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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

大衆文学論

私の別ブログに書いた記事だが、今読み返してなかなか面白いので、こちらのブログにも載せておく。自分が書いた文章だから自分の趣味にかなっているのは当然であり、「(世間には)面白い小説が無い」と思っている人は、自分で書いてみたらいい。どんな低レベルの愚作でも、自分だけは面白いはずだ。

(以下引用)


あまり長い間記事を書かないと妙な広告を載せられるので、漫談というか、散漫な思想をダラダラ書いてみる。一種の大衆文学論であるが、大きく文学論と言ってもいい。それぞれの大衆文学の特徴みたいなものの考察である。
先に、純文学と大衆文学との違いを私なりに言えば、
「純文学は読者を想定せず、自分の強迫観念を徹底的に掘り下げて文章化したもの」
で、
「大衆文学は読者へのサービスを第一義とした文学」
である。つまり、「娯楽性の無い大衆文学は大衆文学として落第である」し、「売れない大衆文学も、大衆がそれを欲していないわけで、大衆文学としては落第である」と言える。
つまり、純文学のほうが合格ラインははるかに低い。しかし、純文学には大衆文学にない価値があり、それは「読者の思考の宇宙(いわゆる内宇宙)を拡大し変質させる」という機能である。つまり、それを読むことで、読者はそれまでより思考の水準が一段階高くなり、頭脳の質そのものに変化があるということだ。
たとえばドストエフスキーの作品などがそれである。もちろん、これは読者の水準そのものの高さが要求される。たとえば私の場合は夏目漱石の「猫」を読む前と読んだ後では思考の機能が大きく変化している。世界を笑いの視点から見ることが可能になったわけだ。これもまた純文学なのである。だが、「猫」を読んでも面白くもおかしくも感じないという人間が膨大にいるだろうということ、そしてそれは学校の勉強では優秀な成績を取る人間であることもあるだろうと思われる。これが「読者の水準」の意味で、これは必ずしも知能指数などの話ではないわけだ。同様に、宮沢賢治の作品に非常に高次元の詩情を感じる人と、何も感じない人がいるわけである。
記事をうっかり消してしまう前に、公開しておいて、いったん休憩する。

さて、本題の「大衆小説」だが、ジャンルで分ければ「推理小説」「SF小説」「ホラー小説」「時代小説」「風俗小説」「その他」に分けられ、「その他」は前記のどのジャンルにも入れにくいものを入れることにする。そして、「風俗小説」は前記の「推理・SF・ホラー・時代」のどれにも入れにくい、現代の風俗を描いた小説ということにする。さらにその中には「恋愛小説」と「非恋愛小説」がある、としてもいい。もちろん、「恋愛の要素はあるが、それが中心ではない」というものもある。たとえば庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」などは恋愛風味もある、現代学生(浪人生)の風俗の一面を描いた「青春小説」となるだろうか。これは芥川賞を取ったが、大衆小説だろう。「ライ麦畑でつかまえて」が大衆小説であるのと同じである。つまり「青春小説」だ。これをひとつのジャンルとしてもいい。この手の小説は芥川賞受賞作に多い。
広義に言えば梶井基次郎の「檸檬」も青春小説だと言えないこともない。漱石の「三四郎」も同じである。もともと文学の大きな主題のひとつが青春なので、これは純文学と大衆文学を横断するテーマである。スタンダールの「赤と黒」も青春小説だろう。しかし「パルムの僧院」は青春小説ではない。これはひとえに主人公の年齢、または精神年齢による。ドストエフスキーの「罪と罰」やバルザックの「幻滅」なども青春小説の面が大きい。
ここでまたいったん休憩。

「推理小説」には「トリック中心のもの」と「トリックを重視しない文学性重視のもの」があるというのは良く言われていると思うが、後者は松本清張のもの以外はあまり成功していないように思う。まあ、その手のものはほとんど読んでいないのだが、松本清張はむしろ純文学者の気質がある作家だと思う。推理小説で名声が上がったのは彼の不幸だったのではないか。だが、純文学者としても、かなり異質で、学者的側面が強く、また政治などへの関心も高く、どの方面にその才能を伸ばせば一番良かったのか分からない。まあ、彼の時代小説などは時代小説の最高峰だと私は思っているので、案外、その方面が最適だったのかもしれない。
で、私自身は、推理小説はトリック中心の軽い読み物のほうがいい、という主義だが、あまりに推敲の不十分な粗雑な推理小説だと娯楽になるより腹が立つ。これはSF小説も同様だ。娯楽小説というものには案外高いハードルがあるのである。エラリー・クイーンの信奉者が日本の推理小説作家には多いが、クイーンの作品の半分くらいは、粗雑であり愚作だと私は思っている。まあ、主人公のエラリー・クイーンのキャラが大嫌いだというところも点数を下げているのだが。
ちなみに、ドイルのホームズ物は、トリックが稚拙なものもあるが、ホームズというキャラが抜群なので、「冒険小説」として私は好んでいる。だが、何度も繰り返して読むというのは推理小説ではなかなかできないというか、やっても面白くないので、結局「一度か二度読んで終わり」というのが推理小説の宿命だろう。そして下手に文学的志向があるとかえって嫌みになる。
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