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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

差別の構造

小田嶋隆の「お笑いブームの寂しい着地点」という文章の一節である。
「差別」あるいは「笑い」について、詳しく論じてみたいが、その手掛かりのひとつである。
もうひとつは、井上章一の「京都ぎらい」で、この本には差別が「実に自然に生まれる」メカニズムのようなものが伺える。つまり、洛中だけが京都で、洛外は田舎という差別がどうにも解消し難い形で存在し、それは黒人に生まれただけで差別する、というのとほとんど同じなのである。笑いと差別の問題も重要である。

(以下「日経ビジネス」から引用)


結論を述べる。

 私は、前世紀の半ば過ぎまでは「芸能の周縁」に置かれていた「お笑い」という演芸が、1980年代以降、「高尚かつ知的な文化的営為」にいつしか格上げされたことが、そもそもの間違いだと思っている。

 というのも、笑いは高度な文化だという思い込みが、かえってお笑いを低俗な娯楽に誘導した結果が、今われわれが見せられている21世紀の寒々とした差別的な笑いの現状だと考えるからだ。

 笑いはそもそも、「誰かを貶めるところから派生する批評性」の部分を余儀なく含んでいるものだ。

 であるから、笑いは諸刃の剣で、敵対勢力や権力の横暴と闘う際の武器にもなれば、弱者を迫害する鞭にもなる。時には自分自身を切り刻むカミソリにもなる。

 その意味で、地上波民放のテレビ局のみならず公共放送たるNHKまでが、MCやレギュラー出演者としてお笑い芸人を重用しているこの10年ほどの顕著な傾向に、私は強い警戒感を抱いている。

 というのも、テレビ全局のバラエティーを席巻しつつあるお笑い芸人なる人々は人を「いじる」ことの専門家で、さかのぼれば、「いじり」ないしは「いじめ」を笑いに転化することの技術革新が、この何十年かのお笑いブームが行き着いた着地点でもあるからだ。

 しかも、その「いじり」は、「多数者が少数者を笑う」という、スクールカースト発の閉鎖された教室から引き継がれたマナーを多分に含んでいる。

 特に吉本興業が提示する笑いには、この「スクールカースト発ヤンキー経由任侠行き」のホモソーシャル要素を強く感じる。

 ついでに言えばだが、この傾向の共有こそが、現政権と吉本興業の親密さの理由であり、この親和性の高さがあったればこそ、お国はクールジャパン機構を通じて、吉本興業に対して100億円もの資金を提供する決断を下したのだとも思っている。

 私たちの世代の人間が学生時代に読んだ本の中には、
「笑いは反体制の旗手だ」
「笑いを生む表現こそが権力への抵抗の第一歩だ」
「笑いほどアナーキーでラディカルな芸術はほかにない」

 てなことがあちこちに書かれていたものだった。それゆえ、私も、若い頃は、その種の文言を鵜呑みにしていたものだし、ほんの20年ほど前までは、まだ、頭の中のどこかに秘蔵してもいた。

 とはいえ、現在のお笑い芸人たちの芸を見て、それが「体制」や「権力」と戦っている姿だとは思わない。

 お笑いの関係者が「戦っている」「勝負している」「ギリギリまで突き詰めてやる」といったような言葉を使う時、彼らの仮想敵は、「コンプライアンス」であり「PC」であり、ヘタをすると「人権思想」や「良識」そのものだったりする。そういう例を私はこの10年、山ほど見てきた。

 つまり、芸人は、「反良識」「反人権」「反反差別」「反フェミニズム」あたりを志向して芸を磨いた方が、より本格派らしく見えるということで、だとすれば、彼らの「毒舌」が、いつしか弱者や被差別者に向けられようになったのは当然の帰結だったのである。




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生涯のツキをこれで消費してしまったかwww

例のパソコン麻雀だが、先ほど新記録が出たので記念に書いておく。
他の三人を全員ハコテンにして、121点である。(二万五千点持ちの三万返し)
一度もこちらが振り込むことがなく、リーチをしたら必ず上がるという、奇々怪々な馬鹿ツキで、何か悪いことが起こる前兆かもしれないので、厄落としにこうして書いている。
別に、無理な役を狙って上がったというツキではなく、最短距離での上がりを狙い、少し危険かな、と思う捨て牌も、ツキがあるから追っかけリーチをしたら、こちらが上がってしまう、という感じだった。子での倍満と親での倍満があったが、ドラを二つ含む七対子で、ツキに乗じてリーチをかけてツモ上がりし、さらに裏ドラが(当然ふたつ)乗って倍満、という感じの「普通」の上がりである。
本物の麻雀がいつもこんな感じだと、麻雀中毒やプロ雀士になる人間も出るだろう。

