三木谷浩メモ
(以下引用)
[あの日を語る 阪神大震災30年へ]
楽天グループを創業した三木谷浩史会長兼社長(59)は阪神大震災で、大好きだった叔父と叔母を亡くした。火の手が収まらない神戸の街で目にした現実。「日本を元気にしたい。リスクを取って勝負に出る」と銀行を飛び出した。インターネット通販から携帯電話へと事業を拡大し、災害時に不可欠な通信インフラの 強靱(きょうじん) 化に挑む。
あの日、都内の日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)本店で早朝から会議をしていた。午前8時ごろ、内線が鳴った。電話の向こう側で、同じ神戸出身の同僚が叫んでいた。「テレビを見てるか。大変なことになってるぞ」。倒壊した阪神高速の映像が飛び込んできた。
「地震は東京で起きるもの、関西にはないものだと思い込んでいた。1年に1回あれば話題になるぐらい。当時の関西は地震に対して、ノーケアだったと思う。上空からの映像はまるで焼け野原で、声を失った」
兵庫県明石市に住む両親の無事はすぐに確認できたが、テレビで流れた犠牲者リストに神戸市須磨区に住む叔父・叔母の名前を見つけた。ソフトバンク(現ソフトバンクグループ)の孫正義氏に同行する米国出張を翌日に控えていた。大きなビジネスチャンスだったが、迷うことなくキャンセルし、神戸を目指した。
「つてをたどって何とか飛行機で岡山にたどり着いた。そこから電車で向かい、途中から歩いた。たどり着いた叔母夫婦の居宅は太いはりが落ち、完全にぺちゃんこの状態だった」
母と叔母は仲良し姉妹。戦前、ニューヨークに一緒に旅し、第2次世界大戦の開戦で、上海から夜行列車を使い、慌てて帰国した話を聞いたこともある。かわいがってもらった記憶しかなく、自転車で2人乗りした思い出も鮮明だ。叔父とはよくキャッチボールをした。本当に大切で、大好きな人たちだった。
「区の施設に遺体を確認しに行った。ひつぎに入った叔母がすぐに見つかった。ところが、叔父がなかなか見つからない。ひつぎには限りがあり、結局、毛布で包まれた状態で対面となった。悲しいのはもちろんだが、『何と人生ははかないのか。死ぬことを怖がっていても仕方ないな』と痛感した」
1990年代初頭、興銀は日本企業のトップオブトップだった。競争を勝ち抜き、米ハーバード大に留学。エリートらの起業にかける思いに刺激を受けた。
「 僭越(せんえつ) かもしれないが、エリートサラリーマンがリスクを取って勝負に出る。そうすることで、日本や日本の産業を変えられるんじゃないか。自然とそう考えるようになっていた」
新しい産業を作るには、新しい枠組みと、新しい企業が必要になる。95年11月に興銀を退職し、97年に楽天の前身となる会社を設立した。インターネット 黎明(れいめい) 期に開設した通販サイト「楽天市場」は急成長を果たす。
「職場環境も、給料も良かったし、銀行を飛び出ることにちゅうちょもあった。けれど、もっと大切なことがあるんじゃないか。震災で多くの死を目にして経験し、言い方は悪いが、『俺の人生なんてたいしたことねえや』と脳のモードが変わった。社会を変えるにはトレイルブレイザー(開拓者)の精神が欠かせない。大義に挑もう、早くやってみようって思えた」
2004年、東北楽天ゴールデンイーグルスで、プロ野球に参入。東日本大震災は、46回目の誕生日に重なった。
「想像もできなかった事態。我々にできることは少ないかもしれない。でも、社員総動員で何でもやろうと決めた。民間のほうが小回りがきくという思いもあった。楽天市場の出店者と協力し、特定の注文については社員が直接届ける支援、イーグルスの選手による避難所の訪問も実施した。僕自身も避難所を回り、県庁を訪ねて、すぐ使えるように、お金も出した」
20年には携帯電話事業に本格参入した。インフラ事業者としての責任が増すなか、今年1月、能登半島地震に直面した。
「阪神大震災では出始めだった携帯が不通で、公衆電話1台に何百人も並んだ。能登では災害対応チームが総力を挙げて対応し、協力会社を含め、1日平均340人の社員が現地入りして復旧を急いだ。通信インフラが支える情報伝達は、二次、三次災害の回避に役立つ。26年には、人工衛星とスマートフォンを直接つなぎ、基地局が破損しても通信可能なサービスを始める。災害時であっても、つながる通信環境を実現したい」(高市由希帆)
みきたに・ひろし 1965年生まれ。兵庫県出身。88年一橋大商卒、日本興業銀行入行。93年米ハーバード大で経営学修士号(MBA)を取得した。起業という夢にかけ、96年にコンサルティング会社「クリムゾングループ」を設立し、97年にエム・ディー・エム(現楽天グループ)を創業。70以上のサービスを展開するグループへと成長させた。