悪を働くことと同情を受けること
彼らは盗みを働くかもしれないし、死人の口から金歯を抜き取るかもしれない。でも正面から差し出された贈り物は決して受け取ろうとはしない。というのはほんのわずかでもお情けのにおいのするものには、それが何であれ、彼らは我慢ならないからだ。
「感謝祭の客」(トルーマン・カポーティ 村上春樹訳)より
この部分は非常に面白いと思ったので、思索のネタとする。つまり、悪事を働くことは慈善や同情を受けるより容易である、あるいはその反対の言い方をするなら、他人の慈善や同情を受けるくらいなら悪事を働くほうがマシ、という心理はなぜ起こるのか、である。
実際、他人からの同情ほど嫌なものは無い、というのはかなり普遍的な心理である。
悪事との対比で言うなら、悪事を行うのは或る意味「自分が強者であることの証明」である。実際、悪事の結果は処罰であり、その処罰の可能性を知りながら悪事を行うことは勇気の証明だ、となるわけだ。これが子供がしばしば万引きなどの小さな悪事をしたり、悪事をすることを「仲間入り」の条件とする理由である。悪事が一種の通過儀礼であるわけだ。「これでお前もめでたく悪の仲間入り」である。原始的な部族がバンジージャンプなどで勇気を証明することで大人の仲間入りをするのと変わりはない。「悪事をする俺ってカッケー」と思っていない不良はいないだろう。そして、そういう不良を素敵と思う馬鹿な女の子も膨大にいる。実際、単に勇気という点だけで言えば、悪を行うことは勇気ある行為ではあるのだから、それを男らしいと見るのもあながち間違いだとも言えないのだ。ただ、馬鹿な勇気であり、ロクでもない人間であることの証明でもあるだけの話だ。
さて、では、他人からの同情や慈善を受けることがあれほど不愉快なのはなぜか、と言えば、悪事との対比で分かるように、それは「自分が弱者であることの証明」だからである。弱者だから同情され慈善を受けることになる。ならば、その同情や慈善を突っぱねることでしか「弱者の位置」から抜け出せないのは当然だ。
要するに、悪事を冒すことは自己愛をむしろ喜ばせ、慈善や同情を受けることは自己愛を傷つけるという、「人間は自己愛の動物である」という基本原則でこの問題は解答が出るのである。
PR