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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

村上春樹作品の本質

カズオ・イシグロと村上春樹を比較した記事の一部だが、村上春樹の作品についての本質的な部分を突いている感じがある。もっとも、初期から中期の作品について妥当する評ではないかと思うが、後期の作品は重いテーマを扱っていても、それが本気なのかどうか、「義務的苦悩」「作り物の苦悩」ではないか、という気がするし、テーマが重くなればファンや大衆は離れていくのではないか。
要するに、ライトノベル作家としての村上春樹こそが彼の世界的人気の理由だと私は思っているのだが、であるからにはノーベル賞を彼に与えるのは、たとえばスチーブン・キングにノーベル文学賞を与えるようなものだと思うのである。それよりはボブ・ディランに与えるほうがまだ「文学的」には意義があるのではないか。
「若者の表層的な苦悩」という言葉には棘もあるが、実際、村上春樹の中期までの作品のほとんどはそれだろう。なぜ主人公が苦悩するのか、と言えば、「若さゆえ」と結論するしか無さそうに思う。恋愛が苦悩の原因になるのは、文学的なテーマではあるのだが、その苦悩も「こちら立てればあちらが立たず」という、モテ男の二股恋愛の苦悩のような気がするのである。そこが表層的な苦悩に見えてしまう。こちらとあちらのどちらも得たいという図々しい苦悩だから表層的苦悩だと言っているわけだ。
と言っても実は私は彼の作品は「国境の南太陽の西」しか読んでいない。読まなくても、彼の作品の評などを読めばだいたいその作風は想像できるし、実際に読んだ印象も先入観どおりであった。つまり、ライトノベルである。セックス描写が露骨なのが子供むけライトノベルとの相違である。そこ(セックス描写)が「純文学」と勘違いされた理由だろう。
いや、ライトノベルだからこそ売れるのである。そして、文章は上手い。詩情もある。ユーモアもある。そこが世界的な人気の理由だろうし、それで十分ではないか。本人もそう思っているような気がする。「ノーベル賞」だ何だと騒いでいるのは出版界だけだ。








「実は春樹フィーバーの裏側で言われている説があるのです」とはベテラン編集者だ。

「94年受賞の大江健三郎、00年の高行健など、ノーベル賞作家は社会性のある作品が多い。ずしりと重いのです。イシグロ氏の『わたしを離さないで』の設定は、人間が“オリジナル”と呼ばれる世界。彼らの遺伝子によってつくられたクローンの子供たちが成長し、オリジナルに臓器を提供するために内臓を切除され、モルモットのように死を迎えるストーリー。科学と人間の根源的な罪悪がこめられている。一方、村上作品は卓越した文章力でカルト的人気があるものの、若者の表層的な苦悩というイメージが強い。ヒット作『ノルウェイの森』の映画版が酷評されたのはそのせい。だからノーベル賞が空振りに終わるのでしょう」

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メイルショービニストピッグ

これは広末の勝ち。坂上みたいな潜在的(か顕在的か知らないが)メイルショービニスト【男性至上主義者・男性専制主義者】はまだまだ日本には多いと思う。

私は男だが、この手の男が大嫌いなのである。だが、案外とこういう男のほうを好む女も多い。



            さんがリツイート
10月3日

今日のさんま御殿。坂上忍が「恋人が洗い物をしないので仕方なく自分が洗う事があるけど、彼女がそれに気が付かないと嫌。ありがとうは言って欲しい。」みたいな話をした後、話を振られた広末涼子が「うちは『お礼言わなくていいよ。お礼言うなんて特別な事したみたいじゃない。』って言われます。」と

年齢と小説の創作

若いころの私は、年を取って人生経験を積めば積むほど小説を書く能力は高まると思っていた。
しかし、現実には、若いころに素晴らしい小説を書いていた作家たちが、中年以降は創作能力が枯渇する例が多い。
その理由を考えてみる。

