナポレオンのフランス帝政を救世主であるかのように信じ、狂信的なボナパルティズムの信仰を貫いたと言われている。彼の一途で盲目な、味方に無視され敵に嫌がらせを受けても揺るがなかった信仰ぶりから、ショーヴィニズムという言葉が使われるようになった[2]

ショーヴィニズムという言葉は元のショーヴァンの行動から生まれた意味がさらに発展し、何らかの、特に自身が所属している集団への狂信的な傾倒や不当な偏愛から、外来者やライバルの集団に対して否定的な先入観や敵意を示したり、圧倒的な反対を受けても自身の考えに固執したりするといった意味を包含するようになった[2][3][6]。ショーヴィニズムの持つフランス的な性質は、英語のジンゴイズムにも表れている。ジンゴイズムは、好戦的ナショナリズムというショーヴィニズム本来の意味を持ち合わせている[6][7][8]

宰予はなぜ「昼寝」で人格まで否定されたか

「古典・詩歌鑑賞」というブログから転載。
まあ、女性と寝ていたというのはうがちすぎで、「孔子の講義を聞くのをさぼって」昼寝をしていた、というのが真相ではないか。それを「論語」では「昼寝していた」とだけしか書かないからいろいろ憶測を生むわけだ。
で、さらに深読みすると、「孔子の講義を聞くのをさぼる」という、孔子門下には「天をも畏れぬ所業」が孔子一門の中で事件として発生したことを論語の中に記すこと自体が孔子への不敬であり、孔子一門が軽侮される災厄の種になる可能性をはばかった、というのが真相なのだろう。
教師には権威がなく、生徒は授業をさぼるのにまったく罪悪感の無い現代人には、「宰予昼寝事件」がミステリーになるのである。

(以下引用)

2012年8月30日 (木曜日)

さいよひるいぬ(論語)

宰予昼寝、子曰、朽木不可雕也、糞土之牆不可杇也、於予與何誅、子曰、始吾於人也、聴其言而信其行、今吾於人也、聴其言而観其行、於予與改是(公冶長第五・10)

宰予昼寝(い)ぬ、子曰く、朽木(くちき)は雕(ほ)るべからず、糞土(ふんど)の牆(しょう)は杇(ぬ)るべからず、予に於いてか何ぞ誅(せ)めん、子曰く、始め吾人に於けるや、其の言を聴きて其の行(こう)を信ず、今吾人に於けるや、其の言を聴きて其の行を観(み)る、予に於いてか是を改む

ーーーーーーーーーー

(意訳)

宰予が昼寝した。孔子(先生)がおっしゃった。「くさった木には彫刻できない、糞土では垣根に上塗りできない。宰予には何を言っても仕方がない」 さらにおっしゃった。「これまで私は、人の言葉を聞いて行いを信用した。これからは人の言葉を聞いて、その行いを観察することにしよう。宰予の件で改めたのだ」

※宰予(さいよ)=宰我、孔門十哲のひとり、言語に優れる。

論語公冶長篇の有名な章です。宰予が昼寝していたので、孔子にこっぴどく叱られました。いつも偉そうなことを言うが、行動が伴わないということでしょう。弁舌に優れ、言葉をたくみにもてあそぶ人にとってはありがちなことです。

それはそれとして、ここでは「ひるいぬ(昼寝)」に注目してみます。昼寝といっても、宰予はいったい何をしていて、孔子の怒りを買ったのでしょうか。

(1)ただ、間(孔子の話を聞かず)て(居眠って)いただけ。

(2)室で(え)を描いていた(昼の旧字「晝」と、画の旧字「畫」が似ている。記録ミス?)

