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青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳
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さて、LGBTを「趣味」とする表現について最後に一言だけ。
LGBは「性的嗜好」だと言われることがある。そして「嗜好」を辞書で見ると、「たしなみ、好むこと。趣味。特に、飲食物についての好み」(大辞林)とある。つまり「嗜好=好み=趣味」だということになる。
「私はAさんが好きです」と言ったとき、「えー、あんなのが趣味なんだー」と言われたりする。「趣味」を辞書で引けば「2 どういうものに美しさやおもしろさを感じるかという、その人の感覚のあり方。好みの傾向」(大辞泉)とあり、そういう意味で「趣味」なのである。
この部分に関して、ことさら「LGBは性的嗜好preferenceではなく性的指向orientationである」として反論する向きがある。反論しようとするあまり、LGBは生来的なもので、変えようがないものだという側面だけが強調されてしまうこともある。
性的指向といった場合、性愛の方向がそういう性に向いているか、という大きな方向性の意味であるのに対して、性的嗜好といった場合、誰の、どんな特徴を好むのか、というまさに対象そのものの意味であるといった違いがある。言い方を変えれば、「指向」は性別について方向を示すのみで、分類のためのニュートラルな表現であるのに対して、「嗜好」は「Aさんは好きだけどBさんは好きではない」といった具合に個別性が強くなる。そのような意味で「指向」を使ったほうが、ニュアンスを交えずに中立的に表現ができるように思える。
しかし、LGBの人の性愛のありようを「Aさんは好きだけどBさんは好きではない」という「嗜好」の一つだといって何も問題はないのではないか?
「Aさんという個人をかけがえのない人として好きになったが、それがたまたま同性だった」という場合、方向付けを表す「性的指向orientation」よりも「性的嗜好preference」で表現した方がむしろしっくりくる。
LGBが生来的なものか、変えようがないものかどうかに至っては、二の次の問題ではないのか。自分の同性愛が生来的なものだと決めつけることもできないし、逆に後天的なものだと決めつけることはできないだろう。将来のこともわからないから、変わるかどうかなんて誰にも変わらない。杉田水脈の言うように、同性愛は人生上の一過性のものであるかもしれないが、他方で、一過性であるとは決めつけられないのもまた事実である。
「嗜好」「趣味」という言い方は、「特に、飲食物についての好み」と辞書にあったように、例えば今日はカレイにするか、サンマにするか、というほどのニュアンスに聞こえる。自分の気持ち一つで変えられるのだ、と。
そういう恋愛もないとは思わない。
他方で、「Aさんをやめて代わりにBさんを愛しなよ」と言われて、「はいそうですか」と代替できない場合があることもまた事実である(というか、統計的にはおそらくその方が多い)。趣味として、好みとしてAさんが好きだったとしても、Bさんに替えられるわけではない……という人が事実として存在する以上、その恋路は邪魔できないし、結婚することも妨げられない。
「嗜好」や「趣味」だから軽いというわけではなく、「嗜好」や「趣味」に基づく感情・性愛であっても個別の、代替不可能な、かけがえのなさを含んでいることはあるのだ。
だから、「性的嗜好」と表現することや「趣味」と表現すること自体に、ぼくはあまりかみつく必要はないと思っている。
タイトルの問い(LGBTを「趣味」「生産性」で論じることはいけないか)の(ぼくなりの)答えをまとめて言えば、「趣味」「生産性」で論じることはありうるのだ。
言いかえると、
(1)LGBTは「趣味」である人も、「趣味」でない人もいる。しかし「趣味」であるからといって法律婚が認められないのはおかしい。LGBTを法律婚から排除するかどうかの問題は、少なくとも「趣味」の領域ではない。
(2)生産性がない人というものは存在するけど、生産性がないからといって尊厳が奪われていいわけがない。生産性の有無で尊厳を論じるのは間違いだ。他方で、性的少数者の多くは経済的な生産性があるのに「ない」と言われているのはおかしいのではないか――
となる。