消閑と消光
「はてな匿名ダイアリー」の投稿者の質問だが、質問趣旨とは異なる方向で考えたい。それは「時間泥棒」という言葉では、「時間」が絶対的に肯定的価値として見られていることへの疑問である。
というのは「何もやることがない」時間というのは、一種の苦痛であり、災厄だという考えもあるからだ。たとえば監獄(病院でも何でもいい)で、何の作業もすることなく、一日中独房に入れられた状態を考えてみたらいい。
だから昔は「消閑」という言葉があったのだが、現代人はスマホなどを見て一日が潰れるのでそういう「閑(暇)」というのが意識されなくなったようだ。スマホだけで満足できるなら、それも幸福な人生だろう。
ちなみに「吾輩は猫である」の中で迷亭が苦沙弥先生に送った暑中見舞いの葉書の中に「その後何事もなく消光つかまつり候」みたいな文面があったと思うが、この「消光」も「時間をつぶす」意味である。
(以下引用)
というのは「何もやることがない」時間というのは、一種の苦痛であり、災厄だという考えもあるからだ。たとえば監獄(病院でも何でもいい)で、何の作業もすることなく、一日中独房に入れられた状態を考えてみたらいい。
だから昔は「消閑」という言葉があったのだが、現代人はスマホなどを見て一日が潰れるのでそういう「閑(暇)」というのが意識されなくなったようだ。スマホだけで満足できるなら、それも幸福な人生だろう。
ちなみに「吾輩は猫である」の中で迷亭が苦沙弥先生に送った暑中見舞いの葉書の中に「その後何事もなく消光つかまつり候」みたいな文面があったと思うが、この「消光」も「時間をつぶす」意味である。
(以下引用)
2024-07-29
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