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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

現代倫理学概論 #3 法と倫理の起源

人類は、発生初期には、動物的状態の精神であり、法も倫理も存在しなかったのは明らかなことだと思われるが、その状態が何万年続いたかどうかは別として、次第に、集団内の規律、法、倫理というものが発生してきたはずだ。
規律は、たとえば狩りにおけるリーダーの存在を決めることやリーダーへの服従の規律である。
倫理は、「所有」の概念から生まれたと想像できる。つまり、狩りで得た獲物を分配する場合に、誰がどれだけ得るか、また、得たものの「所有権」の尊重などだろう。雌の所有も同様だと思われる。原始時代には雌は有力な雄の所有物であったことは、動物界と変わらないだろう。
そうした規律が罰則を伴うようになるのとほとんど同時に、「罪」の概念と「法」の概念が発生しただろう。つまり、個々の出来事に対していちいち衆議やリーダーの熟考などを要せず、「法」に照して即座に罰するという「合理化」が進んできたわけである。これは規律の「ロボット化」であり、「自動処理システム」である。
と同時に、たとえば、力のある者は、自らの所有物を長い間無事に守りたい、と思うようになり、その意思を「法」の中に入れることを思い付くのは必然である。特に、農業が発生し、収穫物の貯蔵が可能になると、「富」の偏りが発生し始めるわけで、そうなると、力のある者は自らの富の保全に意を用いるようになる。敵は外部だけではなく、集団の内部、特に下位グループにもいるわけだ。しかし、そこに「法」を押し立てることで、「法には従わざるべからず」という自動規制が働き、非常に財産保全が楽になる。

法も倫理も人間集団内の規律維持であるのは確かだが、それが「公正」であるかどうかは、起源的に言えば、必要条件ではなく、「公正に見える」だけで十分だっただろう。いや、公正でなくても、「法である」というだけで人々の大半を従わせる力はあっただろうし、その背後には「暴力装置」が存在したのは、その後の時代で警察や軍隊の存在が法の維持に必要であるのと変わりはない。

そこで、再び「愛と性の倫理」を考えたいわけだが、愛や性に倫理があるとすれば、その根拠は何なのだろうか。そして、はたして女性は愛や性に倫理が存在すると思っているだろうか。ここが私の疑問に思うところで、実は愛や性に限らず、女性に倫理感や倫理尊重の念があるのかどうか、私は疑問に思っており、それも、べつに否定的な意味でそう言っているわけではなく、先の倫理の発生に見られるような倫理のいかがわしさ、不自然さ、根拠の無さというものを無意識的に認知しているのではないか、と思うわけである。
もちろん、倫理が存在しなければ、この世界は美的に堕落する、と私は思っている。倫理とは「行動の美」であり、虚構ではあるが美しい虚構だと私は思っているからだ。つまり、「神が存在しなければ作る必要がある」という有名な言葉における「神」に「倫理」は似ている。「美しい嘘」は嘘だからといって不要になるだろうか、という話なのである。





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現代倫理学概論 #2 愛と性の倫理


序文に書いたように、この一文は宮本常一の「土佐源氏」に触発されて書き始めたのだが、厳密に言うと、その一節に強い刺激を受けたのである。それは、こういう言葉だ。


「どんな女でも、やさしゅうすればみんなゆるすもんぞな。」「男ちう男はわしを信用していなかったがのう。どういうもんか女だけはわしのいいなりになった。」「わしにもようわからん。男がみんな女を粗末にするんじゃろうのう。それですこしでもやさしうすると、女はついてくる気になるんじゃろう。」

題名から分かるとおり、これは土佐の「光源氏」とも言うべき男の生涯を、女出入りを中心に聞き書きしたものだが、その男は、かつての時代の賤民とも言うべき馬喰である。しかし、そういう仕事の男でも、あらゆる場所であらゆる女が彼を相手にしてセックスをした、という事実が、私に「貞操観念」とは何か、という疑問を抱かせ、そこから倫理全体を根本的に見直すというテーマが生じてきたのである。

