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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

翁の文(第十四節)

仏道の癖は幻術である。幻術とは今の飯綱(訳者注:手品、まやかし、催眠術の意と考えていいかと思う。つまり超常現象を人に見せること。)のことである。インドはこれを好む国で、道を説き人を教える場合にもこれを交えて導かないと人も信じ従わない。そういうわけだから釈迦も飯綱の上手で、六年山に入って修行されたのも、その飯綱を学ぼうとしてのことである。(訳者注:ヨガなどを想起すべきだろう。肉体修行によって超自然的な能力を身に付けるのが、インド式の修行だ、という趣旨かと思う。オウム真理教も、その点では原始仏教に近いところがあったようだ。)また諸経に言う、神変・神通・神力などと言うのもみな飯綱のことで、白毫光の中に三千世界を顕し、広長舌を出して梵天まで上げられたことなど、また維摩詰が八万四千の獅子座を方丈のうちに設け、神女が舎利仏を女にしたことなど、皆その飯綱を使ったものである。さて、そこからいろいろな怪しい生死流転因果を説き、本事本生未曾有(訳者注:経典にある珍しい事績、くらいに解しておけばいい。)を説き、奇妙な様々な説をなしたのも、皆、人に信じさせるための方便(便宜)である。これはインドの、人を導くやり方で、日本ではさほど要らないことである。






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