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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「密教」の(?)「三密」

この中の「仏と同じくする」というのが分からない。文脈からすると「密」は「慎む」意味だと思われるが、釈迦など、言葉を慎まなかったから旧宗教に迫害されると同時に偉大な教祖になったのではないか。膨大な仏典も、釈迦の教えが元になっているわけで、釈迦が言葉を慎んでいたら仏教など存在しない。
もうひとつの疑問だが、この「三密」は仏教全体ではなく密教だけに限定される教えのだろうか。また、そもそも、密教とは「顕教」の反対で、その教えを外部に秘したから「密教」だったと思う。その教えを外部に教えていいのか、という疑問もある。

(追記)一応調べてみたら、どのネット辞典も同じような説明で、「密」は「慎む」意味ではないようだ。では、「仏と同じくする」というのはどういう意味なのか。そこを説明しないと話をする意味がないだろう。「仏と同じくする」なら「秘密の三業」であるより、より多くの人に知られるべきものではないのか。まあ、宗教の秘密主義は商売のための作戦なのだが。
また、「三密」は主に密教で言われるようだ。


日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

仏教用語。秘密の三業(さんごう)(身(しん)・口(く)・意(い)によって行われる理想的行為)の意。すなわち身密・語密(口密)・意密(心密)の三で、おもに密教でいう。顕教(けんぎょう)では、凡人では推し測れない仏の三業をいうが、密教では、仏の三業は体(たい)・相(そう)・用(ゆう)の三大のなかの用大(真如(しんにょ)の働き)であって、衆生(しゅじょう)の三業もまたその隠された本性においては仏の三業とまったく同じであるとして三密という。[小野塚幾澄]




(以下引用)


蝉丸P@「住職という生き方」星海社新書・発売中
@semimaruP
それはそれで話の枕にはなるかなと>RT
「え~昨今3密と申しますと密閉、密集、密接だそうでございますが、密教では三密と言えば身と口と心を仏と同じくするというもので、我々は普段は身と口と心で業を積んでしまう三業が基本なんですが、これを転じて仏と同じくするのが三密でして…」みたいな


















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