忍者ブログ

独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

血洗島は島ではない


語源説の中の「アイヌ語由来説」はダメ説だろう。なぜ関東の地名がアイヌ語に由来するのだ。
今思いついたが、洪水で地が洗われた後に残った部分を「島」と呼んで「地洗い島」となり、いつのまにか「血洗島」と表記されたのではないか。土地の小区分を「シマ」と呼ぶのはやくざの「シマ」と同様である。

(以下引用)


血洗島(ちあらいじま)は、埼玉県深谷市にある大字および地区の名称である。市では八基地区で分類されている。郵便番号は366-0006[4]。面積は615180.118平方メートル[5]。2015年時点の国勢調査で人口は448人、世帯数は145世帯である[5]。旧榛沢郡血洗島村。「近代日本資本主義の父」と称される実業家・渋沢栄一が生誕した場所として知られている[6]

地理

[編集]

埼玉県の北部地域で[7]、深谷市の北西部に位置する[6]南北に長い地域。区域の東側を下手計や上手計、南側を町田、西側を南阿賀野や北阿賀、北側を横瀬と隣接する。また北部は横瀬を挟み河川飛び地である群馬県伊勢崎市境島村が近傍に位置する。地区中央部を清水川が東西に流れる。全域が利根川小山川に挟まれた後背地沿いの沖積平野部に属していて起伏は一切無い。地内は畑などの農地が広がり蔬菜栽培が盛んであるなど、農業的土地利用の比重が高い地域である。なお、地名に「島」という字があるがではない。

地名の由来

[編集]

渋沢栄一が『龍門雑誌』で載せた談話では、赤城の山霊が他の山霊と戦った際に片腕を拉がれ、その傷口をこの地で洗ったことに由来するといったおどろおどろしい説を紹介しているが[21]、他にも、この地がもともとアイヌ語で「ケシ、ケセン、ケッセン」という音の言葉(日本語で言えばや末端という意味の言葉)で呼ばれていて、その音をあらわす当て字として漢字の「気仙」や「血洗」を使ったから、「ちあらい」と読むとする憶測(一種の誤読)が生じたとする説[21](付近を流れる「とねがわ」の「トネ」という音も、アイヌ語で「長い」という意味という説がある[21]。隣村の「手計村(はかむら)」の「はか」も、もとはアイヌ語の「ハケ」(崖という意味の言葉)で、音を表記する当て字が「手計」で、それが「ハカ」と読まれるようになったとする説もある[21]。)

他にも、昔この地域で合戦があり、戦場で負傷して片手を失った家臣が切り落とされた片手を洗ったため、血洗島という名前になったという説[21]など様々な説がある。また、3番目の説で挙げた家臣の手を葬った墓は手墓と呼ばれているという伝説もあった[21]

陸地にあり島でもないのに地名に「島」という言葉が含まれる理由は、もともとこの地域一帯は利根川南岸の氾濫原(洪水が起きやすく、しばしば水没する平原)の中にあり、「四瀬八島」と呼ばれている場所がある(4の、8の島。中瀬・横瀬、内ヶ島・西島など)ということに由来する[21]

PR