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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

和姦・売春・強姦

女性における、「和姦」と「売春」と「強姦」の違いについて考えてみようと思うのだが、テーマとしてここに載せておくだけにしておく。

上記の三つの違いは

1)女性にとって望ましい性交
2)いやいやながらだが自ら同意して行う性交(相手次第で和姦化するかもしれない)
3)女性が拒否しながら強引に行われる性交

というように分類しておくが、1)と3)の間に2)を置くことで女性にとってのセックスの意味が分析できるような気もするし、完全に的外れな分析になるような気もする。

男の場合には強姦というのは基本的に存在しないと思う。アメリカ映画などだとホモによる男の強姦というのが時々出てくるが、馬鹿馬鹿しい話である。糞の出口にペニスを挿入されたところで糞を出すのと方向が違うだけのことだ。糞を出すなら快感もあるが、そこから異物が入ってきて快感も無いし、心が傷つくような文学的な心理機構もたいして無いだろう。
では、女性の場合は強姦というのは、いろんなフィクションで語られるように、それほどひどく心が傷つくのか、というのが私が知りたいことなのである。
そこで、では「売春」はどうなのだ、というワンクッションを思考の補助線として置いてみたわけだ。
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悪を働くことと同情を受けること



彼らは盗みを働くかもしれないし、死人の口から金歯を抜き取るかもしれない。でも正面から差し出された贈り物は決して受け取ろうとはしない。というのはほんのわずかでもお情けのにおいのするものには、それが何であれ、彼らは我慢ならないからだ。


「感謝祭の客」(トルーマン・カポーティ 村上春樹訳)より



この部分は非常に面白いと思ったので、思索のネタとする。つまり、悪事を働くことは慈善や同情を受けるより容易である、あるいはその反対の言い方をするなら、他人の慈善や同情を受けるくらいなら悪事を働くほうがマシ、という心理はなぜ起こるのか、である。
実際、他人からの同情ほど嫌なものは無い、というのはかなり普遍的な心理である。

悪事との対比で言うなら、悪事を行うのは或る意味「自分が強者であることの証明」である。実際、悪事の結果は処罰であり、その処罰の可能性を知りながら悪事を行うことは勇気の証明だ、となるわけだ。これが子供がしばしば万引きなどの小さな悪事をしたり、悪事をすることを「仲間入り」の条件とする理由である。悪事が一種の通過儀礼であるわけだ。「これでお前もめでたく悪の仲間入り」である。原始的な部族がバンジージャンプなどで勇気を証明することで大人の仲間入りをするのと変わりはない。「悪事をする俺ってカッケー」と思っていない不良はいないだろう。そして、そういう不良を素敵と思う馬鹿な女の子も膨大にいる。実際、単に勇気という点だけで言えば、悪を行うことは勇気ある行為ではあるのだから、それを男らしいと見るのもあながち間違いだとも言えないのだ。ただ、馬鹿な勇気であり、ロクでもない人間であることの証明でもあるだけの話だ。
さて、では、他人からの同情や慈善を受けることがあれほど不愉快なのはなぜか、と言えば、悪事との対比で分かるように、それは「自分が弱者であることの証明」だからである。弱者だから同情され慈善を受けることになる。ならば、その同情や慈善を突っぱねることでしか「弱者の位置」から抜け出せないのは当然だ。
要するに、悪事を冒すことは自己愛をむしろ喜ばせ、慈善や同情を受けることは自己愛を傷つけるという、「人間は自己愛の動物である」という基本原則でこの問題は解答が出るのである。




差別を無くすのに有効な手段はあるか

差別は或る意味本能的なもので、差別反対運動などでは解消できない、といった内容の記事の一部だが、さて、ここに書かれた空港での寸劇ははたして筆者が解釈したようなものなのだろうか。
そもそもパリは黒人に対する差別が非常に少ない街だと私は思っている。(大デュマも黒人の血が入っているのである。アフリカ植民地化の反動でフランスに黒人も大量に入っているのだろう。現代でも黒人男性と白人女性のカップルを私は旅行中たくさん目にした。)中東人への差別はイスラム教という宗教への差別であり、肌の色などによる差別ではないだろう。とすれば、空港カウンターの女性が黒人女性に対し「やや硬い口調で」質問し、その夫が誰であるのか「怒ったように」見まわした、というのは筆者の主観では「黒人差別」だろうが、まさに主観でしかないのではないか。ここには明白な差別行為はまったく無い。要するに、「気のせい」「気の回しすぎ」ではないか。
で、筆者が黒人女性の夫であると分かった後のカウンターの女性の心の中の動きも、すべて推測にすぎない。その彼女の心の中で「白人黒人アジア人」という差別観が消えて「人間だ」という意識に変わった、など、筆者が推測しただけのことをまるでそれが事実であるかのように書いているのであり、この筆者が文化人類学者か何かを名乗っているというのは笑止である。学者なら、推測だけで物事を語ったり判断するのは絶対に避けるべきであり、こうした文章を書くべきではない。
ついでに言うと、筆者が言うような


