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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

借金する(安易な解決法を選ぶ)と頭が悪くなる

指摘自体は面白いし、表現も面白いし、かなり現実と一致すると思う。ただ、ひろゆきは(この記事の中では)借金をするとなぜ頭が悪くなるのかの理由説明をしていないので、私が説明する。
簡単に言えば「人格の箍(たが)がはずれる」ということだ。
カネの問題で悩んでいろいろ頭を使って考えていたところに、借金することに成功したら、その問題は一時的に解決するわけだ。としたら、「解決したのだから、これ以上頭を使う必要は無い」ことになる。借金することで問題が解決するのだから、次も誰かに借金したら問題は解決する、という思想が芽生えるわけである。「習い性となる」(習慣がその人の性質を作る)ということで、その後はその人は「借金体質」の人間になる。こういう人間はよく見る。
頭を使って問題解決をすることをやめるのだから、当然、頭は悪くなるのである。

これと似ているのが「ヒモ体質(寄生虫体質)」の人間だろう。他人に依存することで問題を解決する(いかにして生きるかの問題を解決する)わけだ。もちろん、他人に依存するためにいくらでも嘘をつくような人間になる。これは男女を問わない。
ただ、世の中には他人に寄生される(頼られる)ことを喜ぶ性格の人間もいるので、共生関係ができたりする。これも或る種の「絆」であり、世の中にはむしろ他人との共生関係が無いと生きる喜びが無い人間のほうが普通かと思う。


(以下引用)


ひろゆき氏 「借金をすると頭が悪くなる」

配信

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デイリースポーツ
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山で生きる厳しさ

かなり特殊な「生活の知恵」だが、実体験だけに貴重な内容である。

(以下「東海アマ」ブログから転載)

田舎暮らしの悩みの種

カテゴリ : 未分類

 田舎暮らしで困ることといえば、豊かな自然につきもの有害事象だ。
 中津川市の山奥に移住して、もう18年になるのだが、これまで本当に困ったことと対策を挙げてみたい。

 私が中津川市の北西部の山岳地帯の小さな村に移住したのは2003年だった。
 敷地は、ほぼ雑木林で、わずかな平地はヘイケボタルが繁殖する湿地、あとは傾斜20度以上の林だ。だから、家を建てるにしても、畑地を作るにしても、最初は雑木を伐採し、根を除去するのに心底苦労した。

 むろん自然林ではなく放置された二次林なのだが、柿や栗や檜、赤松、それに大量のツツジなどに覆われていた。
 木を切るのは簡単だが、根を除去するのは簡単ではない。ユンボやクレーンがあれば良いが、すべて人力でやった。今なら、レンタカーでクレーン車かユンボを借りなければ無理だ。それも250(2.5トン)以上の自重がないと径20センチの木の根を引き抜くことはできない。

 ない場合は、タコという道具に、3メートルの鉄パイプを三本差し込んで、2トン以上のチェーンブロックでワイヤーをつけて引き抜く。これが、とんでもない重労働だ。
 鉄パイプは地面にめり込むので、大きな材木の靴を履かせる。根の周囲をスコップで掘って底面まで露出させ、ワイヤーをセットして引っ張るのだが、大きな根だと一日がかりでも引き抜くのは困難だ。
 一番大変なのが柿の木だ。大きな主根が横に延びていて、掘り出すだけで半端な労力ではない。

 こんな作業を百回以上繰り返して、100坪ほどの空地を作り、畑や宅地を造った。だが、作りたての畑地では農作物は育たない。数年間放置し、鶏糞を入れて耕運し、雑草を生やして土を農作に慣れさせないと無理だ。

 また、線虫被害を受けた赤松の大木が枯れて、いつ倒れてくるか分からないので、高ハシゴをかけてウインチワイヤーをかけ、チェンソーで数十本切り倒したが、もしも近所の家に当たれば、数十万円という大きな弁償額になる。
 民法717条は、枯死樹木を放置して近隣に損害を与えたときの賠償責任を定めている。安易に土地を購入するのはいいが、敷地内の立木の管理をしないでいると法的な賠償責任が降りかかってくる。

