妥当性のある古典と妥当性のない古典
どうでもいい話題なのだが、世界が、あるいは世間が過大評価をしているものを不愉快に感じるという感情は私だけのものだろうか。
孔子は「紫の朱を奪うを憎む」と言ったが、それは「より劣るものがより優れたものより評価されていることを憎む」ということである。
この手のことは電通支配の日本ではよく見ることであり、世界でも同様だろう。
一時代を画したものが、「次の新しいもの」に話題を奪われ、忘れられていくことも多いが、それはそれが過大評価されていた場合だけでなく、ほとんどの人は新しいものにしか興味を持たず、古いものを軽蔑する傾向があるからだ。
だが、それらの話題になったものの中で、大衆的要素の強いものは新しく生まれてきた大衆の俗耳にも入りやすく、しばしば懐古的に話題になり、「古典扱い」されたりする。
その事例として私は「指輪物語」を挙げたい。
正直言って、この作品を私は読んだことが無いので映画を元にして話すが、話の内容は「少しも面白くない」のである。映画自体は視覚的に面白かったが、話は少しも面白いとは思えない。とすると、原作も話は面白くないと推定できる。
それがなぜ高い評価を受けたかというと、「大学の教授が書いた」「緻密な内容の話」だからだろう。そしてファンタジー作品だから「ここがおかしい」と言うこともできない。膨大な長さの作品だと言っても、「物語自体」には何も起伏も発展性も無いのである。冒険物語にはよくある話の羅列にすぎない。「戦争と平和」や「カラマーゾフの兄弟」のような必然性があっての長さではない。そして、「高慢と偏見」のように細部がことごとく面白いという作品でもない。特に会話など、少しも面白さはないのである。
だが、一般大衆をこけ脅かしするには最適の作品だから、これは今後「大衆文学の古典」扱いされるだろう、と推定できる。
孔子は「紫の朱を奪うを憎む」と言ったが、それは「より劣るものがより優れたものより評価されていることを憎む」ということである。
この手のことは電通支配の日本ではよく見ることであり、世界でも同様だろう。
一時代を画したものが、「次の新しいもの」に話題を奪われ、忘れられていくことも多いが、それはそれが過大評価されていた場合だけでなく、ほとんどの人は新しいものにしか興味を持たず、古いものを軽蔑する傾向があるからだ。
だが、それらの話題になったものの中で、大衆的要素の強いものは新しく生まれてきた大衆の俗耳にも入りやすく、しばしば懐古的に話題になり、「古典扱い」されたりする。
その事例として私は「指輪物語」を挙げたい。
正直言って、この作品を私は読んだことが無いので映画を元にして話すが、話の内容は「少しも面白くない」のである。映画自体は視覚的に面白かったが、話は少しも面白いとは思えない。とすると、原作も話は面白くないと推定できる。
それがなぜ高い評価を受けたかというと、「大学の教授が書いた」「緻密な内容の話」だからだろう。そしてファンタジー作品だから「ここがおかしい」と言うこともできない。膨大な長さの作品だと言っても、「物語自体」には何も起伏も発展性も無いのである。冒険物語にはよくある話の羅列にすぎない。「戦争と平和」や「カラマーゾフの兄弟」のような必然性があっての長さではない。そして、「高慢と偏見」のように細部がことごとく面白いという作品でもない。特に会話など、少しも面白さはないのである。
だが、一般大衆をこけ脅かしするには最適の作品だから、これは今後「大衆文学の古典」扱いされるだろう、と推定できる。
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