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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「人生経験」とは数か深さか

「琥珀色の戯言」から転載。
筆者の意見にほぼ全面的に同感。それどころか、私は、一生部屋から出ず、一冊の本しか読まなかった人間でも、深い「人生経験」をできると思っている。ポール・バンヤン(だったか)は、生涯に聖書しか読んだ本は無かったが、「天路歴程」という傑作を書き上げたと言う。


(以下引用)


「薄っぺらな恋愛経験」という噓

白黒つけます!! (角川文庫)

白黒つけます!! (角川文庫)


この本のコラム『恋にルールはいらない』のなかに、石田衣良さんのこんな言葉がありました。

 ぼくは日本の女性はやはりまじめすぎると思う。女性の華は短い。せっかくのいい季節を、何年も同じ男のことを片思いして費やすなんて、ちょっともったいないよ。ダメなときはすっぱり忘れて、つぎにむかう。こういう「切り替え力」も出会いを増やすためには大事な資質なのだ。さらにいえば、まじめなだけでなく、みんなひどく気弱であきらめが早いのだ。目の前にちょっといい男がいる。探りを入れて、相手に彼女がいるというだけで、すぐにあきらめ、候補者リストからはずしてしまう。でね、そういう女性は必ずいうのだ。「いい人はみんな先に誰かのものになっている」と。でも、その誰かだって、あなたと同じ普通の女の子なのである。
 確かに相手に恋人がいたら、壁は一枚厚くなるかもしれない。つきあい始めるまでのどたばたも覚悟しなければならないだろう。だけど、そんなにいい子でばかりいて、あなたの未来は切り開けるのだろうか。
 女は度胸というのは、今も昔も変わらぬ金言である。この男と狙いを定めたら、相手に恋人がいるくらい問題ではないではないか。だいたい1年半以上つきあっているカップルなら、どんなに熱愛した時期があっても、必ず倦怠期がやってきているはずなのだ(すくなくとも男のほうはほとんどそうである)。
 つきあって、そのくらいでまだ結婚という雰囲気が見えていないなら、後発組だって十分勝算はある。古来、戦争と恋愛にルールはないという。いい人のふりをするばかりでなく、ときに相手の身体にぶちあてるくらいの気もちで、危険な球を投げるのもおもしろいと思う。
 だって、ただしいこと、人に自慢できるようなことばかりしている人生なんて、おもしろくないよ。人生など、傷ついたり、危険を冒してなんぼである。お見合いのつり書きじゃないんだから、立派なことばかりしても、内容は薄っぺらな恋愛人生なんて、きっと後悔することになる。恋愛においてはモラルばかり優先させると、実際の経験がやせた貧しいものになるのだ。誰からも祝福されなければいけないなんて、ずいぶん勝手な思いこみ。もともと恋愛や性の力は、ぼくたちの社会のお約束などとはるかに超えた厳しさや純度をもつものなのだ。
 これは単純な計算だけど、仮に5人の女性と真剣につきあってから、男性が結婚する場合、結婚したひとり以外は、みなただつきあっただけで終わるのだ。今あなたが目をつけた男が、今の彼女と結婚する確率は単純にいって20パーセントでしかない。どうですか、なんだか勝ち目が見えてきた気がしませんか。
 それから、最近の若い男性はみな自分からはアタックしない傾向にある。誰かが自分を見つけてくれるのをひたすら待っているのだ。

 いやまあ、石田衣良さんは、こういう「芸風」の作家なので、大真面目に反論するのも不粋だし、「だからお前はモテないんだ!」って言われてしまいそうなんですけど。


 「恋愛にルールはない」っていうのは、たしかにそうかもしれません。
 本当に「なんでもあり」の人もいるし、恋愛というのが絡むと、「すべての人に祝福される」なんてことはまずありえない。
 たとえば、僕が好きな人と結婚したとして、僕の妻のことを好きだった男がいれば、彼はたぶん、祝福はしてくれないでしょう。
 これは、僕が悪いわけでも、妻が悪いわけでも、その男が悪いわけでもなくても、そうならざるをえないのです。
 もし日本が、多重結婚可能な国にでもなれば違うのかもしれませんが、大奥や中国の後宮の歴史をみてもわかるように、それはそれで、嫉妬心というものが、なくなるわけではありません。

 僕にように「基本的には本やゲームがあれば幸せな人間」でも、こんなふうに「恋愛に奥手な人は、人生の敗者だ」と言われると、「そんなことない」と力なく反論しつつも、「人生失敗しちゃったかな……」なんて、落ち込んでみたりもするのです。

