利己主義は利他主義と融合できる(モラルとしての社会主義)1
(引用1)は、私自身の別ブログに書いた記事の一部で、ここから「神や仏を前提としない道徳」を考察していくつもりだが、その道徳の具体的内容は、この「独楽帳」に既に書いた江戸時代の町人道徳とほぼ同じなので、ここではその道徳の基本部分、土台となる思想について書く。で、それは、昨日再読したマーク・トゥエインの「人間とは何か」に、私が漠然と予定していた考えがあったので、それを(引用2)としておく。(私の基本思想は「利己主義と利他主義は融合可能であり、それでこそ社会は向上する」である。)
先に言っておけば、「引用1」では私は「偽善」を否定的ニュアンスで使っているが、これは世間一般のニュアンスそのままで使っている。で、私がこれから書こうとしている道徳・モラルではこの「偽善」が、肯定的意味でその中心になると予測している。
つまり、我々は「自分の心からではない善行」を不快に思い、それを「偽善」とするのだが、実は善行はほとんど常に実行に抵抗感(自分が何かに「譲歩」しているという不快感)があるのである。(失策をした下女を許すという道徳的善より、怒鳴りつけるという快感をほとんど無意識に選ぶ行為が、「引用2」の「癇癪」である。)その抵抗感から来る不快感が、「偽善」という言葉になっているわけだ。ここには「善行は心の底からの善意で行われ、気持ちいいものであるべきだ」という誤解が存在するのである。
だが、実は善行と偽善行為には実体的な価値の差はない。行われたこと自体はどちらも善なのである。「偽善」について世間が問題としていることは単に「それが心のままの行為ではない」ということにあるのであり、それ(その思想の誤り)を確か荀子は明確に「偽とは『人為』である」と説明し、「人為的善行(偽善)を否定する思想」を否定していたと思う。
道徳とは、たとえば「怒りを抑える」のように「不自然で(人為的で)」「努力を要する」のであり、若者や子供はそれを毛嫌いするのが常なのだ。「なぜ、人を殺してはいけないのですか」という、或る青年の質問は、そうした「道徳の不自然さへの軽蔑と反感」があったはずだ。
(引用1)
先に言っておけば、「引用1」では私は「偽善」を否定的ニュアンスで使っているが、これは世間一般のニュアンスそのままで使っている。で、私がこれから書こうとしている道徳・モラルではこの「偽善」が、肯定的意味でその中心になると予測している。
つまり、我々は「自分の心からではない善行」を不快に思い、それを「偽善」とするのだが、実は善行はほとんど常に実行に抵抗感(自分が何かに「譲歩」しているという不快感)があるのである。(失策をした下女を許すという道徳的善より、怒鳴りつけるという快感をほとんど無意識に選ぶ行為が、「引用2」の「癇癪」である。)その抵抗感から来る不快感が、「偽善」という言葉になっているわけだ。ここには「善行は心の底からの善意で行われ、気持ちいいものであるべきだ」という誤解が存在するのである。
だが、実は善行と偽善行為には実体的な価値の差はない。行われたこと自体はどちらも善なのである。「偽善」について世間が問題としていることは単に「それが心のままの行為ではない」ということにあるのであり、それ(その思想の誤り)を確か荀子は明確に「偽とは『人為』である」と説明し、「人為的善行(偽善)を否定する思想」を否定していたと思う。
道徳とは、たとえば「怒りを抑える」のように「不自然で(人為的で)」「努力を要する」のであり、若者や子供はそれを毛嫌いするのが常なのだ。「なぜ、人を殺してはいけないのですか」という、或る青年の質問は、そうした「道徳の不自然さへの軽蔑と反感」があったはずだ。
(引用1)
「我が身可愛さ」がなぜ悪とされるのか
「混沌堂主人雑記」の最新の記事のタイトルが、私には非常に示唆的なもので、「自己防衛本能が人間およびすべての動物の根源的本能だ」という私の思想に完全に対立する言葉で、そこから私が長い間考えている究極的な道徳、モラルの大きな柱になる思想に発展しそうなので、メモ的にそのタイトルを引用しておく。
そのモラルは「自己防衛が人間の本能である以上、もっとも崇高な行為は自己犠牲であり、もっとも醜悪な行為は他者に自己犠牲を要求することだ」という言葉にすることができるだろう。そして、多くの他者批判は、自分は安全な場所にいながら他者に自己犠牲を要求するものではないか?
さらに言えば、「利己主義自体は人間の本能であり、批判されるべきものではなく、それが他者を犠牲にする場合に批判される」と言ってもいい。あらゆる行為は自分の利益を求めてのものだと言うこともできるだろう。それを悪だとすること自体が、まさに「偽善」であり、問題は、自己の利益と他者の利益をどちらも達成する道を探すことではないか。なぜ、利己主義と利他主義を機械的に対立させる必要があるのか。利他行為は自分の利益でもある、というのが善行(特に公徳)を推進する意義ではないのか。
少し酒が入っているので、下の言葉への考察は先送りしておく。それは次のような言葉(注:「昭和天皇は我が身可愛さに国を売った」という趣旨)だ。先に言っておくと、「我が身可愛さに国を売る」ことを私はまったく批判できない。そうしないと殺すと脅迫されれば誰でもそうするはずだからだ。それを批判する人間は、「自分(家族含む)は殺されても国民全体の幸福のために自分を犠牲にする」と断言できるか?