 2007年くらいまでは、マムシと巨大なムカデが目につく程度で、有害生物に苦しんだということはないが、リーマンショックの年を境に、近隣の生物相が大きく変わった。
 それまで姿を見かけなかった有害獣、猪・アライグマ・ハクビシン・熊・鹿などが大量に人里に現れ、農地を襲いはじめたのだ。

 それまで害獣防除など必要なかった農地が、主に猪によって、のきなみ激しく荒らされて、わが村では猪対策をしなければ農作が不可能になった。私の畑も猪に一晩で全滅させられた。近所では、毎年カボチャを作っていたおばあさんが、とうとう放棄してしまった。

 スイカなどの果物を作れば、ハクビシンやアライグマが大喜びで全滅させる。彼らが現れてから、それまでの野山の主だった、野ウサギ・狸・キジなどがいなくなった。アライグマは凶暴なので、ウサギも猫も食べてしまう。
 だから、農地は見渡す限り、電柵と猪防御用のメッシュ鉄筋の塀で覆われた。我が家も5ミリのメッシュ鉄筋を張り巡らしている。

 メッシュ鉄筋は、1m×2mで350円程度、敷地の周囲に並べて、杭と針金で固定する。杭は必ずコールタールをべた塗りしておかないと1年持たずに腐ってしまう。
 周囲に危険な突起が突き出しているが、これが猪の飛び越えを防止する。子供が遊ぶ場所に設置すべきではない。非常に危険で深刻な事態を招く可能性がある。
 だが、猪侵入を防ぐには電柵より確実だ。電柵は、草が伸びると、すぐ電池が劣化する。安全性を第一義に考えねばならない場所では、電柵以外の選択肢はない。

 同時に、それまで見かけなかったカメムシ・テントウムシダマシなど害虫が大量に現れるようになった。こいつらは、エダマメやピーマンなどを食い荒らす。馬鈴薯や茄子などナス科の野菜を育てるには、農薬がないと事実上、不可能になったのも、この頃だ。
 (カメムシは、昨年から劇的に減少した。理由不明)

 うちの場合は、はるかに深刻で、2011年、フクイチ事故放射能汚染を境に、それまでいなかった目に見えないほど細かいユスリカが膨大に湧くようになった。
 人口3000人のわが村では、2011年事故後、数ヶ月で実に14名もの心不全死者が出た。おそらく、フクイチ事故の短寿命核種の汚染が、元々日本一の高線量ガンマ線地帯だった、この村の人々を選択的に襲ったのではないかと思った。

 このユスリカは、その後劇的に増え、2014年には、このせいで私は間質性肺炎を発症してしまった。呼吸のたびに、ブツブツバリバリと音がするようになり、呼吸機能は以前の半分に落ち、何をするにも息切れがして、一時は人生への積極的な意欲がほぼ失われた。
 家はゴミ屋敷となったが、現在、やっと少しずつ回復している。
 ユスリカの発生は、デミリンという羽化防止剤を使えば抑制できることを知ったのは、深刻な発症後だったが、このおかげで、やっと大発生を抑えることができた。

 ちなみに、間質性肺炎=IPFは、医学常識によれば治癒不能とされて、最長6年程度で死亡することになっているが、7年を経ても私は死なないでいる。しかし、呼吸力は元のレベルには戻らない。ただ苦痛に慣れただけだ。
 たぶん、発症後、呼吸力を取り戻すために、ほぼ毎日、苦しい思いをして山歩きを重ねたことで、死なずにすんでいるのだろうと思っている。間質性肺炎には呼吸トレーニングが絶対不可欠だと知った。
 医療に頼らないことも大きい。私は医者を信用していないので原則行かない。だから全身に4カ所も骨折偽関節を抱えている。

 2015年頃から、毎年、ムカデやマムシ対策を迫られるようになった。ムカデが家に侵入し、ときには布団のなかにまで入り込んで噛まれることがある。
 実は、このブログの動機は、先週、ムカデに噛まれたことからだ。
 ヤツは、玄関の靴の中にいた。気づかずに裸足で履いたら、左足の小指に強い痛みを感じた。それまでも布団のなかで噛まれたことがあったが、比較にならないほど激しい痛みだった。まるで痛風発作が皮膚で起きたみたいだった。
 あわてて脱いで靴の中を見ると、10センチを超えるムカデが鎮座していた。

