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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「野生の思考」と「栽培思考」

名前だけ知っていて内容を知らない概念である、レヴィ・ストロースの「野生の思考」概念だが、それと対比される「栽培思考」(対比するなら「文明的思考」とすべきだと思うが。つまり、「カリティヴェート」は栽培ではなく「文化」だろう。)の解説がされている小文を載せておく。
どちらも今一つピンと来ない概念である。これが当時大きな衝撃を識者に与えたのが信じがたい。まあ、名前が悪いと思う。

(以下引用)

「レヴィ=ストロースという名前を一度は聞いたことがある」という人は、おそらく少なくないだろう。人文知に関心のあるものであれば、彼が「構造主義」を広め、西欧社会の自文化中心主義に対して警鐘を鳴らしたことも知っているかもしれない。とはいえ彼の著作をしっかり読んだことがある人は、ひょっとするとかなり珍しいのではないか。というのも読み進めていくためには、西洋思想史の理解はもちろん、他文化に対する豊かな想像力も求められるからである。だがたとえ苦労してでも、彼の著作を読む価値は大きい。

なかでも本書『野生の思考』は、「戦後思想史最大の転換をひきおこした」とされる代表作だ。本書の主題は、「文明人の思考と未開人の思考は異なる」という幻想の解体である。「未開人」の特徴として考えられた呪術的・神話的思考は、実のところ「文明人」も日常的に行なっていることを、レヴィ=ストロースは指摘した。文化によって思考が異なるのではなく、単に人間には2つの思考モードがあるだけ――すなわち、限られた目的に即して効率を上げるための「栽培思考」と、ありあわせの道具で多種多様の仕事をこなす「野生の思考」があるというわけである。

こうしたテーゼをもとに、レヴィ=ストロースは「構造主義」と呼ばれる理論を紡ぎ出し、当時メインストリームであった進歩史観的な考え方に対して、「どの文化も根本的な構造は変わらず、あらわれ方が異なるだけ」と真っ向から立ち向かっていく。そしてそれが単なる蛮勇でなかったことは、奇しくも「歴史」が証明しているのである。

(追記)大澤真幸の解説も載せる。こちらもピンと来ない説明だ。

大澤真幸が読む

 『野生の思考』は、西洋の自民族中心主義に対する自己批判の書である。私たちは、科学を生み出した西洋の知が最も進んでいて、他は遅れた未熟な思考だと考えがちだ。しかし本書でレヴィ=ストロースは、「未開人」の呪術的思考(具体の論理)は洗練された知的操作を含んでおり、「文明人」もまた日常の思考や芸術的活動では、同じ「野生の思考」に依拠しているということを証明してみせた。

 野生の思考は「器用仕事(ブリコラージュ)」に喩(たと)えられている。素人でも日曜大工等で、ありあわせの道具と材料を使い、それなりの物を作る。これと似て、例えばトーテミズムと呼ばれてきたものは、目の前の自然種を(隠喩や換喩によって)社会集団に対応づけながら、自然と人間とを同時に、巧みに分類している。

 野生の思考は、分類のための分析理性だけではなく、弁証法的理性も備えている。弁証法的理性とはこの場合、自然の全体性を自然と文化に分割したことから生ずる矛盾をどう解決するか、ということへの答えである。本書によれば、神話や儀礼はまさにその答えだ。これは、未開社会は弁証法的理性を持たない、としたサルトルへの批判だ。思想界に君臨していたサルトルは、本書によってその地位から引き摺(ず)り下ろされた。

 野生の思考を駆り立てている要素は何か。それは「記号」である。自然の具体物は記号のように見えている。こう洞察する際、本書では、「記号」と「概念」とが対比されている。一義的に定義される抽象的な概念と違って、記号の意味は本質的に曖昧(あいまい)で揺らぎがある。

 つまり、自然物は、自分が何であるかを自分では十全には決定できない無力さを、さらけ出しているように見えるのだ。自然物は、私を規定してくださいと訴えかけている。野生の思考はその訴えに触発されている。自然と対決し、自然を栽培しようとした科学的思考に対して、自然の脆弱(ぜいじゃく)さを受け入れ、自然と共存する思考がある。それが野生の思考だ。=朝日新聞2020年2月1日掲載




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