必要なのは抽象的な理念でも大袈裟なイデオロギーでもなく、人と人とのコミュニケーションの中で「落ちる」瞬間を具体的に体感し、その経験を積み重ねて、自身の心の中に自由な空間を広げてゆくことなのだ。


という、「特権的な経験」と「自己教育(あるいは意識の高さ)」以外に差別を解消する手段は無いと言うのなら、差別解消はそもそも不可能だ、と言い切ったほうがいっそすがすがしいだろう。
私自身の考えを言えば、差別反対運動以外に差別を無くす方法は無い、と思う。筆者自身が黒人女性と結婚したのも、世界の中での長い間の差別反対運動の結果、差別は悪いことだという意識が心の中に育っていたからではないのか。




(以下引用)


「差別」とは何か?アフリカ人と結婚した日本人の私がいま考えること

正論の押し付け合いは無力である
鈴木 裕之 プロフィール

昨年の夏に、妻とコートジボワールに里帰りしたときのこと。

パリで飛行機を乗り継ぐ際、空港内でパスポート・コントロールがあった。あるゲートに20人ほどが列をつくり、すこし大柄な女性職員がパスポートをチェックしている。

妻の番が来ると、職員は「ひとりなの?」とやや硬い口調で質問してきた。パリの空港ではテロの影響もあり、セキュリティ関連の仕事に就く人々はつねに緊張している。

妻が、「いえ、夫と一緒です」と答えると、彼女は列に並ぶ人を見渡しながら怪訝そうな顔をして、少々怒ったように「どこ!?」と聞き返した。

妻がすぐ後ろに並んでいる私を指さすと、彼女は一瞬眼が点になったように私を見つめ、すぐに恥ずかしげに、はにかんだような笑顔を浮かべた。

女性職員は列を眺めたとき、無意識のうちに黒人男性を探したのである。だが黒人はひとりもいなかった。

この女の言っていることが分からない。怪しい、そう思ったことであろう。そして夫がアジア人であると知ったとき、彼女は自分が囚われていた先入観に気づいた。

黒は黒、白は白、黄は黄……こうした指標にしたがってロボットのように機能していた彼女の心の中で、別のレベルの意識が目覚めた。その意識はこうささやいたに違いない。

「人間だ」

そして彼女はバツが悪そうに笑った。その罪のない笑いは私たち夫婦に伝染し、3人は楽しそうに微笑みを交わした。まるで悪い憑き物が落ちたかのように。

〔PHOTO〕iStock

あらゆるレベルでの差別を告発し、社会の仕組みを変えてゆくことは必要であろう。だが、制度よりも「心の動き」が大切であることを忘れてはならない。

差別を生みだす精神構造は私たちみなが持っている。ヒトはその置かれた環境におおきく左右される動物であるから、差別主義者を攻撃するのではなく、差別が生みだされる環境を理解しなければならない。

人の心には、善も悪もある。天使も悪魔も、仏も鬼も棲んでいる。それらをどう飼いならすか。差別という「憑き物」をどう落とすか。

必要なのは抽象的な理念でも大袈裟なイデオロギーでもなく、人と人とのコミュニケーションの中で「落ちる」瞬間を具体的に体感し、その経験を積み重ねて、自身の心の中に自由な空間を広げてゆくことなのだ。

ジャマイカのガンコ爺さんと、パリの女性職員の笑顔を思い出しながら、私はそう確信するのである。







狼と共に吠えるか、自殺するか

エーリッヒ・ケストナーの一般向け小説「ファービアン」では、主人公の真面目な青年に芸能人だかモデルだかの恋人がいて、その恋人が枕営業をしたと知って主人公の青年は自殺するのだが、芸能界と枕営業が付き物というのは洋の東西を問わない。要するに美男美女の集まる世界だから、狼やハイエナたちがその周辺に集まるわけである。まあ、性的道徳とは無縁の世界だろう。従って、昔風の性道徳を持った人間にとっては地獄である。
「ファービアン」の主人公の自殺と、漱石の「こころ」の「先生」の自殺は、どちらもモラルへの拘りからの自殺という点で似ている。つまり、自分自身や自分を取り巻く世界が許せないから自殺するわけだ。
仮に、考察の結果、モラルのほうが間違っている、という結論が出たとしても、それはモラルに従って生きてきた自分自身のこれまでの人生が無価値化されることになるわけである。そうすると、モラルを無視して動物的になってまで生きていきたくない、というのもひとつの回答である。
自分以外がみな狼だと知った場合の生き方は、狼と共に吠えるか、自殺するしかない。いや、ひとりで山の中に入って一匹オオカミとなる道もある。


