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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「自閉スペクトラム症」と自閉症


ところで、「スペクトラム」って何? 下の記事も、これは説明していない。
一応英語辞書を引くと、「領域、範囲」の意味だが、プリズムで分光された光線の色彩範囲をも言うようで、要するに、「症候群(シンドローム)」と同じだろう。
つまり、「自閉スペクトラム症」というのは誤りで、「自閉症スペクトラム」と言うべきだろう。

自閉スペクトラム症と自閉症の違いなど

自閉症スペクトラム症と自閉症の違い自閉スペクトラム症は従来、自閉症、アスペルガー障害、広汎性発達障害などと呼ばれていた疾患を含む疾患概念になります。 家庭、学校、職場などで人と接する際に社会性やコミュニケーションの難しさが生じたり、特定の関心事に強いこだわりを見せるという特徴を持った発達障害です。
どのような特徴が、どれくらい強く現れるかは、個人によって異なります。すべての症例に差が見られると言えます。五感のうちのいずれかが過敏になったり、あるいは逆に鈍感になったりという症状もあります。 最近の研究では100人に1人を超える有病率が報告されており、男性の方が女性の数倍多いと言われています。

自閉スペクトラムの原因

さまざまな遺伝的要因が複雑に絡み合って起こる、脳の機能障害が原因だと言われています。
これは生まれつきのものですので、育て方や環境が原因となることはありません。

自閉スペクトラムの症状と特徴

自閉症スペクトラム症と自閉症の違い自閉スペクトラム症は以前では社会性の障害、コミュニケーションの障害、反復した常同的行動といった3つの症状が良く知られていましたが、DSM-5という新しい診断基準になり言語性コミュニケーション障害と社会相互交流の障害がひとまとめになりました。

すなわち自閉スペクトラム症の症状としては
①社会的コミュニケーションの障害
②限局的反復的な行動パターン が挙げられます。
では以下に症状の具体的な例を見ていきましょう。

①社会的コミュニケーションの障害

  • 相手との適切な距離感がわからない
  • 話がうまくかみ合わない
  • 興味や感情の共有が難しい
  • 人の表情や話し方から感情を読み取ることが苦手
  • 言葉の理解や使い方、イントネーションが独特
  • 人の気持ちを察して話したり行動することが難しい
  • 集団行動が苦手
  • 暗黙のルールを理解できない
  • 皮肉や冗談が理解できない

②限局的反復的な行動パターン

  • 何かに没頭するとまわりが見えなくなる
  • 物事の手順に強いこだわりがある
  • 些細なことが気になって作業が進行しない
  • 音、光、人との接触、においなどに対して敏感

自閉スペクトラム症の診断

診断基準(DSM-5:「精神疾患の診断・統計マニュアル 第5版」)や(ICD-10:「国際疾病分類第10版」)などをもとに症状や生活の中の困りごとなどを確認し総合的な診断へとつなげます。
また発達障害の診断には生育歴などの情報も重要になってくるため、ご家族と一緒に来院いただいたり、通知表など幼少期の様子が分かるものがあると診断に役立ちます。
また心理検査なども併せて実施することで特性や得意不得意を理解しその後の支援に生かしていくことができます。
また大人になって自閉スペクトラム症と診断されるケースはそれまで集団内での問題を回避できていたが、不安障害やうつ病などの合併症や職場での不適応を原因で来院されるケースも多いため他の精神疾患のベースに自閉スペクトラム症がないかを考えていくことが重要になってきます。

自閉スペクトラム症の治療法、処方薬は?

自閉症スペクトラム症の処方薬自閉スペクトラム症の症状は先天的なものであり根本的な治療は存在しません。
しかしながら特性を理解し適切な対応や環境調整を実施することで生活上の困りごとを改善していくことができます。
具体的にはまずは自身の得意苦手を知っていくことで対処法を考えていく、配偶者や職場の上司など身近な人に診断を伝えることにより配慮をお願いするなどです。
患者様ごとにケースバイケースな部分も多いので気軽にご相談頂ければと思います。
また自閉症スペクトラム症により社会生活において困難があり、うつ病や不安障害などの二次障害を発症している場合にはその障害に対する治療薬を処方します。
また上記と併せて精神障害者保健福祉手帳などの公的な支援を利用することも検討できますのでご相談ください。

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脚絆(ゲートル)

