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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

翁の文(第十六節)

(「富永仲基」による注:翁はこのように「簡単なこと」と説いているけれども、道の至ったところ(最高の次元)があるということは翁も知らないはずはないだろう。また秘授のたやすく伝えにくいことがあるのも、翁は知らないことはないだろう。翁のこの言葉に迷って、その本意を見失ってはならない。)
さてまた神道の癖は神秘・秘伝・伝授で、ただ物を隠すのがその癖である。およそ隠すということは偽り盗むことの基で、幻術や文辞は、見ても面白く、聞いても聞きがいのあることで、許されるところがあるけれども、(神道の)この癖だけは非常に劣っていると言うべきである。それも、昔の世は、人の心が素直で、これを教え導くのに(神秘・秘伝・伝授の)便宜もあっただろうが、今の世は末世で、偽り盗む者が多い中に、神道を教える者が逆にその悪を擁護することは非常に道理に逆らうことと言うべきである。あのあさましい猿楽(能)や茶の湯のような事に至るまで、みなこれを見習い、伝授印可をこしらえ、それどころか値を定めて(宗匠たちの)口すぎのためにするようになっている。まことに悲しむべきことである。ところが、これをこしらえた理由を聞くと、根機(訳者注:何かを理解するために十分な能力や適した時期、くらいの意味。)が熟さない者には容易に伝えにくいためである、と答える。これも理屈が立っているように聞こえるが、そのようにたやすく伝えにくく、また値を定めて伝授するような道はみな真の道ではないと心得るべきである。


「翁の文」終


訳者注:趣旨とはあまり関係ないが、能や茶の湯が「あさましい」(驚く意だが、その対象はたいてい下劣なものであり、現代の「あきれる」「いやしい」に通じている。)ものとされているのが面白い。芸能などが長年続いていくと、その家元や弟子たちによってそのジャンルや流派が「荘厳化」されていくわけである。この詐欺的行為が「仏教」「儒教」「神道」の「意味不明さの根底にあるもの」だと見、「三教(諸派)の宣伝活動の結果」と見たのが「翁の文」の主旨と言えるかもしれない。三教についての膨大な研究の末に「王様は裸だ」という声を上げたのが「翁の文」であり、富永仲基という思想家は、誰もが薄々感じていたことを初めて口に出した、あの子供なのである。
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