 何度も噛まれているので、セオリー通りに、すぐに風呂場で45度の湯をシャワーから流して15分ほど患部を洗い続けた。これで痛みは少しだけ和らいだ。患部は二倍くらいに腫れ上がっていた。
 それから常備しているムヒアルファEXを患部に塗った。1時間もしたら痛みと腫れが引いて、「今回はえらく簡単に治ったな……」と安心したのだが甘かった。

 48時間後に、ステロイド剤のリバウンドがやってきた。猛烈な痒みと痛みが復活し、患部が再び腫れ上がった。
 慌てて再びムヒアルファEXを塗りたくったが、今度は痒みが残った。それから硫黄剤を入れた風呂に入り、患部を洗浄したら、痛みが引いた。

 これで一件落着と思ったが、三日後から、またまた猛烈な痒みが襲ってきた。今度はムヒを塗ったが、あまり効果がなかった。
 かくして一週間以上経過したが、まだ痒みが引かない。いったいムカデ毒は、どこまでしつこいのだ。

 ムカデが室内に入ってくる理由は、室外に落葉の堆積があること。湿った場所があり、たくさんの虫が湧いていることだ。これはムカデの繁殖に最高の条件なので、可能ならそれを排除する。ムカデの大好物はゴキブリなので、それを追って入ってくることもある。

 落葉を排除できない場合は、オルトラン粒剤を、落葉の堆積や床下に撒いておく。私はムカデに噛まれる数日前にオルトランを散布していたが、靴の中まで注意が至らなかったのでムカデの侵入を許していた。その靴は半年以上履いていなかったものだ。
 それからというもの、靴には虫除け薬をスプレーするようにしている。

 ムカデは、進入路にハッカなどハーブ臭があると強く嫌う。室内に何度か侵入したムカデにハッカ・ヒノキオール混合をアルコールで薄めたものをかけたら、すぐに死んでしまった。
 だから、戸口には、夜、ハッカ薄め液をスプレーしておくと効果がある。市販のムカデ防除薬(粉剤)を出入口に散布しておくのもよい。室内はハーブ液散布が良い。
 布団への侵入を防ぐには、布団にハッカスプレーをかけるしかない。

 これまで数十回のムカデ侵入と咬傷を体験し、細心の注意を払って防除対策をしてきた私が、再び噛まれたのはショックだった。靴のなかというのは死角だったのだ。
 噛まれた場合は、温水器で45度程度にした熱い湯を15分間かけ続ける。噛まれた表皮に毒があるので、よくもみ洗いをして毒を流す。その後、ステロイド剤を塗るのがセオリーだが、今回、それでも一週間、毒性に苦しむことになった。

 ムカデ咬傷の痛みは、相当なレベルで、痛風や尿路結石に匹敵するかもしれない。農薬を使いたくはないが、落葉のなかにあるムカデの巣を退治するにはオルトランなどの比較的弱毒の農薬しかない。有機リン農薬は健康被害が起きるので使うべきではない。
 オルトランの毒性は一ヶ月くらいで消えるので、年に数回、5月から11月までくり返し散布する必要がある。

 数年前から、裏山での大きな異音に気づいていた。最初は、また猪だろうと思っていたが、メッシュ鉄筋塀を設置してあるので、安心していた。
 私は中津川市の防災メールを受信しているので、市内の火災や動物被害に関心を向けていた。あるとき、熊目撃情報に、私の家の裏山が記載されていることに気づいた。ほんの数百メートル離れた場所での目撃情報だった。

 だが、それで合点がいったことがある。それは臭いだ。熊には独特の獣臭がある。同じ臭いが、我が家の敷地内に残っていたのだ。「これはやばい!」と思った。
 若い頃から、山歩きにおける熊とのニアミスが度々起きていたから、何よりも熊臭に警戒心があった。敷地のなかに、熊が侵入した形跡があることに気づいたのだ。