最近は「スパッツ」が別の意味で使われるようだが、少し前の西洋の小説に出てくるスパッツは、靴に巻くスパッツであることが多い。軍隊以外では、実用品というより、一種のお洒落でもあったようだ。ギャングの服装の描写に出ることが多かった。レギンスも、現代のファッションでは違う意味のような気がするが、よくは知らない。



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アメリカ軍のレギンス型脚絆。2008年開催の歴史再現イベントにおける撮影。

脚絆(きゃはん。脚半とも[1][2])とは、の部分に巻くでできた被服[3]ゲートルguêtre)とも。

概要

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活動時に脛を保護し、障害物にからまったりしないようズボンの裾を押さえ、また長時間の歩行時には下肢を締めつけて鬱血を防ぎ脚の疲労を軽減する等の目的がある。日本では江戸時代から広く使用されるが[4]、元となった脛巾(はばき)自体はそれ以前から(武家・庶民共に)見られる[5][6]。現在でも裾を引っ掛けることに起因する事故を防いだり、足首や足の甲への受傷を防ぐ目的で着用を義務付けている職場があり、作業服などを扱う店で販売されている。

日本の伝統型脚絆

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江戸脚絆
大津脚絆
上下に結び紐を付したタイプ。
江戸脚絆
上部に紐を、背部にコハゼを付したタイプ。
筒型脚絆
円筒形に縫い、上部に紐を付したタイプ。

西洋型脚絆

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レギンス(スパッツ型、短ゲートル)

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フランス軍のレギンス型半脚絆

いわゆるレギンス型とは面積のある1枚ものの布または軟革をバックルやボタン、バンドなどで固定するもの。足の甲を覆う形状のレギンスでは、靴の土踏まずに掛けるベルトを備える場合がある。世界の軍隊の装備としては第二次世界大戦頃までは後述の巻脚絆と共に双璧をなしていたが、戦後は編上げ式の半長靴の普及によってとって代わられ、儀礼的な軍装品としてのみ形を残している。民間においては、溶接業、製鉄などの金属工業機械工業などの職業分野で、足首と足の甲を保護するために多用されており、面ファスナーで固定する製品もある。

脛全体ではなく、踝辺りのみを巻く小振りのレギンスは「短ゲートル(半脚絆)」などと言われる。また、硬革の脛当てである「革脚絆」は、主に乗馬長靴の代わりとして用いられた。

時代劇の「足元」問題

時代劇映画ではっきりしないのは、侍が切り合いをする時に、下駄や草履を履いているのかどうかである。実際には、果し合いの前に草履や下駄を脱ぎ、草履なら懐に入れるか下駄ならどこかに置いてから果し合いをしたと想像できる。つまり「足袋はだし」である。草履や下駄を履いて跳んだりはねたりできないのは自明だからだ。草履の鼻緒など、いっぺんで切れるだろう。
なお、「跳んだり跳ねたり」は時代劇映画の話のことで、実際には跳んだり跳ねたりもほとんどしなかったと思う。跳んだら、次の位置は決まっているから、そこを打てばいい。跳ねるのも同様だ。
宮本武蔵の「五輪の書」のポイントはただ、「刀を振ることに慣れろ」に尽きるかと思う。素人は重い刀を自在に振ることは不可能だからだ。それを自分の思う軌道で動かすようになるのが剣術のアルファでありオメガだろう。

(以下引用)


