未知の言葉との出会いと再会
市民図書館で借りた「小学生までに読んでおきたい文学」シリーズの「たたかう話」の中の一編に「幽邃(ゆうすい)」という言葉が出てきて、その単語説明もあり、「景色などが静かで奥深いさま」とあったのだが、この単語に出会うのは、おそらく私には50年ぶりくらいだと思う。
最初は、永井荷風の随筆で読んだのかな、と思ったが、私が永井荷風の随筆など読むはずがない、と思い返して、たぶん、漱石門下の何とかいう作家の随筆だろう、と見当をつけた。
というのは、昭和50年代くらいに、その作家(私から見れば二流作家だが)が、なぜかブームみたいになっていて、当時の知識人の中に彼を持ち上げる人が多かったのである。
作風は、日常の現実の中に幻想的な異世界が入り込んでくるような話が多かったようで、たとえば鈴木清順(漢字はこうだったか)の「ツィゴイネルワイゼン」や、黒澤明の遺作「まあだだよ」などが彼の原作による映画化だった。
で、その一種のブームのため、私もその作家の随筆か短編を読んで、その中で「幽邃」という単語に出会って、それがどういう意味か分からず、当時は大きな国語辞書を買う余裕もなかったので、そのまま記憶の底に埋もれていたのが、図らずも50年ぶりくらいに再会して、驚いたわけである。
で、想像するに、この作品(ルーマニアの作家の短編小説)の翻訳者も、もしかしたら同じ作品を読んで、この「幽邃」という言葉に出会って、それを自分の語彙に加えたのではないだろうか。つまり、訳者の真木三三(みさ)子氏は、私とほぼ同世代の人ではないか、と想像したのである。
なお、再度思い返すと、この「幽邃」という言葉に出会ったのは、あるいは永井荷風の随筆かもしれない。その当時、古い作家に興味があり、荷風の随筆集も読んでいた可能性はある。記憶が明瞭でないことからも、さほど感心しなかったことが分かる。
(以下引用)
東欧文学好きでブルガリア文学の翻訳家である松永緑弥と真木三三子にお世話にならなかった人物はいないだろう。現代東欧文学全集の第1巻「ノンカの愛」やパーヴェル・ヴェージノフの「消えたドロテア」に、ニコライ・ハイトフの「あらくれ物語」はマジに傑作である。今すぐ図書館に行って借りてほしい。
最初は、永井荷風の随筆で読んだのかな、と思ったが、私が永井荷風の随筆など読むはずがない、と思い返して、たぶん、漱石門下の何とかいう作家の随筆だろう、と見当をつけた。
というのは、昭和50年代くらいに、その作家(私から見れば二流作家だが)が、なぜかブームみたいになっていて、当時の知識人の中に彼を持ち上げる人が多かったのである。
作風は、日常の現実の中に幻想的な異世界が入り込んでくるような話が多かったようで、たとえば鈴木清順(漢字はこうだったか)の「ツィゴイネルワイゼン」や、黒澤明の遺作「まあだだよ」などが彼の原作による映画化だった。
で、その一種のブームのため、私もその作家の随筆か短編を読んで、その中で「幽邃」という単語に出会って、それがどういう意味か分からず、当時は大きな国語辞書を買う余裕もなかったので、そのまま記憶の底に埋もれていたのが、図らずも50年ぶりくらいに再会して、驚いたわけである。
で、想像するに、この作品(ルーマニアの作家の短編小説)の翻訳者も、もしかしたら同じ作品を読んで、この「幽邃」という言葉に出会って、それを自分の語彙に加えたのではないだろうか。つまり、訳者の真木三三(みさ)子氏は、私とほぼ同世代の人ではないか、と想像したのである。
なお、再度思い返すと、この「幽邃」という言葉に出会ったのは、あるいは永井荷風の随筆かもしれない。その当時、古い作家に興味があり、荷風の随筆集も読んでいた可能性はある。記憶が明瞭でないことからも、さほど感心しなかったことが分かる。
(以下引用)
東欧文学好きでブルガリア文学の翻訳家である松永緑弥と真木三三子にお世話にならなかった人物はいないだろう。現代東欧文学全集の第1巻「ノンカの愛」やパーヴェル・ヴェージノフの「消えたドロテア」に、ニコライ・ハイトフの「あらくれ物語」はマジに傑作である。今すぐ図書館に行って借りてほしい。
PR