酒を飲まない人はどのようにストレスを解消するのか

あさりよしとおのツィッターに、「明智光秀は下戸キャラ」だと書いてあったが、これは史実なのか、それとも「麒麟が来る」でのキャラなのか。
仮に、史実だとしたら、光秀が信長に謀反を起こしたのは、酒でストレス解消することができなかったからではないか、と新説を出してみる。
理不尽な状況へのストレスは、頭をアホにする以外には解消策は無く、つまり、酒以外には無いのではないだろうか。だから、子供というのは一番ストレスが多い時期なのである。もっとも、飲みすぎると脳細胞が破壊され、完全にアホになる。
なお、他から受けたストレスを即座に別の他者へのいじめにして解消する子供、ないし大人は多い。信長の癇癪は、子供時代に母親から受けたストレス(母親の、弟への依怙贔屓)から生じた、というのが私の説。光秀という人間には、虐めたくなるようなところがあったのだろう。

Do you see the boy?

もしかしたら別ブログに既に載せているかもしれないが、そうでないなら、書いたのを無駄にするのも何なので、茶飲み話としてここに載せておく。パソコンの雑記帳に書いた文章だ。なお、「ついでにこの石も引き上げてくれ」は「do you see the boy」の発言の後かもしれない。



2月8日(土)

 

漱石の「猫」の中に、苦沙弥先生と迷亭が囲碁をやっていて、迷亭が「待った」をし、「ついでにこの石も引き上げてくれ」と言うのに苦沙弥が「図々しいぜおい」と不満を述べると迷亭が「ドゥユーシーゼボイ(Do you see the boy)か」と洒落を言う場面がある。
子供のころに「猫」を読んだ時、私はこの会話がなぜ成立するか理解できなかったのだが、洒落というものが、まったく異なる言葉を無理に同一視する「遊び」であることが理解できなかったからだった。中学校くらいになって洒落を理解するようになっても、「猫」のそれは無理な洒落だなあ、と思っていたが、それは「the」は「ザ」、「boy」は「ボーイ」と発音するとしか思わなかったからである。
そしてその疑問は中学から高校と進んでも解消されなかった。と言うのは、日本の英語教育では、「the」は「ザ」、「boy」は「ボーイ」と教えられ続けられたからである。
ところが、英和辞書を引くと、「boy」の発音は明らかに「ボイ」である。それがなぜ日本の英語教育の中では「ボーイ」と教えられ続けたのか。まあ、英語ネィティブの発音も実際は「ボーイ」と伸ばして発音する事例が多いのかもしれないが、よくは知らない。
そもそも、「I am a boy 」「He is a boy」などという会話は現実生活ではほとんど聞くことも無いだろうから、日本人が英米人の「boy」の発音に接する機会はほとんど無かったのではないか。
the」の方は、「ザ」か「ジ(ジー)」と発音されるのが通例だろうが、続く言葉の語頭が母音か子音かで発音が変わるのを面倒に思った明治人はそれを単語のローマ字読みで「ゼ」と発音したのかもしれない。そもそも、英語の母音の発音には「曖昧母音」が多いのではないか。

単騎待ちやカンチャン待ちは不利か

どうでもいい話だし、私は麻雀に詳しくないのだが、昔買ったダイソーの百円麻雀ゲームをパソコンに入れているので、よくそれで遊ぶ。それで考えたのだが、「当たり牌」の多い、有利な待ちとして、「両面待ち」にする人が多いと思うが、たとえば「1113」などという待ちは不利に見えて案外有利なのではないか。つまり、カンチャンの2でも、3の残り牌でも当たりなのだから、最大7つの当たり牌があるわけだ。そこが通常のカンチャン待ちや単騎待ちと違うところだろう。要するに、カンチャン待ちでありかつ単騎待ちでもあるわけだ。まあ、両面待ちなら最大8つの当たり牌があるのだから、これは場に出た捨て牌との比較考量によるわけだが、私は他者の捨て牌などロクに見ないで打つので、上達するはずがないwww なお、このダイソーの麻雀ゲームは半分くらいは「出来レース」だと思う。最初の場決めで有利不利が決まっている感じなのである。(ただし、捨て牌をちゃんと見ていれば、不利な場所でも勝つことは可能だろう。)