「どんな女でも、やさしゅうすればみんなゆるすもんぞな」

という言葉は、女性についての私の乏しい知見に合致するものである。いや、私自身は、結婚した以上は厳しい守操義務があり、それを守らないなら結婚する意味は無い、という考えなので、一度も浮気をしたことはないし、女房もたぶん浮気をしたことはないと思うが、世の中のあらゆる事件を概観する限り、女性には本来貞操観念は無い、と結論するのが妥当ではないかと思う。
つまり、夫婦間あるいは恋人間に守操義務がある、と思っているのは男だけではないか、ということだ。あるいは、現代の若い人なら、男でも、そういう観念を持たない人間も多いのかもしれない。つまり、貞操とか貞潔というのは、滅び去った倫理である可能性は高いのだが、では、それは無意味な観念なのか、ということを改めて考えてみたい。

たとえば、自分の愛する相手が、自分の目の前で他の男(あるいは女)とセックスをする光景をあなたは何の苦痛もなしに見ていられるだろうか。そこに苦痛があるとすれば、誰かを愛するということは、必然的に相手を自分だけのものとしたいという気持ちを伴うのではないか。その独占欲は、貞操という観念の母体である。自分の愛する相手を他の男(他の女)と平気で共有できる、というのは、それは果たして愛なのだろうか。
もちろん、結婚における守操義務は、お互いの愛情なぞは前提としていない。愛情が無くなったから浮気をしてもいい、というのは、結婚制度自体の無意味化である。
そこで、では結婚することの意味は何か、という問題が出てくる。
お互いの恋愛感情が無くなったら、結婚する意味も無くなる、というのはアメリカ的な幼稚かつ粗雑な考えであり、その結果が両親の離婚による不幸な子供の大量生産である。
かと言って、完全に愛情を失い、むしろお互いに憎悪の感情すら持っている夫婦がただ義務や世間体だけのために夫婦であり続けるというのも不幸な人生だろう。

以上のようなことを土台として、愛と性と結婚の「現代倫理」をもう少し考察してみたい。

現代倫理学概論 #1 序文

序文


ちくま書房の「心洗われる話」の中にある宮本常一の「土佐源氏」を読んで、思うところがあったので、「現代倫理学概論」というシリーズで、倫理について考察してみることにする。
テーマは、「倫理の起源と、現代における合理的倫理」というものだ。なお、倫理は感情に由来するというヒュームの思想に私は賛成するものだが、それぞれの時代の倫理には感情だけでなく、時代や地域に合った合理性もある、とも思っている。しかし、倫理は時代にも場所にも影響されるものであり、過去の時代の倫理に縛られることで、人生の可能性を自ら狭め、つまらない生き方をする人も多いと思う。特に真面目な人や古典的文学の影響を受けた人はそうなりやすいのではないか。実は私自身がそうであり、不道徳なことは絶対にするまい、と考えて生きてきた結果、何事も成さないままで近々、死を迎えるだろうと覚悟している。
その轍を踏まないように、若い人は倫理の意味と意義、そして逆にあえて倫理から逸脱することの意味と意義を若いうちに考えてほしいというのが、この一文の意図である。もちろん、これを公表するかどうかは未定であるから、これは単なる自分自身のための「思考実験」であり「覚え書き」だ。ただ、ブログに書いておけば、書いたものが行方不明にはなっても、どこかには存在するだろうから、ブログを利用して書くのである。

なお、体系的に書くのではなく、思いつく順番(強い興味を持った問題の順番)で書いていくのは、これが草稿であるためだ。当然、書かれた内容はいずれ書き加え、整理していく予定である。




ヒュームの法則

予想通り面白い考えだが、ヒューム自身が、「なぜそう言えるか」を論理的に説明していないらしいのは残念だ。
「道徳は感情に由来する」という思想については、私も同意するが、そういう考え方をするなら、たとえば「復讐」は道徳的である、というテーゼも可能だろう。
感情から生まれ、理性の検証を経て精錬された思想やテーゼが道徳だ、と言うべきではないだろうか。つまり、「復讐することの快感と、その復讐が長期的に当人や周囲や社会に与える害悪を比較考量したら、復讐はすべきでない」という感じである。
道徳的であるとは、同時に理知的かつ合理的でもある、ということである。

しかし、「現実がそうである」ことから、現実に合致する或る(しばしば不道徳な)行為を「正しい」と見なす誤謬や誤魔化しは我々が日常的に見ることであり、ヒュームのこの異議申し立ては、「道徳や『正しさ』に関する世にありふれた初歩的誤謬」を見事に指摘していると思う。


