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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

選択肢が多すぎると選べない(「多岐亡羊」という故事成語もある。)

「シロクマの屑籠」というブログから転載。精神科医らしいが、「自分の屑籠」を他人に見せるのは失礼だよなあ、と少し私自身反省。
下に書かれていることは理解できるが、同時に、「それらの『できる事』が上達してどうなるの?」という感もある。
世の中には本業だけは抜群だが、ほかは子供みたいに無能、という人間もいて、それもそれなりに立派な生き方だ、と私は思う。
また、本業では無能で、周囲からも馬鹿にされているが、当人の精神世界の中では幸福そのものだ、という人間もいて、私はどちらかと言えば、そちらの人生でありたい。
一番つまらないのが、「何でもできる」という人間ではないか、という気もする。「悪霊」のスタヴローギンのようなものだ。美男子で、いい家柄で、周囲から抜群の才能の持ち主と見られながら何ひとつやろうという気持ちになれず、幼女を強姦するのがせいぜい「やったこと」である人物だ。まあ、何でも、やる前から結果が分かっているのでは何もやる気になれないのは当然だろう。

選択肢が多すぎると選べなくなる、というのはなかなか大きな問題で、それをテーマにして名を上げた経済学者もいるようだ。椎名誠の最新の(だと思う。)「発作的座談会」でも、そういう理由で買い物が苦手だ、という話が二回ほど出てきていた。



2017-05-18

「できる事」をどんどん捨てないと生きていけない

 
 三十代から四十代にうつる間に、私は、できることがものすごく増えた。
 
 今まで蓄積してきた知識の量が増え、それと関連書籍をリンクさせながら読書するようになったことで、一冊の書籍から汲み取れる情報量が飛躍的に増えた。十年前の私と現在の私では、読書の方法と効率がまったく違う。
 
 読書だけでなく、ゲームを遊ぶ時のプレイ集約性も、オフ会に参加する時のノウハウもますます高まった。自分で言うのもなんだが、この十年間で、私は驚くほど成長したと思う。体力や集中力の衰えを埋め合わせて余りあるものを、私は獲得してきた。
 
 ただ、できることが増えたけれども、体力や集中力が減った結果として、「できるけれども諦めなければならないこと」が増えた。
 
 あのゲームもこのゲームも面白そうだからやりたい。
 でも、体力や集中力が続かない。もちろん時間も足りない。
 
 今なら、あのスポーツもこの芸事も、若い頃よりよほど効果的に始められるだろう。
 でも、体力も時間も無いから、始めたくても始められない。
 
 「文章を書く」という一点についても、やりたいこと・できそうなことがもっと沢山あるのに、なかなか始められない。私はこのブログの他にも、ワインブログをひとつと、中期的~長期的なミッションの幾つかを持っているが、それらで手一杯で、それ以上のことができない。
 
 本当は私は、今までに遊んだすべてのコンピュータゲームの長短入り混じったレビューを書き記したサイトをつくりたい。それと、ワインを好きになるために必要な知識を、初めての人にもわかるように記したサイトもつくりたい。それから、ライトノベルやweb小説も本当は書きたくてしようがない。実際、プロットの骸骨のようなものはメモとしてたくさん転がっているが、これを肉付きの良いプロットに仕上げるための時間や、つくったプロットをテキストに転写するための余力が無い。
 
 どれも、十年前とは比較にならないほど精巧にやってのけられるだろう。他人の評価はともかく、自分自身が惚れ惚れとするようなアウトプットを完成させる自信はある。けれども、それらに手を出してしまえば身の破滅が待っているだろう。今やっている事すら仕上げられず、消耗しきった私は精神疾患か身体疾患にかかり、何もできなくなってしまうに違いない。
  
 だから、やりたい事をどんどん捨てないと、私はこれから生きていけないんだな、と思った。
 
 私の「選択すればできることリスト」には、実現可能性の高いいろいろなものの名前が並んでいる。正直、自分でも目移りしそうなぐらいで、中年期を迎えた自分自身に、まさかこれほどの選択可能性があるとは考えもしていなかった。そういう意味では、私は果報者だ*1
 
 しかし、知識や経験によってできることが増えた半面、それを実行するための体力や集中力や時間が目減りしてしまったがために、「選択すればできることリスト」から実際にチョイスできる選択肢の数は十年前より少なくなってしまった。あたかも、素晴らしいメニューの並ぶ居酒屋に入ったのに、胃袋が小さいせいで、2~3品しか注文できない人のようだ! もう、思春期の頃のように「あれもこれもつまみぐいしてから考える」なんて体力的・時間的余地はない。今、何かを選択するということは、他の何かを選択しないということに直結している。私は、「選択すればできることリスト」から何かを選んでいるつもりで、実は、選ばないものを捨てているのだ。そうやってできそうな可能性を捨てていかなければ精神的・肉体的に死んでしまうことがわかっているから、可能性のありそうなものでも切っていかざるを得ない。
 
 「可能性を切っていくこと」には、思春期の頃から慣れているつもりだったが、あの頃には、人生の時間はもっとたっぷりあるように思えた。けれども今は違う。自分に残された時間が少ないと肌で感じるようになったし、多くのことに「後回し」という言葉は適用できない。後回しにしている間に、私自身は年を取って、世の中も変わってしまうだろう。そもそも、私は一体いつまで生きて活動できるのか? 切ってしまった「できる事」は、たぶん、諦めなければならない。
  
 能力的な制約が減ったかわりに、加齢という、どうにもならない制約が堆積してきたことによって、私は、運命を、選択を、決めてかからなければならなくなった。今、選んでいることだけでもキチンとやっておかなければ! せめて、選んでしまった「できる事」を「できた事」にコンバートするために努めなければ! 歳月は、人を待ってはくれない。
 
 これは四十代前半の私が正直に思っていることで、五十代前半~六十代前半の私は、きっと違ったことを思うのだろう(もし生きていたらの話だが)。そして、この文章を十年後~二十年後の私自身が読み返すしたら、さぞ羨むかもしれない。が、ともあれ今こうやってブログを書いていること自体も「できる事」の取捨選択のひとつで、私は、この文章をどうしても書き残して、未来の私に伝えてみたかったのだと思う。
 
 「できる事」をどんどん捨てなければ生きていけないのだとしたら、せめて、選ぶべきものをキチンと選んで、選んだからには最善を尽くしていきたい。
 
 

*1:現代人のセンスでは、選択可能性が多いほど幸せで選択可能性が少ないほど不幸せということになっているから、そのセンスに則って言えば果報者、という意味でしかない点に注意

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