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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

翁の文(第十五節)

(例によって「富永仲基」による注記:翁はこう語っているが、神通と飯綱は相違があるのである。飯綱は術から出て神通は修行から出る事だ。しかし翁の言葉はもっともだと思う。)
また儒道の癖は文辞である。文辞とは今の弁舌である。中国はこれを好む国で、道を説き人を導くにも、これを上手にしないと信じて従う人がいない。たとえば礼の字を説くにも、もとは冠婚葬祭の礼式をこそ礼と言うべきだのに、それを人の子たるの礼とか人の臣たる礼と人の道にも使い、また視聴言動の上にも用い、また礼は天地の別(訳者注:天地の間に本来、あるいは絶対的に存在する区別くらいの意味か。)であるなどと、天地にまで関して言うことで分かるだろう。また楽の字なども、ただ鐘や鼓を鳴らし慰めることであるのに、それを「楽と言い、楽と言う、鐘鼓を(だけ)言うのだろうか、いやそうではない」などと(論語に)言い、また「楽は天地の和である」などと(礼記に)言うのでも分かるだろう。また聖の字なども、もとはただ智慧のある人を言う言葉であるのに、それを言い広げて、人間の最上神変ある者のように言いなしている。孔子が仁を主張し、曽氏が仁義を主張し、子思が誠を主張し、孟子が四端説や性善説を説き、荀子が性悪説を説き、「孝経」が孝を説き、「大学」が好悪を説き、「易(経)」が乾坤を説いたなど、皆、どうということもない簡単なことを弁舌仰山に説きなして、人に面白く思われて、従われようとしての方便である。中国の文辞はとりもなおさずインドの飯綱であり、これもさほど日本には要らないことである。


(訳者注:儒学の「文辞」というのは、誇大表現とでも解釈したらいいかと思う。いわゆる「白髪三千丈」式表現で、これは中国の文芸の特色の一つかもしれないが、それを哲学の面にまで通じる中国的性格としたのは卓見であると思う。「礼」や「楽」などを例として挙げた部分は、日本人にとって儒学の分かりにくい部分を明快に説明したもので、目から鱗という感がある。)
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