 自分の「人生経験」の乏しさが悲しくなったときには、森博嗣先生のこの言葉を思い出すようにしています。

経験できるのは、僅かに自分の人生一回だけだ。他人の人生も、自分の別の人生も、無理。人生経験が豊かな人というのは、基本的に嘘である。

 屁理屈、かもしれないけど、僕はこういうふうに考えることにしているのです。
 (とりあえず)「人生は等価だ」


 例えば、僕たちが「人生経験が豊富」というふうに誰かを評するとき、その人は、「(良くも悪くも)多種多様な状況を体験してきた人」という意味なのだと思います。この「人生」という言葉を「恋愛」に置き換えると話は、わかりやすくなると思うのですが、「恋愛経験豊富な人」というのは、どちらかといえば、「誰か一人を愛し続けた人」というよりは、「いろんな相手とくっついたり別れたりした人」のことですよね。
 そして、「恋愛の悩みは、『恋愛経験豊富な人』に相談すればいいよ」というような話になるのです。
 でも、それって本当なのでしょうか?


 こう言ってはなんですが、「恋愛経験豊富な人」というのは、ある意味「浮気性」であり、「ひとりの相手と長続きしない人」なわけです。アドバイスを求められても「恋愛って自由なものだしぃ」とか、無責任なことしか言わなかったり、「私のときは、彼はこうだった」とか、「オンナってそんなもんだよ」とかいうような、自分の経験に基づいた、偏ったことしか言わなかったりもします。そりゃあね、ロールプレイングゲームだって、たくさんの敵と闘ったほうが経験値が多く入るのが一般的でしょうが、スライムを何百匹も倒すよりは、ドラゴンを一匹倒すほうが、はるかに高い経験値が得られたりもするわけです。
 「人生経験」にしても、「さまざまな転職を繰り返し」ているような人が、必ずしも「経験値が高い」とは限らないと思いませんか?
 例えば、ずっとひとつの企業に勤め上げた人、職人として一生を終えた人などは、逆に「転職したい」とか「この仕事を辞めたい」というような誘惑とずっと闘う「経験」をしてきているとも言えるはずです。本当に必要なのは、そういう「自分を踏みとどまらせた経験」だという人だって、いるのではないでしょうか。


 5年間に5人とつきあった人と、5年間同じ人とずっとつきあっている人では、前者のほうが、「人生経験が豊か」だと言われるじゃないですか。
 でも、それっておかしい。
 前者は「5人」でも、5人×1年間」、後者は、「ひとり」でも、「ひとり×5年間」。
 同じ人と5年つきあうことによって、1年間では見えてこなかった、いろんな経験もするはずです。
 50年一緒に生活している夫婦にだって、他者からはうかがい知れないような、さまざまな「障害」があったのでしょうし、そこでなんとか続けてきた経験というのが、自分の感情の赴くままに相手をとっかえひっかえして稼いだ「経験」に、劣っているとは僕は思えないのです。


 数だけが価値じゃない。
 もっと言えば、「5年間、ずっと恋人なしで過ごす経験」だって、「恋人がいた人」には得られなかったものです。
 何かをするのが「経験」なら、あえて何もしないのも「経験」なのではないでしょうか。同じだけ生きていれば、みんなそれぞれの「人生経験」を持っているし、その価値というのは、見た目の華やかさだけでは、到底測れないもののはずです。「人生経験」に「豊か」とか「乏しい」っていうのは、基本的にはないような気が僕にはするのです。それは、「ただ、そこにあるもの」で。


 もちろん、主観的な価値の差はあるのかもしれないけれど、どちらが良くて、どちらが悪いとかいうものじゃない。
 考えようによっては、人の恋人を奪おうとしてトラブルになるよりも、恋愛に関わらずに生きたほうが「静かで落ち着いた暮らし」であるとも言えます。
 まあ、そういう「静かな暮らし」に耐えるのはなかなか困難なので、人は恋愛をしたり趣味を持ってみたり、特定のアーティストや野球チームを応援したり、ギャンブルをやったりせずにはいられないものではあるのですけど。
 みんなが静かな暮らしをしていたら、本は売れないし、テレビの視聴率も落ちるだろうし。


 たしかに、いろいろ「やったことがある」というのは、ひとつの強みではあるのでしょう。
 でも、「経験の総和」に、そんなに個人差はないはずです。
 同じだけの時間を生きてきたのなら。
 それは、「恋人がいる、いない」とかだけで決まるのではなくて、それぞれの状況下で、「自分が何を受け止めていくか」が大事なのです。
そういう意味では、たしかに「刺激」があったほうが良いのかもしれませんが、それは、必ずしも「必要条件」じゃない。


「人生経験」「恋愛経験」に優劣なんてありません。
「それについての自信を持っているか」に違いはあるのだとしても。
 そんな言葉に踊らされて、やりたくないことをやる必要はないはず。

「ただしいこと、人に自慢できるようなことばかりしている人生なんて、おもしろくないよ」というのは、本当にその通りだとは思うけど、だからといって、わざわざ「ただしくないこと」をやるのはバカバカしいんじゃないかなあ。

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