(注)ロシアの諺である。ウィキペディアより。


[編集]

  • オオカミと暮らすならオオカミのように吠えろ。
    С волками жить --- по-волчьи выть.
その土地の習慣にしたがって暮らせ。郷に入りては郷にしたがえ。
「ス・ヴォルカミ・ジーチ パ・ヴォルチイ・ヴィーチ」









1: 2018/03/22(木) 12:43:35.55 ID:CAP_USER9
米ハリウッドでのセクハラ被害などの告発を端緒に世界に広がった「#MeToo」。日本でも被害を実名で告白するケースが出てきましたが、芸能界では広がっていないようです。なぜなのでしょうか。 

現役でグラビアアイドルの活動をしている20代の女性が、匿名を条件に自身が受けたセクハラや、芸能界で告発が広がらない理由について話してくれました。(朝日新聞経済部記者・森田岳穂) 


「グラドルはセクハラ受けやすい」 

 女性は東京都内の芸能事務所に所属している現役のグラビアアイドル。イメージDVDやファンとの交流イベントに出たり、テレビのバラエティー番組に出演したりといった活動をしています。 

 ただ、元からグラビアアイドルを目指していたわけではなく、夢はドラマや映画に出演する女優。その足がかりとして今の活動を行っているそうです。 

 「芸能界のセクハラは本当にひどい。特にグラビアアイドルはセクハラを受けやすいですよ。水着姿になるなど、たしかに女性を売りものにしている側面がある仕事だと思います」 

 「ただ、グラビアアイドルをやっている子には女優や歌手を目指している人が多く、露出度の高い衣装を好きで着ているわけではない子も多いですし、セクシーなポーズも仕事でしているだけ。決して皆が『エロい』わけではありません。仕事仲間にまで性的な目で見られるのはおかしいのではないかと思います」 

打ち合わせで性的な質問 

 業界では「枕営業」のうわさが絶えません。女性も、仕事の付き合いがあった男性から暗に枕営業をすすめる発言をされたことがあるそうです。 

 男性は「枕をしていた」と何人かの芸能人の名前をあげたうえで「僕は自分の彼女のように思えないと仕事を任せられない」と言ってきたそうで、すぐにその人との仕事は断ったそうです。女性は「仕事で付き合っていたはずの人が豹変して、本当に恐怖を感じました」と話します。 

 グラビアアイドルの中から「ミス」を選ぶイベントを行っているある出版関係の会社に行った時には、編集長から「ミスになりたくないのか?」などと言われながら、ひどいセクハラ発言を受けたといいます。 

 「こちらはお仕事の打ち合わせでお会いしているのに、自分の性的欲求を満たすような質問をたくさんされました。まるでキャバクラ嬢に酔っ払ってからんでいるかのような扱いですよ。グラビアアイドルだからってエロいことをなんでも言っていいなんてことないですよね?」 


 「相手は決定権を持っている人なので、それに従う女性がいるからこそあそこまでつけあがるのだと思います。見下されているようで大変に気分が悪く、お仕事は断りました。普通の会社ならこんなことは許されないですよね? 悲しいかな、こういったことは珍しいことではないんです。芸能界では非常識なセクハラおじさんたちが許されてしまっているんですよ」 

つづく 

3/22(木) 7:02配信 withnews 
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180319-00000003-withnews-ent

2: 2018/03/22(木) 12:43:49.45 ID:CAP_USER9
業界に出回る「ブラックリスト」

 また、セクハラが激しいとされる有名なお笑い芸人などの名前は「ブラックリスト」として出回り、女性もマネジャーから飲み会などに出席しないように指導されているといいます。女性が共演者らとの飲み会に出席する際にはマネジャーがほぼ必ず同席するといいます。

 それでも、セクハラだと感じるような言動をされることがあるといい、マネジャーからは「大物相手にマネジャーがクレームを入れるとカドが立って仕事に影響が出る。うまくかわせるようになってほしい」と言われているそうです。
 
 なぜ、芸能界でセクハラが横行するのでしょうか。「芸能界ではキャスティングの権限などを持っている大物やテレビ局の社員の立場が強く、そこまで売れていない人間の立場は本当に弱い。どうしても仕事が欲しい子たちは嫌なことをされても黙っているし、あまりにも当たり前のようにセクハラがあって、芸能界はそういうものだと自分でも違和感を感じなくなってしまっています」と女性は話します。

