忍者ブログ

独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

老年には創作意欲が減退すること

隠居生活に入ったら、のんびりと小説でも書いてみたいと考えていたのだが、小説を構想する気にもなれないのは不思議である。そもそも、小説やドラマ的なフィクションに対する興味が年を取ると減退する傾向があるように思う。これはなぜなのか。
文学者が、若いころにその代表作を書き、年を取ると創作意欲そのものが減退するという理由のひとつは、「書くべきこと、書きたいことはすでにほとんど書いた」ということだろう。若いころは、小説世界が実人生そのものとほとんど等価である、というのが文学的人間の性質だろう。むしろ人生以上である場合すらある。実人生を知らないからこそ想像が高く飛翔する、という面もある。実人生を知っても、その卑小さのゆえに、小説などのフィクション世界のほうがマシだ、と思う人もいるだろう。「生活などは召使に任せておけ」というわけだ。
もっとも、その実人生の卑小さ、ということ自体が幻想や妄想で、実は生活の価値を味わう能力が当人に無い、という場合もあると思う。「心が繊細なばかりに僕はすべてをふいにした」ということもある。むしろ、ある種の鈍感さが、実人生の勝利者となるためには必要だ、というのは、「トニオ・クレーゲルの定理」とでも呼んでおこう。
私が書きたいのは、「ボートの三人男」のような駄弁小説である。「吾輩は猫である」でもいい。ドラマチックな出来事は何ひとつ起こらない、ただ人生の日差しを味わうような小説だ。
ドラマとは何か。悪党が出てくる小説や芝居のことである。悪党や誤解や行き違いが存在しなければドラマは生まれない。そういうドラマにはうんざりしているのである。
でなければ、プラトンの「国家」その他の駄弁小説だ。議論小説と言ってもいい。中江兆民の「三酔人経綸問答」でもいい。あるいは同じく兆民の「一年有半」でもいい。兆民のように、寿命の期限が一年半と限定されたら、何か書く気になるだろうか。
PR