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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

サイン盗みは誰にとってメリットがあるか

「野球の記録で話したい」から転載。
私は、罰則を伴わないルールには実効性は無いと思っている。(道徳の禁止条項にも罰則は無いが、道徳を破ることのデメリットを知れば、人は道徳を守るようになる。)その代表が野球の「サイン盗み」である。これには罰則規定はない。ただ、審判が容疑者に注意するだけである。ここで容疑者と書いたのは、サイン盗み自体が「証拠が示しにくい」ものでもあるからだ。二塁走者が不審な動作をしたからといって、それがサイン盗みかどうかは証明不可能だろう。それに、たとえば「次はアウトコースだ」と二塁走者から伝えられた打者が外角に踏み込んだところに内角の球が来たら、デッドボールになる。つまり、命に関わる事故の可能性がある。要するに、サイン盗みが得かどうかと言えば、疑われ、世間の批判を受けてまでやる価値はない、と私は思うが、甲子園での勝利に監督としての評価がかかる「プロ高校野球監督」からしたら、やりたくなるのは確かだろう。甲子園決勝で相手チームのサインを完全に見抜いたら、私なら選手にそれを伝えるか、ベンチからサインを送って、相手サインを利用する。
それは野球の戦略のひとつであり、それができるのも力量である、と私は思う。
つまり、野球というか、スポーツが勝利をめざすものである以上、特にカネがからむと勝利至上主義になってしまうのは宿命的だと私は思っている。逆に言えば、高校の部活が勝利至上主義になるなら、それは「教育的には好ましくない活動」だと私は思う。勝利のためなら何でもする、というのは、カネのためなら何でもする、というブラック企業と同じである。そして、野球をする子供の多くは、将来の人生設計のジャンプ台として野球と甲子園を考えているのは明らかだ。甲子園野球は道徳性向上のために行うのではなく、選手たちが「自分を高く売る」ための舞台なのである。
そこで再びサイン盗みを考えると、脇役選手たちには、サイン盗みをするメリットはなく、監督やスター選手だけにメリットのある行為だ、と結論できるだろう。
そしてスター選手は自分の力で評価を得られるから、優勝に近づく以外には、サイン盗みにさほど大きなメリットもない。「何が何でも優勝して監督としての評価を上げたい」監督だけにメリットはあるわけである。
こういうメリットとデメリットを子供に教えるなら、監督からサイン盗みを命令された子供は、その監督を馬鹿にし、あまり真剣にサイン盗みをしなくなるだろう。
妙に「スポーツマンシップ」「フェアプレー精神」などときれいごとを言うから子供は嘲笑するのである。法も道徳も、もともと損得の観念(合理性)から生まれたのであり、不法や不道徳は低レベルの得でしかないのだ。それを破ることが「長い目で見れば自分の人生をかえってダメにする」から人は法や道徳に従うのである。




(以下引用)


「サイン盗み」が禁止されているのは、「スポーツマンシップ」に反しているからだ。
「スポーツマンシップ」の定義もいろいろあるが、ウィキペディアには
「スポーツをすること自体を楽しみとし、公正なプレーを尊重し、相手の選手に対する尊敬や賞賛、同じスポーツを競技する仲間としての意識をもって行われる活動であるという姿勢」
とある。

ポイントは、「相手に対する尊敬や称賛」だ。スポーツにとって絶対に不可欠なこの部分に照らして、「サイン盗み」は、決定的にアウトなのだ。

そのことに言及する指導者が一人もいなかったのは本当に残念だ。

高名な高校野球ライターである安倍昌彦さんまでが
「サイン盗み経験者だからわかること。利は少なく損は多い、やめなさい」
と言っているのも残念だ。

みんな自分にとって何らかの意味で「損」だからやめようといっている。それは裏返せば「サイン盗みが何らかの意味で『得』になるのなら、やる」ということである。

本来、スポーツマンシップ、つまり精神性やモラルに照らして論議すべき「サイン盗み」を、損得論の次元でやっているのだ。「勝利至上主義」に毒されているとしか言いようがない。

そうではなくて、「サイン盗み」は、スポーツ、試合をするうえで絶対に必要な「対戦相手へのリスペクトがないから、ダメだ」という指導者が一人もいないことに、暗澹たる思いがする。

来年は、東京五輪がある。スポーツの本質に無理解な指導者ばかりで、大丈夫だろうかと思う。






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