 夜間、不用意に外に出たなら熊に襲撃される可能性に、心を置かねばならなくなった。
 今のところ、目撃された熊は、若熊で、それほど深刻な事態でもないが、10年ほど前、我が家の向かいの丘で熊が発見されたときは、体重100キロを超える大熊だった。
 岐阜県は、秋田県や岩手県、長野県と並んで熊のメッカのような場所で、県内のいたるところで出没情報がある。
 https://j-town.net/2015/01/08198979.html?p=all

 私は毎日、高峰山の山麓で山歩きをしているのだが、ここでも、たくさんの痕跡を見かけた。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1374.html
 ストックを持参して、カチャカチャと歩いていたら、近くで怯えた熊が吠え声を出したこともある。
 もう山歩きも、日常生活も、熊と折り合いをつけねば成り立たない時代になっている。だから鈴は欠かせない。私はザックに二種類の小型ハンドベルをつけている。遠達性のすぐれた高音の鈴だ。

 これなしで山を歩くのは無理になりつつある。熊侵入と、近所のパンクさせる趣味の悪意親父を防御するため、表には大光量のセンサーライトをつけた。これは泥棒にも効果が高い。以前、工作室に置いてあった高価なアマチュア無線機を盗まれた。犯人の見当はつけているが、近所のひどく挨拶の悪い若者だ。人を責める趣味のある人は危ない。
 田舎暮らしでは、こうしたセンサーライトは必需品になったかもしれない。
 田舎は善人だけがいる場所ではないことを、くれぐれも気にとめて。

 追記、マムシ対策を書き忘れていた。

 我が家の土地は、昔「マムシ平」と呼ばれたほど、マムシが多い土地だ。近所に鳶巣山もある。鳶が多いのはマムシが多いことの裏返しなのだ。
 以前は、ほぼ毎日庭で見かけた。そこで対策を考えた、マムシの嫌いな硫黄臭で防御するため、石灰硫黄合剤を買って、毎日のように湿地や畑に散布した。
 これでマムシが出なくなった。家の周りのコンクリートに沿って移動する習性があるので、基礎には必ず石灰硫黄薄め液を散布しておく。

なぜ結婚するか

「紙屋研究所」記事の一部で、部分だけ取り出すと誤解される可能性のある個所だが、面白い問題提起なので、転載する。

(以下引用)

何のために結婚するのか?

 結婚の目的は、多くの人にとっては、家族づくり、もっといえば子づくりだろう。「そんなことないよ!」という反論については後からふれるので、まあ聞き流してくれ。
 わざわざ結婚をして関係を固定化させるというのは本作に出てくる結婚に懐疑的なイケメン・風見涼太よろしく、考えてみると奇妙な制度である。
 恋愛感情が強く残りセックスをする気持ちが旺盛な段階で、他の男女との関係を排除した関係に入る。それは何のためかといえば、子どもをつくるためだ。エンゲルスが指摘したように、相続すべき財産をもつ人間にとっては、これはきわめて大事なプロセスなのだが、そんなものを持たない(もしくは一代限りと思っている)庶民どもには、確かに「何のためにこんな関係に入るの?」という問いがわいてきても不思議ではない。

(以上引用)

「相続すべき財産を持たない庶民ども」(笑)には結婚というのは不可解な関係、あるいは制度だ、というのは面白いが、若いころは「恋愛→相手を独占したい→結婚したい」という感情は自然なものであり、「結婚したいが財産が無い」というのが多くの若者の悩みであるわけだ。そこには「妻や家族を養うのは男の役目だ」という古風な感情があるだろう。そして、「自分にはカネが無いから結婚する資格もない」というのが現在の非婚社会の根本原因であるわけだ。
だが、「そもそも結婚にどれだけの価値があるのか」という計算を始めたら、まあ、恋愛の満足や相手を独占できる満足、セックスの満足の価値をどの程度に見積もるかという主観的な話になるが、経済的、あるいは物質的な意味では独身のままでいるのとどれほどの違いがあるのか、非婚者にはなかなか想像がつかないだろう。
それに、結婚には守操義務があるのかどうか、あやふやなところはある。相手が貞操を守らないなら、何のために結婚しているのかと言えば、「家のため」というのが大方の理由だろう。特に名家の出でもなく、浮気者だが、女性(男性)としてあまりにも魅力的なので我慢して結婚関係を続けるという例もあるかとは思うが希少な例だと思う。

