雨が降った時に、地面から上がってくるあの匂い!「呼び名があったのか」・「ステキすぎる」
あの匂いに名前があったんだ!好きです!地面から漂うあの香り!
呼び名があったことに感激!雨が降った時に、地面から上がってくるあの匂い!
ペトリコール。ギリシャ語で石のエッセンスを意味する。
なんてオシャレな!ステキすぎます…
青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳
今日のさんま御殿。坂上忍が「恋人が洗い物をしないので仕方なく自分が洗う事があるけど、彼女がそれに気が付かないと嫌。ありがとうは言って欲しい。」みたいな話をした後、話を振られた広末涼子が「うちは『お礼言わなくていいよ。お礼言うなんて特別な事したみたいじゃない。』って言われます。」と
年を取ると、なぜ何事にも熱中できなくなるのだろうか。
食欲も性欲も知識欲も名誉欲も、あらゆる欲が無くなる。欲が無いから何事にも関心が無くなる。ほとんど、死の準備である。生きながらの死。
実は、年を取って仕事をやめたら、小説など思う存分書いてみたい、とか、かつて興味を惹かれた趣味的な事などをやってみたいと思っていたが、少しでも根気が要るような作業は、すぐに飽きてしまう。創作的なことだけでなく、若いころは音楽を聴くのも本を読むのもあれほど好きだったのに、音楽もほとんど聴かず、本もほとんど読めない。時間ができればいつか読んでみたいと思っていた大長編小説など、ほとんど読む気も起らない。
毎日のように、RPGばかりやっているが、それも完遂する意欲など無い。レベル上げが面白いから、序盤戦だけ延々とやっていて、それで一日の大半の時間が過ぎるのだからあきれたものだ。養老院の爺婆のほうがはるかに活動的だろう。かと言って、外に出るのも億劫だ。
しなければならない仕事が無い、あるいは義務的な計画や予定が無い、というのは「完全な自由」を得た、ということだが、その自由の結果が、完全な空白である、というのは予想外だった。
かと言って、自分で自分に何かを義務づけるというのも馬鹿馬鹿しいような気もする。つまり、後数年で死ぬのは確かだろうから、遊ぶ以外のことでその時間を費やすのは、どうも馬鹿げた行為のように思うのである。黒沢明の「生きる」のように、ささやかだが社会に役立つ仕事を完成して死んでいく、というのも悪くはないが、それもまた「空にして風を捕うるがごとし」だ。
ささやかどころか、どんな偉大な業績を残しても、同じことだ、とも思う。
仕事や業績というのが、その人の人生の評価基準になるとは思わない。
遊び暮らして、馬鹿な死に方をするDQNの人生が、偉大な芸術的作品を残した、たとえばバッハやモーツァルトの人生より無意義だとも思わない。いや、「意義」という点からは無意義だが、生きる点においては、1匹のワラジムシの生と他の1匹のワラジムシの生に価値の違いは無い、ということだ。どちらかと言えば、むしろ遊び暮らして満足して死んでいくほうが、努力と勤労の生涯を送って、人類の偉大な財産を生み出した人間の生よりマシではないか、とすら思う。そうした人類のレガシーのおかげで後世の人間は素晴らしい文化を享受できるのだが、それを作った人間自体は既に死んでいるわけだ。墓の石の下で、満足しているかどうか。