(3)室に身分不相応な高価なを掲げていた(同上)

(4)女性と間からていた。

など、さまざまな説があることは承知していましたが、最近読んだ「おとこ・おんなの民俗誌」(池田弥三郎著、講談社文庫)に、興味深い文章を見つけました。というのは、『ねる』という漢字には(寢)とがありますが、どうやら若干意味が違うらしいのです。

寝→寝室をしつらえてねること

寐→目をつぶってねいること

言うまでもなく、この章ではが使われています。ということは、孔子の話を聞いているときに、ただ居眠りをしていたのではなく、少なくとも宰予は寝室にいたことになります。孔子の怒り方も尋常ではないですから、ここは(4)女性と昼間から寝ていた、というのが真相のようです。

幕末の思想家佐久間象山が江戸に出てきて儒学の先生についたとき、論語のこの章の解釈を、居眠りをして叱られたと説明され、「そんなバカなことを言う学者では話にならん。これは昼間からに入っていたから叱られたのだ」と言って、すぐにその先生のもとを去ったそうです。(ねや)といえば、明らかに女性のいる部屋のことです。

【369】

欧州の雨

ジリオラ・チンクエッティの「la pioggia」は、まるで雨の風情の無い「行進曲」風の歌だが、イタリア語の「ラ・ピオッジャ」も雨の風情が無い響きの言葉である。
ちなみに、スペイン(spain)では雨(rain)は主に(main)平地(plain)に降るというが、それはどんな雨か。

AI による概要
「la pioggia(ラ・ピオッジャ)」はイタリア語で「雨」を意味する言葉です。また、イタリアの歌姫ジリオラ・チンクエッティ(Gigliola Cinquetti)のヒット曲のタイトルでもあります。

「お洒落」な人生

昔、予備校で現代国語などを教えていた時、須賀敦子の文章が入試問題にやたらに出てきて、「この女、何者だ?」と思ったが、外国暮らし(それも上級国民や文人、芸術家周辺)が長い女性への憧憬と賛嘆がその土台だったかと思う。作品自体は、その異国情緒が雰囲気を作っているが、ありふれた随筆に思えたが、その「知的お洒落さ」が受けたのだろう。だが、西洋が完全に没落退廃した今の時代に彼女の随筆を読む人がいるだろうか。あるいは、「こういう時代もあったのだ」と、たとえばアメリカの「ローリング20’s」を懐かしむように、また読まれるかもしれない。

(以下松岡正剛の「千夜千冊」から転載)

 須賀敦子は『ミラノ 霧の風景』(白水社)を出したとき61歳になっていた。それまでに彼女が呼吸してきた瑞々しいガイコク感覚は、べつだん本を出さなくたって存分に周囲に放射されていたのだが、この一冊によってわれわれも須賀敦子の呼吸の奥にある言葉による再生感覚を知ることができ、彼女も翌年からたてつづけにその才能を本にする機会に恵まれた。
 そういう女性はいろいろなところにいるものだ。彼女たちは、すばらしい人生をおくりながらも一冊の本も書かないことが多いけれど、たいていはある領域の文化をみごとに動かしている。そういう女性がいなければ、その界隈の文化の花は咲かなかったであろうような、そんな役割を思わず知らず担っている女性たちである。ぼくはなぜか、そういう女性によく出会う。須賀敦子もそのような一人だった。
 阪神文化に育ち、聖心女子大から慶應大学院に進んだ須賀は1753年にパリに留学、5年後にはイタリアへ再留学したのちミラノに入った。31歳のころである。それから10年以上にわたってのミラノ暮らしがはじまる。そしてミラノの都心にある一軒の不思議な書店にまぎれこむ。本書は、そういう須賀が63歳のときに懐かしくも香ばしいミラノの日々を回想して綴った珠玉の一作だ。
 須賀は本書の最後にこう書いている。「コルシア・デイ・セルヴィ書店をめぐって、私たちは、ともするとそれを自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を思い描いた」。そして、こう結んでいる。「若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う」と。

[追記]須賀敦子は1960年にジュセッペ・リッカ(みんなペッピーノと称んでいた)と結ばれて、ミラノに棲みはじめたのだが、7年後に死別した。コルシア書店に勤めたのは6年ほどだ。日本に戻ってからカルヴィーノ、タブッキ、サバなどを訳し、いくつかの大学でイタリア語を教えた。2014年、須賀敦子翻訳賞が設けられた。