などと言いながら、私は「結婚したほうがいい」という意見なのである。その理由はここでは特に述べない。まあ、結婚が人生最大のギャンブルだとは言えるが、相手の人柄を見抜けないような馬鹿は結婚などしないことである。カネ目当ての結婚はだいたいロクなことにはならない。










英語の「お勉強」

「紙屋研究所」記事だが、私自身はとっくに英語には挫折しているというか、さほど必要性も感じていないので勉強する気は無いが、ここに書かれた「英語学習体験」は、英語を勉強しようと思っている人にはかなり実践的で、しかも読み物として面白いので紹介するだけだ。(誰が私のブログを読んでいるか知らないが、まあひとりでも読む人がいればいいのである。)
まあ、私は英語を「勉強する」気は無いが、好きな本や文章を英語(原語)で読んでみたいとは思う。つまり、「辞書を引き引き」読めればそれで十分だし、それを勉強ではなく「娯楽」でやるのが私流だ。

(以下引用)

英語を勉強しているんだが

  

 英語を勉強している。

 なんのために?

 いや…別に…意味もなく。

 『超訳マルクス*1をやった時には、辞書を引き引きという具合だった。

 

 サラサラ読めたらカッコいいかな、くらいに。

 

 しかし英語というものはいったん始めたら日課にしないといけない。

 筋トレと同じである。

 筋トレは週1日の休みを入れて毎日続いている。2017年の秋頃からだからもう3〜4年になる。だいたい30分あればできるほどのメニューだからだ。

 ここに英語など入れることができるだろうか。

 たぶんできないと思う。

 日課を増やすと、一つ一つは小さくて、面白いことであっても、やはり「やらねば」という義務感が多少混じるので、下手をするとそれがいつか積もり積もって爆発してしまう。「あー、もー面倒くせえ!」ってなるのだ。だから日課を増やすことは慎重でなければならない。さしたる目的もないのに日課にするなどということは時間という資源の浪費である。

 しかしそれでも迂闊に始めてしまった。

 まさに「迂闊に」。まだ3ヶ月ほどだ。いつやめても「三日坊主」と言われるだろう。

 

 英語をやりたい、というのは20代の時にも起きた熱情で、この時は結局挫折してしまった。あの頃はバックボーンにしていた方法論がよくなかった。

 「浴びるように聞く」「ドラマを聞き流すだけで身に付く」などの勉強法が当時流行った。

 そこで教材のカセットテープを買ったものの、「シャドーイング」のような方法を知らなかったのでただ聞くだけである。1回聞いたものを何度も聞くのは意味がないのではと思いあまり聞かなかった。今のようにインターネットがあるわけではないから、「どんな単語を話していて、どんな意味の文章になるのかわかる英語の音」などというものはお金を出さないとそう簡単に入手できない。ラジオやテレビの英会話講座があったが、聞き取れないし、面白くなくて日課にならなかった。

 好きな文章を丸暗記するのはどうだろうと思ってやってみた。左翼的文書を英語にしたものを、東京の町田から静岡の三島まで歩く間に暗記するということをやってみた。それはそれで面白かったのだが、だからと言って英語が聞き取れたり、英字新聞が読めたりするようにはならなかったので、あまり意味がないのかなと思い、これも途中で放り投げた。

 要するに、学んでいることもつまらなかったし、上達したような気持ちにもならなかったので続かなかった。

 そして、今思うといろいろと方法論的に間違っているような気がしてならない。

 別に今英語が堪能なわけではないけども、あの頃は方法論についてあまり深く考えていなかったために無用の混乱を起こしたのだと思っている。

 

 今、いろんな英語の勉強本を読むと、書いている人によって方法論が様々である。千差万別だ。仕方ないので、数冊読んでみて自分にとってしっくりいったものを取り入れようと思った。