第109回 足袋(たび)は贅沢品だった

 春たけなわである。そろそろ女性の足元も軽やかになる季節であろう。
 江戸時代は、靴下ではなく足袋(たび)を履(は)いていたが、それはもっぱら寒さしのぎの場合であって、庶民は病気でないかぎり裸足(はだし)の生活が日常だった。足袋は贅沢(ぜいたく)な履物で、多くの人々は裸足で下駄(げた)や草履(ぞうり)などを履いていたし、裸足で外を歩くことも珍しくなかった。
 明治34年(1901)5月29日、警視庁は裸足禁止令を出しているが、ペストの流行を危惧(きぐ)し、衛生を考えた上でのことである。明治時代になっても東京の街中を裸足で歩く者がそれほどいたということがわかる。
 江戸時代の絵を見ると、振り売り(行商人)などは裸足で街中を売り歩いている。もっとも、ガラスがなく、金属片もほとんどなかった時代だけにケガをするということもなかったろう。私は、まだグラウンドにガラスの破片などがあまりなかった昭和30年前後の頃、小学生時代に運動会でズックを履かずに運動足袋と称するものを履いて走った記憶があるけれど、今のランニングシューズより軽く便利だった。
 井原西鶴(いはらさいかく)の浮世草子(うきよぞうし)を読むと、老婆が革足袋を履いているというのは、ケチで流行遅れのものを大切に使っているということで出てくる。布製でなく革製の足袋は確かに長持ちするだろう。おそらく戦国時代などでは戦陣で戦うのに足元をしっかりさせるために革足袋を履いていて、その遺風が江戸時代にも残っていたということであろう。
 年寄りが冬場から春先にかけて寒さしのぎに足袋を履くことは江戸時代もあった。江戸城へ登城する年寄りの幕臣たちは、願い書を出して足袋の着用が許されている。だが、若い幕臣たちは裸足が原則だった。寒い冬の日、廊下を裸足で歩くというのは冷たくて大変だったろうと思うが、いざという時、足袋を履いてるために廊下を滑っていたのでは、武士の本分である剣術を全うできないと考えていたものだろう。
 平賀源内(ひらがげんない)の本草学(ほんぞうがく)の師匠でもある本草学者で医師でもあった田村藍水(らんすい)の息子で幕府医官を勤めた田村元長(げんちょう)は、天明4年(1784)3月、足痛のため夏冷えするので、登城の折には足袋の着用を許可していただきたいと願書を幕府に出している。元長が46歳の時のことで、幕府に許され、毎年のように出していたようでもある。
 時代劇などでは、江戸城で武士たちは足袋を履いて動き回っているが、正式な儀式で礼服を着用するとき以外は裸足が原則で、江戸城内にあっては足袋は老体になって許可された者だけが履くものであった。
 江戸の足袋屋は、寒い季節が商売繁盛で、足袋の形をした看板を掲げていた。分かりやすくて人々の目にとまりやすかったろう。その店先では、それぞれの大きさの足袋を箱の中にまとめて入れてあって客に選ばせた。これは乱暴な売り方のようだけれども、左右の足の大きさが違うことはよくあることで、足にフィットしたものを客に自由に選んで買ってもらうわけなのである。一見してズボラな商売をしているようだが、左右の足の大きさが違う客もいるわけだから、無駄のない実に合理的な販売方法といえた。




シャレードの謎

大昔にオードリー・ヘップバーンの映画「シャレード」を見た時以来、この「シャレード」という英語の意味が分からず、今、その疑問を思い出したので、調べてみた。
確か日産だったか、車名に付けていたと思うが、車名としては変な命名である。
私自身は「シャレード」と「シャドウ」が似ているな、と思うだけで、どういう意味かは知らなかったし、調べることもできなかった。まあ、英語の綴りを当てずっぽうで調べればよかっただけの話である。


(以下引用)

シャレード

英語 Charade

シャレードとはなぞ解きのこと。

「うるま」の語源と意味

沖縄の人間のほとんどは「うるま」の語源も意味も知らず、一部の「沖縄知識人」の立てた妄説を信じ込んでいると思う。
私は沖縄生まれの沖縄県民だが、沖縄人のこうした「自画自賛主義」、過度な「郷土誇り」は欠点だと思っている。自惚れは自足となり、発展の障害となるからである。
ウィキペディアの下の記述は大略は正しいと思うが「ウルルンド」が「ウルマ」になったというのは音韻変化的に無理があると思う。「ルンド」が「マ」になるはずはない。

文献上は宗碩連歌用語辞典『藻塩草』(1513年頃)に「宇留間島(非日本か一説をきなふを云と)」とあるのが最古である

というのが、「うるま」だけでなく「沖縄(をきなふ)」の語源としても信頼性が高いのではないか。もちろん、「りうきう(琉球)」のほうが一般的だったと思う。むしろ「りうきう」の語源が何かが気になる。私としては「龍宮(りゅうぐう)」の漢字を「りゅうきゅう」と呼んだという説を立てたい。海のかなたの神秘の国、ということだ。それが「琉球」という漢字だとまったく意味不明で魅力もない。「をきなふ」に「沖縄」の漢字を当てるのも愚劣である。「なふ(発音は「のう」)」が「縄」にはならないだろう。もっとも「のう」と読める漢字にはロクなのが無いから「沖のふ」として、「ふ」に何かの漢字を当てるのはどうか。「府」はどうか。あるいは「浮」でも「布」でもいいが「縄」よりはマシかと思う。「沖之布県」は、語呂が悪いか。まあ、「龍宮県」が一番だろう。おっと、「自画自賛主義」になってしまったww

