忍者ブログ

独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「神」とは何か

単なる実験的思考だが、「実験的」と言うのは、成案が無いということだ。やってみないとどこへ到達するのか、分からないのである。まあ、それこそが「本来の、あるべき思考」ではないか、という気がする。最初から成案があっての思考とは単なる「つじつま合わせ」だからだ。創造的ではない思考である。

具体的なテーマは、「精神とは何か」「神とは何か」である。

後者は前者の問題から派生している。「精神」の「神」は何か、ということだ。

「精神」の「精」のほうは、おそらく「精霊」の「精」と同じだろう。何かが凝縮したもの、というイメージではないか。つまり、ふだんは目に見えない霊が凝縮して目に見えるようになったイメージかと思う。つまり、余計な要素を除去して、その本質部分だけが析出された「精髄」である。

つまり、「心」や「思考」という捉えがたいものの中心部分が「精神」かと思う。

そこで「神」の問題になるが、これも「中心」ではないかと思う。つまり、世界の中心であり、核となるもの、というわけだ。これはユダヤキリスト教的な「世界の創造主」ではなく、世界そのものの中にあるわけだ。あるいは至るところにあるが、目には見えないものだ。

なぜそう思うかと言えば、「申」という字が「日を貫く棒」という形象であるからだ。

ひところ売れっ子だった漢学の学者で漢字に独特な説を立てて話題になった者(今思い出したが「白川静」である。)の説では「申」というのは死刑台の上の首、あるいは棒に刺された首だ、という説だったと思うが、「日」のどこが首なのだよ。いい加減な妄想だろう。

というところまで考えたが、この件はいずれまた考察するかもしれないし、しないかもしれない。
PR