 その中で一番しっくりいったのは関正生『世界一わかりやすい英語の勉強法 カラー改訂版』(KADOKAWA)であった。

 

カラー改訂版 世界一わかりやすい英語の勉強法
 

 

 その中でもぼくが全くその通りだと思ったのは、関が示した英語トレーニング順序のピラミッドである。一番基礎が「単語力」、次が「文法・リーディング力」、その次が「リスニング力」、最後(頂点)が「ライティング力」である。

 同じ図が下記の記事にも出ている。

president.jp

 ここで「単語力」を「筋力」として捉えている、その発想が目からウロコだった。

 ぼくは受験英語をずっとやってきて、感覚的にはずっと語彙があるかないかが大事だという実感があった。しかし、世の中は「英会話」や「使える英語」のようなものが花盛りで、辞書を引いて単語を暗記するようなものは古い受験英語の感覚ではないかという思いが抜けなかった。

 これは関に限らず、最近の英語の勉強本がだいたい指摘していることだが、受験英語のようなメソッドは否定されるべきではなく、文法をしっかり学んだり、辞書を引いて単語を暗記したりすることは、ネイティブでない人間が英語に到達するための確実な近道である。

 そして、「聞き取れて」「話せる」ということが実際には難しく、そういうものがごちゃ混ぜに「英語」として考えてはいけないのである。

 この本を読んだ時、「あ、単語を一生懸命覚えていいんだ」と気が楽になった。

 

 そして、一番大事なことは、「目標をどこに置くか」ということだった。

 リスニングやスピーキングができればそれは理想なんだけど、そのためには、かなりの時間を割かねばならない。だとしたら「読めればいい」というところに照準を合わせたらどうだろうか、と思った。

 関も上述の記事で

英語の基礎体力(単語力、文法・リーディング力)を、まず徹底的に鍛える。

と述べている。

 西澤ロイ『頑張らない英語学習法』(あさ出版)でも

 英語の主な動作は4つあります。「話す」「聴く」「読む」「書く」です。

 この中で「読む」が最初に鍛えるべき重要かつ基本的なスキルです。(p.25)

 としている。

 

頑張らない英語学習法

頑張らない英語学習法

  • 作者:西澤 ロイ
  • 発売日: 2010/04/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 「日本の学校の英語は読むことに偏重している」「これからは使える英語=英会話」という見解に心のどこかで縛られていて、「リスニングもスピーキングも当面やらない」「読むだけ」という方針にふんぎれなかった。

 これらの本は、そこを明確に回答してくれたのである。

 まず読むだけでオッケー、と。

 

 そして、ひとは自分に関心のない分野は、仮に日本語であったとしても、そもそも言葉も知らないし、そこで話されている中身もわからない。

 だとすれば、ぼくにとっては政治のニュースとか左翼関係のニュースを、報道の言葉で読む、ということができればそれが「目標」になるのではないか、と思った。要するに「英字新聞が読める」程度のことである。

 関は次のようにいっている(強調は原文)。

 英字新聞で多くの人が失敗するのは、気合が入りすぎて難しそうな記事まで読もうとするからです。

 男性の場合、なじみがあるスポーツ欄から攻める人も多いのですが(高校時代のボク)、専門用語連発で確実に挫折します。

 英字新聞はとにかく気楽に。難しそうな記事をムリに読む必要はありません。1部200円前後で英語の勉強ができれば、たったひとつの記事でも読んだら「モトは取った」と思っていいでしょう。(関p.104-105)

 

 それで英字新聞などは買わず(笑)、ネット上にある無料の英文記事を毎日少しだけ読んでいる。その中には「赤旗」記事を英訳しているJapan Press Weeklyなどもある。それを読むと「あ、『野党統一候補』ってJoint opposition candidatesって表現するのか」とか「温室効果ガスの削減を政府に強く求めたって言うときはurgeを使うのか」などという具合に、自分が身近にやっている活動に引き寄せてかなり強い関心で読める。

 ぼくがかつて挫折した20代の頃、Japan Press Weeklyはお金を出して買わないといけないものだったから、1号買ったらそれを後生大事に長い間読むようなものだった。だから自分がやっている左翼的活動、政治活動をどうやって表現するのかは気軽にわからなかったのである。