ヒュームの法則

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ヒュームの法則(ヒュームのほうそく、Hume's law)、またはヒュームのギロチン(Hume's guillotine)とは、「~である」(is)という命題からは推論によって「~すべき」(ought)という命題は導き出せないという原理である。

概要[編集]

デイヴィッド・ヒュームは『人間本性論』第三巻第一部第一節「道徳的区別は理性から来ない」において道徳的判断は理性的推論によって導かれないことを主張した(ちなみにどうして道徳的判断をするのかについての彼の積極的な答えは感情に起因するというものである)。ヒュームの法則はその議論の一環である。しかし、それは――20世紀以降の英米のメタ倫理学における注目とは裏腹に――ヒューム自身の中心的な論点ではなく、彼の倫理学における扱いは思いのほか軽い。現にそれはその節の最後の一段落で申し訳程度に述べられているのみであり、これ以降の箇所でのヒュームの哲学倫理学の理論において言及されておらず、能動的役割を果たしてもいない。つまり、「それは先行する論点を補援し、その応用として因みに、付随的に加えられた『いささか重要な』論述にすぎない」(杖下, p.148)。

類似した事柄をG・E・ムーアも『倫理学原理』において述べており、彼はあることが自然的であることから、道徳的判断を導いたり(例えば「~するのがあたりまえである」から「だから~すべきだ」のように)、善を定義づけることは不可能であるとした。こちらは自然主義的誤謬と呼ばれている。

批判[編集]

ジョン・サールは「How to Derive 'Ought' From 'Is」において約束をするという行動はその定義のために義務の下にあり、その義務は「べき」となることを表す、と主張した。

現代の自然主義哲学者たちは「である」から「べき」の導出は可能であると見なし、それは「Aが目的Bを達成するためにAはCすべきである」(In order for A to achieve goal B, A ought to do C)という言明に分析できるとした。これならば、検証または反証されうる。しかし、目的は「べき」を暗示しており、「べき」から「べき」の導出に過ぎないとも言いうる。

一部の自然主義者は単純な倫理的な「べき」―「汝殺すことなかれ」のような信念―は人間の生物学的な衝動から自然的に出てくるのであるとし、より複雑な倫理的規則は社会の共通の利益に由来している、とする。そして任意のグループ内で如何にして社会的な規則が生まれるのかのより広い調査の発展は社会生物学の科学的な分野に属する。


自然主義的誤謬

書かれていることが今ひとつ理解できないが、哲学や倫理学の根幹に関わる議論のように見えるので、メモしておく。「メタ倫理学」というのは、そういう「倫理学の根幹を改めて問う」学問だろうかと推測する。なお、「自然主義的誤謬」という言葉自体、曖昧すぎて、批判されたのは当然だと思う。せいぜいが「哲学的うっかりミス」ではないかwww   要するに、形而上的問題の考察を形而下的存在を前提にしたりすることかと思う。もっと分かりやすい例で言えば、人間精神を論じるのに人間以外の動物の習性を前提とするようなものだ。動物は敵を殺す、だから殺人は人間の本性である、という風に。
それよりも、ここに出てくる「ゾルレン(~すべし)は、ザイン(存在するもの)からは導けない」というヒュームの法則が面白そうだが、未読である。




自然主義的誤謬

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自然主義的誤謬(しぜんしゅぎてきごびゅう)は、naturalistic fallacy の訳語である。

概要[編集]

20世紀初頭に G. E. ムーア が著書『倫理学原理』の中でこの言葉を導入した。

その後この概念は、本当に誤謬なのかどうかも含めて、多くのメタ倫理学者によって再解釈・検討され、メタ倫理学の中心課題となってきた。

ムーアの議論[編集]

ムーアによれば、自然主義的誤謬とは、「善い」(good) を何か別のものと同一視することである。

その何か別のものの内には、われわれが経験できるような対象も含まれるし、われわれが経験できないような形而上学的対象も含まれる。

「善い」を経験できるような対象(たとえば「進化を促進する」)と同一視するのが自然主義的倫理、「善い」を形而上学的対象(たとえば「神が命じている」)と同一視するのが形而上学的倫理である。

