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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

日本戦後史と中国

「櫻井ジャーナル」記事だが、個人的メモ(参考用)なのでこの個人的ブログに載せておく。現代史の中で「学校では教えない」事実を書いていて勉強になる。
だが、天皇からの「メッセージ」というのは眉唾な気がする。当時すでに天皇は政治的権力とは無縁の存在だったのではないか。左翼的学者の捏造(口頭のメッセージの伝言だから証拠が無い)の可能性があるだろう。あるいは天皇の存在を利用して右翼を動かそうというダレスの捏造かもしれない。あるいは軍国主義的な経歴を持つ誰かが自分を偉く見せるためにホラを吹いたのかもしれない。つまり、「俺は天皇やダレスと近いのだ」という自慢である。

(以下引用)

2022.05.24

 
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 来日したジョー・バイデン米大統領は5月23日に岸田文雄首相と会談し、台湾を中国軍が攻撃した場合には軍事介入すると発言した。アメリカの大統領だったリチャード・ニクソンが1972年2月に中国を訪問、両国の国交を正常化した。その際にアメリカ政府は中国を唯一の正当な政府と認め、台湾の独立を支持しないことを表明している。

 バイデン大統領の発言はこの合意を否定するものだと受け取られ、中国政府が反発しただけでなく、アメリカ政府も軌道修正を図った。アメリカの対中国政策に変化はないと発表したのだ。バイデン大統領の周辺にはロシアや中国に対して好戦的な集団が存在しているが、それに抑制しようとしている勢力も存在しているのだろう。

 第2次世界大戦後、ハリー・トルーマン政権は中国に国民党政権を樹立する予定で、支援していた。東ヨーロッパをソ連が占領することを認めるという条件でヨシフ・スターリンも蒋介石体制を容認していたと言われている。

 トルーマン政権は蒋介石に対して20億ドルを提供、軍事顧問団を派遣していた。1946年夏の戦力を比較すると国民党軍は200万人の正規軍を含め総兵力は430万人。それに対し、紅軍(コミュニスト)は120万人強にすぎず、装備は日本軍から奪った旧式のものだった。

 国民党の勝利は明らかなように見えたが、1947年の夏になると農民の支持を背景として人民解放軍(47年3月に改称)が反攻を開始。その段階の兵力は国民党軍365万人、人民解放軍280万人。1948年の後半になると人民解放軍が国民党軍を圧倒するようになり、49年1月に解放軍は北京に無血入城、コミュニストの指導部も北京入りし、5月には上海を支配下に置いた。

 その上海にはアメリカで極秘裏に創設された破壊工作機関OPCが拠点を置いていたが、国民党の敗北が明確になると拠点を日本へ移動、その中心は厚木基地だったと言われている。

 OPCの後ろ盾は巨大金融資本、いわゆるウォール街で、1950年10月にCIAへ潜り込み、破壊工作部門の中核になる。その年の終わりまでにOPC/CIAは日本で1000人以上を工作員として訓練したという。(Richard J. Aldrich, “The Hidden Hand”, John Murray, 2001)

 日本は中国を攻撃するための兵站基地になることが見通されたが、運送手段がストライキなどで止まると戦争はできない。ところが当時、日本では労働運動が盛り上がっていた。

 陸上の運送は国鉄が中心になるが、そこの労働組合は強力。その組合を潰す必要がある。そうした中、引き起こされたのが国鉄を舞台とする怪事件だ。1949年7月5日から6日にかけての下山事件、7月15日の三鷹事件、そして8月17日の松川事件である。国鉄の労働組合は壊滅的なダメージを受けた。

 日本から大陸へ物資を運ぶのは船。アメリカ政府としては、日本の港でストライキが起こることも防がなければならない。そして1952年に創設されたのが「港湾荷役協議会」だ。会長に就任したのは山口組の田岡一雄組長。その後、山口組が神戸港の荷役を管理することになり、東の重要港である横浜港を担当することになったのが藤木企業の藤木幸太郎だ。

 その間、1950年6月22日に日本で興味深い夕食会がニューズウィークの東京支局長だったコンプトン・パケナムの自宅で開かれた。参加したのはアメリカ側からはジョン・フォスター・ダレス、国務省東北アジア課長ジョン・アリソン、ニューズウィーク誌の外信部長だったハリー・カーン、そしてパケナム。

 日本から出席したのは大蔵省の渡辺武、宮内省の松平康昌、国家地方警察企画課長の海原治、外務省の沢田廉三。渡辺は元子爵で後に駐米公使になり、松平は元侯爵で三井本家家長の義兄に当たる宮内省の人間。松平康荘の子どもだが、康昌が生まれる前に康荘は慶民を養子にしている。この慶民は初代宮内府長官。また沢田廉三は外交官で、結婚した相手は三菱合資の社長だった岩崎久弥の娘、つまり岩崎弥太郎の孫で孤児院のエリザベス・サンダースホームの創設者として有名な美喜。海原治は国家地方警察企画課長で、国家警察予備隊、後の自衛隊を創設する際に中心的な役割を果たすことになる。

 夕食会の3日後に朝鮮戦争が勃発、その翌日にはダレスに対して天皇からメッセージが口頭で伝えられている。伝えたのはパケナム。軍国主義的な経歴を持つ「多くの見識ある日本人」に会い、「そのような日本人による何らかの形態の諮問会議が設置されるべき」だという内容だった。(豊下楢彦著『安保条約の成立』岩波新書、1996年)

 中国で人民解放軍の勝利が決定的になった直後、OPCは中国共産党の幹部を建国の式典で皆殺しにし、偽装帰順させていた部隊を一斉放棄させるという計画を立てていた。その計画が発覚、朝鮮戦争が始まる。

 朝鮮戦争は泥沼化、1953年7月に休戦協定が成立するが、その2カ月前にベトナムではアメリカの支援を受けていたフランス軍がディエンビエンフーで北ベトナム軍に包囲され、翌年の5月に降伏している。

 フランスが降伏する4カ月前、1954年1月にジョン・フォスター・ダレス国務長官がベトナムでのゲリラ戦を準備するように提案。その年の夏、ダレス国務長官の弟であるアレン・ダレスが長官だったCIAはSMM(サイゴン軍事派遣団)を編成、破壊活動を開始。その延長線上にアメリカのベトナム戦争はある。

 朝鮮戦争もベトナム戦争も背景には対中国戦争があるのだが、ニクソン政権は方針を転換して中国との国交を回復、米中とソ連の戦いという構図を作った。この段階でベトナム戦争を継続する意味はなくなったと言えるだろう。

 ニクソンは中国訪問の最終日に上海で共同コミュニケを発表、それに基づいてアメリカと中国は関係を築いてきたのだが、バイデンはその取り決めを壊すかのような発言をした。

 その見方が正しいなら、アメリカは中国と戦争をするということになる。すでにアメリカが戦争を始めている相手のロシアと中国は「戦略的同盟関係」にあるわけで、アメリカはロシアと中国の連合軍と戦わなければならない。アメリカに従うのはイギリス、オーストラリア、日本くらいだろう。

 バイデン政権では国務省やCIAが戦争に前向き。フィリップ・ブリードラブ元SACEUR(NATO欧州連合軍最高司令官)も核戦争への恐怖がウラジミル・プーチン露大統領に対する適切な対応を西側にとらせないと主張しているが、​マーク・ミリー統合参謀本部議長はウェスト・ポイント(陸軍士官学校)の卒業式でロシアと中国を相手にする可能性に言及​した。バイデン政権の言動は米中との戦争を引き起こすと警告したのかもしれない。

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