第一の原因は、「持ちネタが尽きること」だろう。
新しい情報そのものは幾らでも手に入るが、多くの知識を得ることで、逆に若いころのような「強迫観念」的に心をとらえる興味の対象が無くなるわけだ。
第二には「妄想力」が無くなることだろう。本物の女性を知らない間は、恋愛にしろ女体にしろ性交にしろ、どんなに素晴らしいものだろうかと妄想する。しかし、本物の女性を知れば、それは妄想していたものの半分の魅力も無いことを知るわけだ。性交なども同様だ。自慰より性交が勝ることはほとんど無い。面倒くささは倍以上だし、下手をすれば人生そのものを踏み誤る危険もある。
第三に、「(あらゆる)書は読まれたり。肉体は悲し」ということだ。世の中に存在する「面白い本」のほとんどを読んだ後で、自分が何かをそれに付け加えられると思うには、蛮勇が要る。まあ、スケールや知性的な高さでは古典を超えられなくても、古典では取り扱っていない素材や趣向を扱うことで新鮮味を出し、読者の関心を引くという「隙間産業」的な小説が毎年作られるわけである。1950年代から70年代くらいまでのアメリカの都会小説の雰囲気を日本を舞台に書くことで「村上春樹」の小説になるように、加工の仕方はいろいろある。

基本的に、小説とは19世紀で終わったジャンルであり、トルストイやドストエフスキーを超える作家や小説はもはや現れないだろう。もちろん、推理小説などが好きな人は、幾ら同じような話だろうが、推理小説でありさえすれば飽きもせず読むわけで、推理小説には限らず様々なジャンルで毎年のように新人作家が生まれ、ベストセラーを書く。だから、新作小説の需要は常にあるわけだが、それは古典を読まない層が膨大にいるからこそである。

内面の葛藤は「物語」たりうるか

この考えに基本的には同意だが、善人は基本的に心の中で葛藤するだけで悪行には至らない。
したがって、善人だけでは「物語」は生まれない。特に、劇的な物語にはならない。
大衆小説や大衆演劇、映画などで必要なのは優れた悪役なのである。純文学なら、内面の葛藤だけでも小説にはなる。





            さんがリツイート
10月1日

人間の醜い部分を露出させることを「人間を描く」ことだと思っている人がけっこういる。レビューなんかでもそんな作品の方が書かれやすい。逆に善人を出すと「理想主義」と言われたりする。でも善き人にも葛藤がありそこに物語は生まれる。

ネット記事の有効利用

「内田樹の研究室」から「英語の未来」という記事の前半を転載。
ショーの話が、ある種の「生活の技術」の話になっているからである。

(以下引用)



このところTwitter中心の発信で、ブログにまとまったことを書くということをしていなかった。締め切りに追われて、それどころじゃなかったのだけれど、やはりブログの更新が滞ると寂しいので、今日からまた再開することにした。
以前は毎日のようにブログにエッセイを書いていた。
前にも書いたけれど、これはバーナード・ショーに学んだ。
ショーは毎日『タイムズ』の読者からのお便りコーナーに投稿することを日課としていた。『タイムズ』は毎日バーナード・ショーから無料エッセイが届くのだからありがたい限りであるけれど、それでも毎日「読者のお便り」コーナーに掲載するわけにはゆかない。ときどき掲載して、残りは没にしていた。
でも、ショーは原稿をタイピングするときにコピーを取っておいて、投稿したものが何年分かたまったところで、それを出版社に持ち込んで本にした。
「なんと無駄のない人生であろう」とぱしんと膝を打ち、それからショーに倣って私も毎日のようにネットにエッセイを書くことにしたのである。実際そうやって書き溜めたものがある日編集者(内浦亨さん)の眼に止まり、それが単行本(『ためらいの倫理学』)になったことで私の物書き人生は始まったのである。
Twitterよりブログの方がエッセイを書く上ではアドバンテージが多い。
字数が多いので、書きたいだけ書けるということが第一だけれど、それ以上に私にとってありがたいのは、新聞や雑誌の記事とか本からの引用とかの書誌情報を整えて書いておくと、あとで調べ物をするときにたいへん便利だということである。
Twitterは字数がわずかだから、引用とか統計データの数字とかを備忘のために書き留めておくためのツールではない。ブログは「備忘録」として使い勝手がよい。検索もしやすい。実際に、あるトピックでメディアから寄稿依頼されたとき、過去のブログをキーワード検索してでてきたエッセイをスクロールすると、必要な情報はだいたい収まっている。場合によってはそのままコピペして原稿として出すこともある。二重投稿というのは学術的にはやってはいけないことなのだけれど、個人的に書いて無償公開していた覚書を有料原稿に書き換えるだけなので、誰からも文句を言われない。
この9月10月は比較的締め切りが少ないので、この隙間を縫ってブログを少し続けて書くことにする。