差別は或る意味本能的なもので、差別反対運動などでは解消できない、といった内容の記事の一部だが、さて、ここに書かれた空港での寸劇ははたして筆者が解釈したようなものなのだろうか。
そもそもパリは黒人に対する差別が非常に少ない街だと私は思っている。(大デュマも黒人の血が入っているのである。アフリカ植民地化の反動でフランスに黒人も大量に入っているのだろう。現代でも黒人男性と白人女性のカップルを私は旅行中たくさん目にした。)中東人への差別はイスラム教という宗教への差別であり、肌の色などによる差別ではないだろう。とすれば、空港カウンターの女性が黒人女性に対し「やや硬い口調で」質問し、その夫が誰であるのか「怒ったように」見まわした、というのは筆者の主観では「黒人差別」だろうが、まさに主観でしかないのではないか。ここには明白な差別行為はまったく無い。要するに、「気のせい」「気の回しすぎ」ではないか。
で、筆者が黒人女性の夫であると分かった後のカウンターの女性の心の中の動きも、すべて推測にすぎない。その彼女の心の中で「白人黒人アジア人」という差別観が消えて「人間だ」という意識に変わった、など、筆者が推測しただけのことをまるでそれが事実であるかのように書いているのであり、この筆者が文化人類学者か何かを名乗っているというのは笑止である。学者なら、推測だけで物事を語ったり判断するのは絶対に避けるべきであり、こうした文章を書くべきではない。
という、「特権的な経験」と「自己教育(あるいは意識の高さ)」以外に差別を解消する手段は無いと言うのなら、差別解消はそもそも不可能だ、と言い切ったほうがいっそすがすがしいだろう。
私自身の考えを言えば、差別反対運動以外に差別を無くす方法は無い、と思う。筆者自身が黒人女性と結婚したのも、世界の中での長い間の差別反対運動の結果、差別は悪いことだという意識が心の中に育っていたからではないのか。
昨年の夏に、妻とコートジボワールに里帰りしたときのこと。
パリで飛行機を乗り継ぐ際、空港内でパスポート・コントロールがあった。あるゲートに20人ほどが列をつくり、すこし大柄な女性職員がパスポートをチェックしている。
妻の番が来ると、職員は「ひとりなの?」とやや硬い口調で質問してきた。パリの空港ではテロの影響もあり、セキュリティ関連の仕事に就く人々はつねに緊張している。
妻が、「いえ、夫と一緒です」と答えると、彼女は列に並ぶ人を見渡しながら怪訝そうな顔をして、少々怒ったように「どこ!?」と聞き返した。
妻がすぐ後ろに並んでいる私を指さすと、彼女は一瞬眼が点になったように私を見つめ、すぐに恥ずかしげに、はにかんだような笑顔を浮かべた。
女性職員は列を眺めたとき、無意識のうちに黒人男性を探したのである。だが黒人はひとりもいなかった。
この女の言っていることが分からない。怪しい、そう思ったことであろう。そして夫がアジア人であると知ったとき、彼女は自分が囚われていた先入観に気づいた。
黒は黒、白は白、黄は黄……こうした指標にしたがってロボットのように機能していた彼女の心の中で、別のレベルの意識が目覚めた。その意識はこうささやいたに違いない。
「人間だ」
そして彼女はバツが悪そうに笑った。その罪のない笑いは私たち夫婦に伝染し、3人は楽しそうに微笑みを交わした。まるで悪い憑き物が落ちたかのように。
あらゆるレベルでの差別を告発し、社会の仕組みを変えてゆくことは必要であろう。だが、制度よりも「心の動き」が大切であることを忘れてはならない。
差別を生みだす精神構造は私たちみなが持っている。ヒトはその置かれた環境におおきく左右される動物であるから、差別主義者を攻撃するのではなく、差別が生みだされる環境を理解しなければならない。
人の心には、善も悪もある。天使も悪魔も、仏も鬼も棲んでいる。それらをどう飼いならすか。差別という「憑き物」をどう落とすか。
必要なのは抽象的な理念でも大袈裟なイデオロギーでもなく、人と人とのコミュニケーションの中で「落ちる」瞬間を具体的に体感し、その経験を積み重ねて、自身の心の中に自由な空間を広げてゆくことなのだ。
ジャマイカのガンコ爺さんと、パリの女性職員の笑顔を思い出しながら、私はそう確信するのである。