(以下引用)

うるまの島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

うるまの島(うるまのしま、うるま)は、沖縄県雅称宇流麻とも当て字される。

概要

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「島の名」としての用語の初出は、平安時代の歌人藤原公任千載集に載せられた歌、「おぼつかなうるまの島の人なれやわが言の葉を知らず顔なる(心もとないことだ。うるまの島の人だからだろうか、わたしの贈った和歌に知らぬ顔をしているのは)」とされる。

この場合「うるまの島の人のここに放たれて来てここの人の物言ふを聞きも知らでなんあるといふ頃返事せぬ女に遣はしける(うるまの島の人が日本に漂流してきて、日本人の言葉を聞いてもわからないでいるという評判の頃に、返歌をしない女に送った歌)」と前書されてあり、ここでの「うるま」が朝鮮半島鬱陵島(ウルルンド)であることは、すでに明治時代中期には佐々木弘綱佐佐木信綱父子が朝鮮半島の属島と明記し[1]、後述の古典籍の記述からも、古典文学、和歌研究者の間での定説となっている。

大日本史』(巻234)[2]によれば、【藤原行成の『権記』に寛弘元年(1004年高麗人の因幡漂着が記述され、『本朝麗藻』によれば食料を与え帰国させたとあり、この漂流者は『大納言公任集』によれば新羅宇流麻島人で、『東国通鑑』では芋陵島人である(本朝麗藻では「迂陵島」)】と記述されている。日本語の通用しない相手としての「うるま」としては、同じく平安時代の『狭衣物語』にも「こはいかにとよ うるまの島の人とも覚え侍るかな(どうしたものか、言葉の通じないうるまの島の人のようにこちらの心が通じない)」と使われている。

『千載集』(1188年)に採択される前に編纂された私家版の『公任集』(1041年頃)の詞書(前書)には「しらぎのうるまの島の人」とあるものが、千載集では国名が省略されてしまったため、これが後に何処とも知れぬ辺境の異邦人の島の代名詞となり、異郷の島の呼び名となった。

なお、「うるま」の言葉自体は藤原仲文の歌、「ゆきかよひ定めがたさは旅人の心うるまのわたりなりけり」が初めとされるが[3]、こちらは美濃の宇留間(岐阜県各務原市鵜沼)のことである[4] 。

室町時代には、当時の琉球国室町幕府に遣使し本土との交易を行ったころから、辺境の島としての「うるま」が沖縄を指すようになった。文献上は宗碩連歌用語辞典『藻塩草』(1513年頃)に「宇留間島(非日本か一説をきなふを云と)」とあるのが最古である[5]安土桃山時代里村紹巴が『狭衣物語』の注釈書『下紐』に「琉球をうるまの島と云と也」と書いてこれが定着したものと考えられ、江戸時代前期に成立した和歌用語辞典『和歌呉竹集』には「うるまのしま国 又うるまの国ともいふ 琉球国の事也」と明記されている。連歌用語辞書『匠材集』(1597年)では「うるまの國 りうきうなり」、「うるまのしま えそか嶋也」と沖縄と北海道が並べられ、「言葉の通じない異郷の地」の意味合いで「うるま」という名は認識されていた。

琉球側文献では、古語も多く含まれる古歌謡集『おもろさうし』(1623年)にも「うるま」の記述はない。17世紀末に識名盛命(唐名は毛起龍)が和文体の紀行文『思出草』(1700年)に薩摩と日本本土での琉球の別称として記したことから、琉球人の間でも知られるようになったが、知識人以外の一般への定着はならなかった。

もっとも、江戸時代中から「うるま」と琉球国の関係については疑問が呈されており、『古事類苑』に引用される嘉永3年(1850年)の山崎美成『琉球入貢紀略』では、『下紐』の記述からそう言われているが「うるまは新羅(今の朝鮮なり)の属島にして琉球にはあらず」「うるまは迂陵の韓音なりといへり」と断言されている。