広がらぬ告発

 米国・ハリウッドでの俳優らの告発をきっかけに広がった「#MeToo」。日本でも、ブロガーで作家のはあちゅうさんが自身のフェイスブックなどで元勤務先の先輩を名指しで告発するなどの動きがありました。ただ、芸能界には広がっていないようです。

 こうした現状について、お笑い芸人の水道橋博士さんは朝日新聞のインタビューで、「そんなの、日本でもあるに決まってるでしょ? でも、なかなか言えないんですよ。大物が絡んでいたりすると、告発したら自分の仕事がなくなると思ってしまう。芸能界には、ボクを含めて昭和の古い体質の人たちがまだまだいますからね」と語っています。グラビアアイドルの女性も「仮に声をあげても、大物でなければ黙殺されるし、干されて芸能界にいられなくなるだけ。芸能界で頑張りたいと思っている人ほど声を上げるなんてできないと思っている」話します。

 では、どうしたらいいのでしょうか。水道橋さんは同じ朝日新聞のインタビューで「米国の俳優たちも新しい社会のために行動しているし、自分の過ちを受け入れている。セクハラを許さないことは国際社会の流れで、日本もその流れに乗っていくでしょうね。共演者や視聴者など周囲がセクハラを肯定的に見ない、という意識を自分も含めて持ちたいです」と語っています。

 芸能界であこがれの女優を目指して努力を重ねている女性を取材して、「誰かが声を上げないと変わらない。告発を」とは言えませんでした。女性のように立場の強くない人が声を上げればすれば、仕事を失うかもしれないからです。

 告発が広がらない背景には、あまりにもセクハラが当たり前にある芸能界の現状があるようです。変えていくには、芸能界に身を置いている人はもちろんですが、一般のファンや視聴者も含めてセクハラを許さないという視線を一人ひとりがしっかりと持つことから始めるしかないのかもしれません。

倫理とは何か

まあ、気の向いた時に適当に書いている項目だが、今日は、「倫理とは何ぞや」という根本を考えてみる。
考えるきっかけになったのは、吉本隆明の「日本近代文学の名作」という文庫本の中の中原中也の項目に「中也は実生活に対してとても倫理的な人で、生活についての倫理観がその詩の特質になっている」と書かれていたことで、中也を倫理的と評したのを見たのは初めてだったからである。吉本隆明は「倫理的とは何か」を説明してはいないが、この言葉は意外であると同時に、何か分かるような気もした。そこを分析してみたいと思ったのである。もちろん、中也が実生活で通常の意味で倫理的であったという事実があって、私がそれを知らないだけかもしれない。言うまでもなく、通常の意味での倫理的とは道徳的である、ということだ。だが、私自身は中也の詩にそういう印象を受けたことはあまりない。かと言って不道徳という感じももちろん無い。常に、死と人生への悲哀感と抒情性が溶けあったような作風に思えるが、それは倫理という言葉とはあまり関係するようには思えないわけである。

中也のことを離れて、「倫理」とは何か、と考えてみる。私は漢字の原義を基にして物事の根本を考えることを好むが、残念ながら漢和辞典を所有していないので、「倫」の字について無根拠な考察をしてみる。左側の「にんべん」は当然、「倫」が人間にとって非常に重要なものだ、ということを示しており、また「人間的な物事」であることを示しているだろう。
問題は右側のつくりで、このつくりを持つ漢字を探してみると「輪、綸、淪、棆」などで、「輪」以外は意味を知らない漢字ばかりで、「りん」という音を示す「音符」としての機能しか無い感じだが、まったく音以外の意味が無いなら、このつくりである必然性も無いだろう。
そこで強引に考えてみると、右下の「冊」(中心を貫く横棒が左右に出ているが、それは無視する。)という漢字構成要素に意味がありそうな気がする。つまり、「冊」が古代に書記用具として使われた竹板を束ねたノート様のものとすれば、「冊」自体に、何かを「束ねる」意味があるのではないか、ということだ。「柵」も、並んだ棒を横木で束ねたものである。

要するに、私が言いたいのは、「倫理」とは、人間の心を束ねる、一本の横棒だということだ。そのままに心を放置すると放恣そのものになり、人面獣心の存在になるのが、倫理という横棒が束ねることで、人間が人間らしい存在になる、ということである。
これは、世の中の非人道的犯罪の記事などを見れば、納得されるだろう。
倫理を失った人間は、人間ではない、ということだ。