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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

三木谷浩メモ

三木谷浩という「謎の人物」についての情報は少ないので、メモとして載せておく。まあ、ハーバード留学組で金融界出身ということで、孫正義のようにユダ金による日本操縦の手足の一人だろうと思うが、とりあえず、公の情報としては下の記事くらいか。


(以下引用)

[あの日を語る 阪神大震災30年へ]

 楽天グループを創業した三木谷浩史会長兼社長(59)は阪神大震災で、大好きだった叔父と叔母を亡くした。火の手が収まらない神戸の街で目にした現実。「日本を元気にしたい。リスクを取って勝負に出る」と銀行を飛び出した。インターネット通販から携帯電話へと事業を拡大し、災害時に不可欠な通信インフラの 強靱(きょうじん) 化に挑む。

 あの日、都内の日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)本店で早朝から会議をしていた。午前8時ごろ、内線が鳴った。電話の向こう側で、同じ神戸出身の同僚が叫んでいた。「テレビを見てるか。大変なことになってるぞ」。倒壊した阪神高速の映像が飛び込んできた。

 「地震は東京で起きるもの、関西にはないものだと思い込んでいた。1年に1回あれば話題になるぐらい。当時の関西は地震に対して、ノーケアだったと思う。上空からの映像はまるで焼け野原で、声を失った」

 兵庫県明石市に住む両親の無事はすぐに確認できたが、テレビで流れた犠牲者リストに神戸市須磨区に住む叔父・叔母の名前を見つけた。ソフトバンク(現ソフトバンクグループ)の孫正義氏に同行する米国出張を翌日に控えていた。大きなビジネスチャンスだったが、迷うことなくキャンセルし、神戸を目指した。

がれきの中にたたずむ住民ら(神戸市須磨区千歳町、1995年1月18日)© 読売新聞 提供

 「つてをたどって何とか飛行機で岡山にたどり着いた。そこから電車で向かい、途中から歩いた。たどり着いた叔母夫婦の居宅は太いはりが落ち、完全にぺちゃんこの状態だった」

 母と叔母は仲良し姉妹。戦前、ニューヨークに一緒に旅し、第2次世界大戦の開戦で、上海から夜行列車を使い、慌てて帰国した話を聞いたこともある。かわいがってもらった記憶しかなく、自転車で2人乗りした思い出も鮮明だ。叔父とはよくキャッチボールをした。本当に大切で、大好きな人たちだった。

 「区の施設に遺体を確認しに行った。ひつぎに入った叔母がすぐに見つかった。ところが、叔父がなかなか見つからない。ひつぎには限りがあり、結局、毛布で包まれた状態で対面となった。悲しいのはもちろんだが、『何と人生ははかないのか。死ぬことを怖がっていても仕方ないな』と痛感した」

 1990年代初頭、興銀は日本企業のトップオブトップだった。競争を勝ち抜き、米ハーバード大に留学。エリートらの起業にかける思いに刺激を受けた。

 「 僭越(せんえつ) かもしれないが、エリートサラリーマンがリスクを取って勝負に出る。そうすることで、日本や日本の産業を変えられるんじゃないか。自然とそう考えるようになっていた」

 新しい産業を作るには、新しい枠組みと、新しい企業が必要になる。95年11月に興銀を退職し、97年に楽天の前身となる会社を設立した。インターネット 黎明(れいめい) 期に開設した通販サイト「楽天市場」は急成長を果たす。

起業が持つ力で日本をもう一度輝かせたいと話す三木谷浩史・楽天グループ会長兼社長(東京都世田谷区で)=佐藤俊和撮影© 読売新聞

 「職場環境も、給料も良かったし、銀行を飛び出ることにちゅうちょもあった。けれど、もっと大切なことがあるんじゃないか。震災で多くの死を目にして経験し、言い方は悪いが、『俺の人生なんてたいしたことねえや』と脳のモードが変わった。社会を変えるにはトレイルブレイザー(開拓者)の精神が欠かせない。大義に挑もう、早くやってみようって思えた」

 2004年、東北楽天ゴールデンイーグルスで、プロ野球に参入。東日本大震災は、46回目の誕生日に重なった。

 「想像もできなかった事態。我々にできることは少ないかもしれない。でも、社員総動員で何でもやろうと決めた。民間のほうが小回りがきくという思いもあった。楽天市場の出店者と協力し、特定の注文については社員が直接届ける支援、イーグルスの選手による避難所の訪問も実施した。僕自身も避難所を回り、県庁を訪ねて、すぐ使えるように、お金も出した」

 20年には携帯電話事業に本格参入した。インフラ事業者としての責任が増すなか、今年1月、能登半島地震に直面した。

 「阪神大震災では出始めだった携帯が不通で、公衆電話1台に何百人も並んだ。能登では災害対応チームが総力を挙げて対応し、協力会社を含め、1日平均340人の社員が現地入りして復旧を急いだ。通信インフラが支える情報伝達は、二次、三次災害の回避に役立つ。26年には、人工衛星とスマートフォンを直接つなぎ、基地局が破損しても通信可能なサービスを始める。災害時であっても、つながる通信環境を実現したい」(高市由希帆)

  みきたに・ひろし  1965年生まれ。兵庫県出身。88年一橋大商卒、日本興業銀行入行。93年米ハーバード大で経営学修士号(MBA)を取得した。起業という夢にかけ、96年にコンサルティング会社「クリムゾングループ」を設立し、97年にエム・ディー・エム(現楽天グループ)を創業。70以上のサービスを展開するグループへと成長させた。

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