海外においては李氏朝鮮の『海東諸国紀』(1501年)や、中国明朝清朝冊封使が遺した『使琉球録』各書などに当時の単語・会話文が収集されているが、それらの中でも「うるま」に該当する言及は無い。ようやく『琉球説略』(1877年)に「琉球古云宇留間島 起於日本西海道薩摩国之南百四十里海中」とあるが、すでに明治政府により日清修好条規が結ばれ、日本国内の情報も広まった段階であった。

20世紀に入り、大正時代以降に本土の文人が沖縄の美称として「うるま」と呼ぶようになったことから、沖縄県民の間にも広がるようになる。昭和10年(1935年)には明仁親王の乗馬として宮古馬が選定され、右流間(うるま)と名付けられた。戦後は煙草の銘柄としてうるまが販売され、逆に本土でも沖縄の雅称として有名となり、県民の間にも名称が定着して、ついには地方自治体としてうるま市が誕生する次第となった。

近年は「うるま」の語源は沖縄方言で「珊瑚の島」(「ウル(珊瑚)」「マ(島)」)とされるが、民間語源に過ぎない。

沖縄方言語源説は波照間島の名の由来としての「ハテウルマ」説から始まっている。笹森儀助の『南嶋探験』に「極南端ニアル波照間島ノ義ハ「ハテウルマ」の転語ニシテ古ヨリ我カ国境タルコト其名称ニ依テ明也云々右西氏ノ物語ナリ」とあり、明治26年(1893年)に西常央長崎県出身、明治中期に八重山役所長や首里役所長)が提唱したのが端緒とされる[6]

「ハテウルマ」が沖縄古語であるとの前提でそのままこの説が取り入れられ、柳田国男は『海南小記』で「波照間の島はすなわちハテウルマで、うるまの島々の南の果て、の意味であろうということだ」とし、宮良當壯は『南島叢考』で「『ウル』は海石(珊瑚石)或いはその砕けた砂礫をいい『マ』は島の『マ』と同じく場所を表すのであろうと思われるから、ハテウルマは日本の端の砂礫からなる島と云う意味であろう」としていた。

現状の語源説では「ウル」は珊瑚の意味ということが独り歩きしているが、宮良が指摘するように沖縄方言での「ウル」は本来(珊瑚の砕けた)粗砂を意味し、「シマ」が「マ」に変化したという点も言語学上の変遷の根拠に欠ける。また、この「うるま沖縄方言説」は戦前より、伊波普猷東恩納寛惇らによる本土・沖縄の古典記述を元にした論考で批判を受けていた。

現在「うるま」は沖縄の歴史と文化の独自性を表す言葉として多用されているが、結果として本土の文化との強いつながりを示すこととなった。

参考文献

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脚注

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  1. ^ 佐々木弘綱佐佐木信綱『日本歌学全書 第三編』博文館1890年「志らきは新羅にて三韓の一つの国なり そこにあるうるまの島人の物いひの聞知かたきをたとへにいへるなり 此歌千載集恋一に入て四の句わがことの葉をとあり」
  2. ^ 訳文大日本史5(後楽書院、明治45年)P.674, NDLJP:771746.
  3. ^ 『仲文集』(992年頃)藤原仲文「(前書)美濃国のうるまのわたりにて ゆきかよいさだめがたきは~」、『後拾遺集』(1087年源重之「あづまじにここをうるまということはゆきかふ人のあればなりけり」。仲文と重之は同時代の人であるが、私家集の公開時期から先になる。
  4. ^ 鵜沼宿鵜沼の渡し(うぬまのわたし、うるまのわたり)は木曽川渡し船。後世、歌枕の一つのような扱いがなされている。
  5. ^ 島村幸一, 小此木敏明, 屋良健一郎, 綱川恵美「「琉球文学」資料注釈4『浮縄雅文集』上 蕉雨亭」『立正大学人文科学研究所年報』第55号、立正大学人文科学研究所、2018年3月、45-76頁、CRID 1050011550986875264hdl:11266/00011328ISSN 03899535
  6. ^ 末次智「沖縄の西常央:近代的沖縄研究への架け橋として」(PDF)『京都精華大学紀要』第36号、京都精華大学、2010年、87-108頁、CRID 1520853833737107072ISSN 09173986。「含 英語文要旨」