(引用2)中野好夫訳「人間とは何か」より
青年「それじゃ、またお伺いしますが、すると、人間、すべからく善行を積むべし、ってことを教育する、その意味はどこにあるんです? どんな益があるんです?」
老人「なに、それはまず当人自身が、それによって大変な利益をえる。これがまず第一だなーーー当人自身にとってだよ。次には、そうなれば、もう隣人たちにとって危険人物だなんてことはなくなる。誰にも危害を及ぼすことはないーーーだから、こんどはその隣人たちが、彼の徳行によって利益を受けることになる。彼等にとっちゃ、これがまた大変なことだ。そうなれば、この人生ってもんが、関係者すべてにとって、まずまず結構ってことになるわけだからな。ところが、それに反して、この教育を怠ってみろ、どうなる? この人生って奴が、関係者すべてにとって、のべつ幕なしの危険、災厄ってことにも十分なりうるわけだからな。」
(中略)
老人「つまり、人間すべての行動について、その内なる主人って奴はだな、つねに決って君自身まず利益を受けるってことを期待してるんだ。でなきゃ、一切行動なんてものはありえない。」
青年「なるほど、じゃ、かりに僕は懸命になって、その利益をえることだけを考えたとしますよ。ところが、その同じ僕が癇癪などを起こして、それをフイにしちまったってのは、いったいどういうわけなんです?」
老人「なに、そりゃもう一つ別の利益をえたいと思っただけの話だよ。その気持が突然に出て、価値の上で先のものを凌いだってだけの話だな。」
(引用ここまで。以下考察。)
「引用2」での「内なる主人」は、フロイト的な「潜在意識」あるいは「イド」を思わせる。我我を無意識裡に操作(支配)している深層心理である。
そのモラルは「自己防衛が人間の本能である以上、もっとも崇高な行為は自己犠牲であり、もっとも醜悪な行為は他者に自己犠牲を要求することだ」という言葉にすることができるだろう。そして、多くの他者批判は、自分は安全な場所にいながら他者に自己犠牲を要求するものではないか?
さらに言えば、「利己主義自体は人間の本能であり、批判されるべきものではなく、それが他者を犠牲にする場合に批判される」と言ってもいい。あらゆる行為は自分の利益を求めてのものだと言うこともできるだろう。それを悪だとすること自体が、まさに「偽善」であり、問題は、自己の利益と他者の利益をどちらも達成する道を探すことではないか。なぜ、利己主義と利他主義を機械的に対立させる必要があるのか。利他行為は自分の利益でもある、というのが善行(特に公徳)を推進する意義ではないのか。
少し酒が入っているので、下の言葉への考察は先送りしておく。それは次のような言葉(注:「昭和天皇は我が身可愛さに国を売った」という趣旨)だ。先に言っておくと、「我が身可愛さに国を売る」ことを私はまったく批判できない。そうしないと殺すと脅迫されれば誰でもそうするはずだからだ。それを批判する人間は、「自分(家族含む)は殺されても国民全体の幸福のために自分を犠牲にする」と断言できるか?
(引用2)中野好夫訳「人間とは何か」より
青年「それじゃ、またお伺いしますが、すると、人間、すべからく善行を積むべし、ってことを教育する、その意味はどこにあるんです? どんな益があるんです?」
老人「なに、それはまず当人自身が、それによって大変な利益をえる。これがまず第一だなーーー当人自身にとってだよ。次には、そうなれば、もう隣人たちにとって危険人物だなんてことはなくなる。誰にも危害を及ぼすことはないーーーだから、こんどはその隣人たちが、彼の徳行によって利益を受けることになる。彼等にとっちゃ、これがまた大変なことだ。そうなれば、この人生ってもんが、関係者すべてにとって、まずまず結構ってことになるわけだからな。ところが、それに反して、この教育を怠ってみろ、どうなる? この人生って奴が、関係者すべてにとって、のべつ幕なしの危険、災厄ってことにも十分なりうるわけだからな。」
(中略)
老人「つまり、人間すべての行動について、その内なる主人って奴はだな、つねに決って君自身まず利益を受けるってことを期待してるんだ。でなきゃ、一切行動なんてものはありえない。」
青年「なるほど、じゃ、かりに僕は懸命になって、その利益をえることだけを考えたとしますよ。ところが、その同じ僕が癇癪などを起こして、それをフイにしちまったってのは、いったいどういうわけなんです?」
老人「なに、そりゃもう一つ別の利益をえたいと思っただけの話だよ。その気持が突然に出て、価値の上で先のものを凌いだってだけの話だな。」
(引用ここまで。以下考察。)
「引用2」での「内なる主人」は、フロイト的な「潜在意識」あるいは「イド」を思わせる。我我を無意識裡に操作(支配)している深層心理である。
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