 これは辞典を引くような時も同じで、今ネットで簡単に調べられる。

 そうすると、例えば「主張する」をどういう単語で言えばいいのかが、数多くの例文を目にすることでおぼろげながら分かってくる。学生の頃や20代の頃は「主張する」と丸暗記していたので、単語の「ニュアンス」がよくわからないままだったのだ。

 

 こうやって1つの記事を読むとわからない単語が10くらいでてくる。多いときには20くらいでてくる。それを調べて単語帳に書いて覚えるのである。これをスマホのアプリなどでやれるのかもしれないが、書くというプロセスと、使い勝手がいいので、単語帳でやっている。

 ただし関は単語のカード化には否定的で、「時間が膨大にかかるので、やらないほうがいいです」(p.56)としている。

 西澤の前掲書では、逆に単語カードを強く勧めていたので始めた。

 単語帳はどうも自分に合っているようだ。

 カードをつくるのは、筋トレのインターバルの1分間くらいにやることが多い。それで終わらないときは筋トレ終了後に引き続き作成を続ける。職場の待機時間などに作ることもある。無理はしない。それで時々思い出して眺めるのである。

 作らない日もあるし、作っても2、3枚という日もある。気にしない。

 単語帳はまだ5冊しかできていないから、3ヶ月で新たに400〜500程度しか覚えていないことになる。関は1日200単語を5セットで1000と言っているので全然追いつかないペースである。しかしまあ気にしない。関のいうのは受験英語だから、と思って読んでいる。

 西澤は前掲書で「市販の単語帳が役に立たない」(西澤p.52)と言っている。西澤は「なぜその単語を覚えたいのですか?」という問いを立てているが、これはまことにその通りで、ぼくは「政治・左翼ニュースを読みたい」し、それで興味を感じているから覚えているので合って、それと関係のない単語など無理に覚える必要は全くない。

 例えばcompensationは「補償金」であるが、これがJapan Press Weeklyには頻出してすっかり覚えてしまった。コロナで補償が十分かどうかが焦点だからである。

 覚えるべき単語、知りたい単語はむちゃくちゃ偏っている。しかしそれでいいのである。どこで使うんだよという左翼用語こそ覚えたいではないか。「半封建的地主制」ってthe semi-feudal landlord systemって言うんだぜww

 

 英文が「なんとなく読める」というのは意外とハードルが低い。

 「年収40万ドル未満の人々」を英語で言ってみろというとなかなか言えないのだが、バイデンの演説で「people making less than $400,000 a year」って書いてあったらなんとなくわかる。

 関も英単語の覚え方について「president→社長」「社長→president」どっちの順で覚えればいいかについて「president→社長」のほうが断然ラクでありそちらを勧めている。また、日本語から覚えようとすると4倍時間がかかるというデータを紹介している。

 日々覚えている単語と、高校までのうっすらとした文法が頭にあると、なんとなく読めるのである。そうすると調子に乗って続くのである。

 

 文法については、ぼくの場合大学受験で得たものがあり、すでに四半世紀を経てかなり錆びついているが、「なんとなく読む」程度には使える。おまじない程度に文法の本を手元に置いているが、時々思い出したように見る程度である。

 

核心のイメージがわかる!英文法キャラ図鑑

核心のイメージがわかる!英文法キャラ図鑑

 

 

 本当はリスニングやスピーキングもできれば相乗効果もあるのかもしれない。

 だけど、例えばリスニングをやるとなると、相当時間を取られることになる。

 行き帰りの通勤電車でやればいいのではないか、とか思うのだが、毎日そんなことを義務のようにやりたくないし、本も読みたいからせっかくの通勤時間が必ずリスニングで潰れてしまうと思うと気が重い。

 そして、ぼくはスマホを持っていないので、リスニングのための時間を取ることは結構面倒臭いのである。筋トレのためにジムに通うようなもので、時間をわざわざ作らないといけない。あ、こりゃ続かないなと思ってすっぱりあきらめている。

 とにかく単語とリーディング。これだけをひたすらやっているのである。

 