この二つの立場が共通しておかしているのが自然主義的誤謬である(『倫理学原理』p.39)。

したがって、一般の解説書によくある、「善を自然的対象と同一視するという誤り」という自然主義的誤謬の定義はムーアの本来の用法からずれている。

なぜ「善い」は定義できないのか。[編集]

ムーアは、定義とは複合概念を単純概念の組み合わせにおき直すことだとした上で、「善い」は単純概念だからこの意味での定義のしようがない、と論じる。

これは「善い」に限らず、「黄色い」でも同じことであり、「黄色い」を定義しようとする人も自然主義的誤謬と同質の誤りを犯していることになる。

自然主義的誤謬はしばしば「「である」から「べし」は導けない」というヒュームの法則と同一視されるが、これもまたムーアの意図と違っているということが「黄色い」との対比からも明らかである。

自然主義的誤謬の概念を武器に、ムーアはスペンサーの進化倫理学やジョン・スチュアート・ミルの功利主義(以上は自然主義的倫理の例)カントの倫理学(これは形而上学的倫理の例)などを批判する。

ムーア自身の立場は、「善い」は直観によってのみ捉えることができる性質である、という直観主義であった。

自然主義が「善い」と経験的対象の関係を定義的な関係だととらえ、「Xは善い」という命題が(ある種のXに対して)分析的な命題となると考えるのに対し、直観主義においては、「Xは善い」という命題は常に総合的な命題である。

ムーアに対する批判[編集]

「善い」が単純概念だから定義できない、というムーアの議論はさまざまな論者から批判されている。

  • もし単純概念だから別の単純概念の組み合わせには分解できないというだけであれば、「善い」を単一の単純概念と同一視する(「善い」は「快い」であるなど)のはかまわないはずである。(永井俊哉の議論[1]を参照)

自然主義的誤謬という言葉自体も批判され、たとえばフランケナは「定義主義的誤謬」(definist fallacy) という言葉を提案している。

また、直観主義は、直観という正体不明のものを持ち出したことで非常に評判が悪く、支持者も少なかった。

直観という語をムーアはヘンリー・シジウィックの哲学的直観にならって使っている。

この場合直観とは、中世的意味での悟性(知性)によって直接に知られるというものではなく、またカント的な意味で感性的な知覚でもなく、理性(推論能力)による吟味を経て得られたものと考えられている。

自然主義的誤謬をめぐるその後の議論[編集]

情緒主義[編集]

アルフレッド・エイヤーらの情緒主義 において自然主義的誤謬は新たな解釈をうける。価値判断を間投詞などと類比的な単なる情緒の表現だと考える。つまり、経験的なものであれ形而上学的なものであれ、何かの事実を記述するという事実命題とは、本質的に異なるタイプの判断なのである。この立場からは、自然主義的誤謬とは記述と情緒の表現というまったくことなる性質の行為を同一視しようとする誤りだということになる。

普遍的指令主義[編集]

情緒主義と異なる非認知主義の立場としてR.M.ヘアー普遍的指令主義がある。ヘアーは自然主義的誤謬にあたる言葉として、「記述主義的誤謬」(descriptivistic fallacy) という言葉を使う。ヘアーも情緒主義にならって、この誤謬の本質は記述と記述でないものを同一視することにあると考えていたが、その場合の「記述でないもの」とは、ヘアーにとっては具体的には指令 (prescription) あった。

新しい自然主義[編集]

近年のメタ倫理学においてはコーネル実在論還元主義といった自然主義の立場が復興している。これらの立場は「善い」と自然的性質が定義によって同一になるのではなく、形而上学的に同一である(水とH2Oが同一であるというのと同じ意味で同一である)と考える。つまり、彼らは確かにムーアのいう自然主義的誤謬は誤謬であると認めつつ、自然主義者は必ずしもそうした過ちを犯す必要はない、と考えるわけである。

脚注[編集]

  1. ^ 言語行為と規範倫理学(05)ムーアの自然主義的誤謬批判 | 永井俊哉ドットコム

参考文献[編集]

  • Richard (1998). The Moral Philosophers: An Introduction to Ethics (2nd ed.). New York: Oxford University Press. ISBN 9780198752165. 
    (=『道徳の哲学者たち-倫理学入門』 塚崎智・樫則章・石崎嘉彦訳、ナカニシヤ出版、2001年、第2版。ISBN 9784888486354)

関連項目[編集]