キリスト教では自慰は罪か
ユダヤ・キリスト教の愚劣さがよく分かるテーマである。
2番目に、自慰に至る過程において、心の中で起っていることは罪です。
性的妄想抜きで勃起できる(自慰する)男がいたら、お目にかかりたい。自慰どころの話ではない。彼らは、自分が性交している相手をマリア様だとでも思って、敬虔な気持ちで勃起し、入れたり出したりするのか。
(以下引用)
Q.211 自慰(オナニー)は罪ですか。
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良いご質問を、ありがとうございます。恥ずかしいけど、実はこれで悩んでいる・・・という方は多いと思います。ちなみに「オナニー」という言葉は、聖書に出てくるある人物の名前から来ているんですって。さっそく解説をご覧ください!
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Q. 質問
Q :クリスチャンになってから、自慰(オナニー、マスターベイション)が罪かどうか悩んでいます。どこまでだったら許されるのか、教えてください。
A. 回答
A:似たような質問をよく受けますので、自慰(オナニー、マスターベイション)に関する聖書の教えを取り上げたいと思います。いつものように3つ申し上げます。
1番目に、自慰に関しては、聖書は沈黙しています。
つまり、聖書には、自慰が罪かどうかに関する直接的な教えがないということです。自慰が罪だと主張する人たちは、その根拠として、創世記38章9節を取り上げます。 「オナンは、生まれる子が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入ると地に流していた」 。ちなみに、オナンという名前からオナニーという言葉が派生しています。ここでのオナンの罪は、死んだ兄のために子を残すという責務を果たしていないこと、つまり、神に対する反抗であって、自慰行為ではありません。
2番目に、自慰に至る過程において、心の中で起っていることは罪です。
自慰が罪かどうかに関しては断定的なことは言えませんが、そこに至る過程で起ることは、明らかに罪です。情欲、不適切な性的刺激、ポルノの影響などと無関係に、自慰行為に及ぶ人はいないと思います。主イエスは、 「しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです」 (マタイ5:28)と言われました。従って、自慰で悩む人は、行為そのものを悔い改める前に、心に情欲を抱くことを悔い改めるべきです。そうすれば、情欲の奴隷になる可能性は低くなります。
3番目に、自慰が罪であるかどうかは、聖書の一般原則に基づいて判断すべきです。
聖書の一般原則を4つ上げておきます。(1)信仰から出ていないことは、罪です。つまり、神との信頼関係を破壊することは罪だということです。(2)体はの宮です。それゆえ、自分の体をどう扱うかについて、細心の注意を払うべきです。(3)自制は、御霊の実のひとつです。聖霊に満たされているなら、自制心が働きます。(4)神の栄光がクリスチャン生活のゴールです。 「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい」 (第一コリント10:31)。
参考になる聖句
「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい」 (第一コリント10:31)
自慰行為を問題にする前に、そこに至る過程を問題にすべきです。