 関が前掲書のはじめの方に述べているのだが、「大事なのは『英語をキライにならないこと』」(p.20)である。

 ぼくの場合、「キライになる」とすればそれは義務感に押しつぶされることだろう。

 だから、「1日で英字新聞の記事1段落を読むだけでいい」と考えている。それすらできない日もある。だけど気にしない。筋トレは1日できないと気にするけども、英語は「できない日もある」と決めてかかることだ。

 そして、「結構長いこと英語を勉強しているのに、英語を話す外国人に会って、全然喋れなくても・聞き取れなくても落ち込まない」——ここ、非常に大事なところであるww

*1:驚かれるかもしれませんが、『超訳マルクス』で扱った文献はすべて、イギリスに本部のあったインタナショナル関連の文書・インタビューばかりなので、マルクスが執筆していてもドイツ語ではなく英文なのです。 『超訳マルクス』の最初に載せた「国際労働者協会創立宣言」だけは英語版とドイツ語版という2つの原文があります。

https://kamiyakenkyujo.hatenablog.com/entry/20131007/1381072909 

自己愛とプライドと美意識

これは、生活の技術と言うより「生きる技術」と言うべきかと思うが、人間は「自分自身を制御する」ことが一番困難であり、それができればほぼ「満足の行く人生」が送れると思う。
これは当たり前の話であり、たとえば「勉強しなくてはならないのに勉強したくない」というのはほとんどの学生の悩みだろうし、それが克服できれば優秀な成績が得られるのも自明である。もっとも、真面目に勉強しても成果が上がらないという「勉強の技術」の有無はまた別の話だ。少なくとも、遊び心を克服して勉強机に向かうという最低限のことができるというのは、「自分を制御できている」ということなのである。
まあ、勉強などについては「習慣化する」ということでだいたい克服できると思うが、ここで論じるのは「感情の克服」である。怠け心も感情と言えばそうだが、少し違うことを問題とする。
それは、「プライド」のことである。
簡単な問いかけをしよう。人間はプライドを持つのと持たないのと、どちらが「幸福な人生」を得やすいだろうか。これは、「持たないほうが幸福を得やすい」と私は思う。
もちろん、少しでも美意識のある人間なら、プライドを持たない人間を第三者として見ると不快に思うだろう。だが、直接にその人間と関わる場合、プライドのある人間というのは、実につきあいにくい相手なのである。これは、ジェイン・オースティンの「高慢と偏見」で見事に描かれている。主人公ベスが、最初嫌っていたミスタ・ダーシーの真価を知るまでには長い時間が必要だったのだ。というのが、ミスタ・ダーシーは強烈なプライドの持ち主で、自分の美意識に背く行為(人に自分を良く見せたり媚びたりする行為)は絶対にできない人間だったからである。とすれば、彼の善行は常に「隠れた善行」であり、彼の欠点は常に人の目に隠されないことになる。逆に、常に自分を良く見せようとする人間は、よほど鋭い知性の目で見ないかぎり、「素晴らしい人間だ」と思われるのである。彼の真実の姿は、彼の悪行が「事実として」暴露された場合だけになる。
「いや、プライドを持たない人間はいない」という考え方も一理あるが、問題は、その現れ方である。少なくとも、他人の前で自分のプライドを守ろうとする行為は、その相手を不快にさせるだろう。逆に、常に相手の「意を迎える」ような行動を取る人間は、ふつう嫌われることはない。軽く見られるだろうが、だからこそ親しく付き合うこともできるのである。
高位高官の前で頭も下げない人間は「プライドを守る」ことはできても、社会的には絶対的に不利になるのであり、その姿勢を貫くなら隠者にでもなるしかない。つまり、「他人へのへつらい(愛想、媚び)」は、地位や財産の無い人間にとっては不可欠の「生きる技術」になるわけである。
まあ、隠者にまでならなくても、職人とか研究者という生き方もあり、それは隠者に近いのだが、とにかく「人間を相手にする」仕事では、自分のプライドを守るのは至難のわざだろう。もっとも、「喧嘩が強い」というプライドだけで生きていく人間もいるわけで、何を自己評価の基準にするかは人それぞれである。