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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

ハイビームは推奨すべきものか

コメントにもあるが、ハイビームを使うべきなのはアップダウンのある道(山道など)だけだろう。まあ、対向車や前方車がほとんどないようなアメリカの田舎道などで遠方の状況を見るにはいいだろうが、市街地などでハイビームを使ったら他車の迷惑になることは分かり切っている。
これは警察のお達し(推奨)のほうがおかしいのではないか。





ドライバーの6割「夜間走行でもハイビーム利用していない」と回答。そしてネット民の反応がこちら

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自動車 トラブル ハイビーム 煽り運転 ドライバーに関連した画像-01
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約6割が自動車のハイビームを使用せず 他車とのトラブルを防ぐため

自動車 トラブル ハイビーム 煽り運転 ドライバーに関連した画像-02

<記事によると>

障害物や歩行者の早期発見に繋がるということで、警察庁では、夜間走行時のハイビーム使用を推奨している。

しかし、約6割のドライバーがハイビームを使用していないとのアンケート結果が発表され。ネット上で話題になった。

そのアンケート結果によると、夜間走行時はハイビームが推奨されていることを「知っている」と回答したのが80.8%だった。

その中でもハイビームを利用していると回答したのは、41.2%にとどまった。「ハイビームが推奨されているのを知っているが、個人の判断で使っていない」ということになる。

悪質な煽り運転による事故のニュースも多い昨今。ハイビームは様々な誤解を生みがちであり、トラブルの原因になりえる。臨機応変にハイビームとロービームを使い分ける必要がありそうだ。

以下、全文を読む


<この記事への反応>

対向車や後続車のハイビームで目がくらんだりして誰かをはねたりした場合、責任とってくれるんかよ

状況に応じて的確に切り替えればいいだけの話でしょ。

変に煽ってると思われるのも面倒だし、よっぽど人気のない見通しの悪い道じゃない限り、ハイビームは使わないわな。

ハイビーム奨励はあくまで幹線道路の話!

え?ハイビームって煽る為にあるんでしょ?

そもそも、そのハイビームを推奨する警察(パトカー)がロービームだけで走ってるんだけど?

山道でしか使わんやろ……



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医者と「効率主義」

小田嶋隆のブログの或る記事へのコメントだが、よくある思想ではあるが、どこかが間違っている気もする。まあ、女性をカネで買えるのは性欲の対象としてだけだろうし、このフリーター医師氏は女性をそういうものとしてしか評価していないわけで、その精神の貧困さと、(仮に自称しているように彼が医師なら)その社会的地位の高さのアンバランスが私に奇妙な印象を与えたのかもしれない。
もちろん、上級国民というものは世間の先入観とは逆に精神の貧困な者が多いのかもしれないが、医師になるにはかなりな勉強をしてきたはずだし、受験勉強の国語程度でもかなりの読書量はあったはずだ。それに医師というのは人間の幸福に直接関わる健康とか生命を扱う仕事であるからには、何かの真面目な哲学に至っている人間が普通よりは多そうな気がする。昔から文学者には医者出身が多いのはそのためだ。チェーホフ、モーム、森鴎外、北杜夫、それから、小説家ではないが手塚治虫という巨人もいる。
で、下のようなコメントをした人間が医者であるなら、その「効率主義」のために平気で患者を犠牲にしかねないように思うわけである。(たとえば、その患者の死がたまたま病院の利益になるなら患者を殺す、とか)


(以下引用)



他に身の振り方がないから、しぶしぶ結婚しようとしている女性の気分は、わかるのですが、結婚する男性の気分がまったくわからない。
女性は必要な時にだけ金を出して買えばいいのであって、不要なときにまでホールドするのは金の無駄でしょう。ホールドされる女性だっていい迷惑だ。

投稿: フリーター医師 | 2018/02/05 04:19




差別を無くすのに有効な手段はあるか

差別は或る意味本能的なもので、差別反対運動などでは解消できない、といった内容の記事の一部だが、さて、ここに書かれた空港での寸劇ははたして筆者が解釈したようなものなのだろうか。
そもそもパリは黒人に対する差別が非常に少ない街だと私は思っている。(大デュマも黒人の血が入っているのである。アフリカ植民地化の反動でフランスに黒人も大量に入っているのだろう。現代でも黒人男性と白人女性のカップルを私は旅行中たくさん目にした。)中東人への差別はイスラム教という宗教への差別であり、肌の色などによる差別ではないだろう。とすれば、空港カウンターの女性が黒人女性に対し「やや硬い口調で」質問し、その夫が誰であるのか「怒ったように」見まわした、というのは筆者の主観では「黒人差別」だろうが、まさに主観でしかないのではないか。ここには明白な差別行為はまったく無い。要するに、「気のせい」「気の回しすぎ」ではないか。
で、筆者が黒人女性の夫であると分かった後のカウンターの女性の心の中の動きも、すべて推測にすぎない。その彼女の心の中で「白人黒人アジア人」という差別観が消えて「人間だ」という意識に変わった、など、筆者が推測しただけのことをまるでそれが事実であるかのように書いているのであり、この筆者が文化人類学者か何かを名乗っているというのは笑止である。学者なら、推測だけで物事を語ったり判断するのは絶対に避けるべきであり、こうした文章を書くべきではない。
ついでに言うと、筆者が言うような


必要なのは抽象的な理念でも大袈裟なイデオロギーでもなく、人と人とのコミュニケーションの中で「落ちる」瞬間を具体的に体感し、その経験を積み重ねて、自身の心の中に自由な空間を広げてゆくことなのだ。


という、「特権的な経験」と「自己教育(あるいは意識の高さ)」以外に差別を解消する手段は無いと言うのなら、差別解消はそもそも不可能だ、と言い切ったほうがいっそすがすがしいだろう。
私自身の考えを言えば、差別反対運動以外に差別を無くす方法は無い、と思う。筆者自身が黒人女性と結婚したのも、世界の中での長い間の差別反対運動の結果、差別は悪いことだという意識が心の中に育っていたからではないのか。




(以下引用)


「差別」とは何か?アフリカ人と結婚した日本人の私がいま考えること

正論の押し付け合いは無力である
鈴木 裕之 プロフィール

昨年の夏に、妻とコートジボワールに里帰りしたときのこと。

パリで飛行機を乗り継ぐ際、空港内でパスポート・コントロールがあった。あるゲートに20人ほどが列をつくり、すこし大柄な女性職員がパスポートをチェックしている。

妻の番が来ると、職員は「ひとりなの?」とやや硬い口調で質問してきた。パリの空港ではテロの影響もあり、セキュリティ関連の仕事に就く人々はつねに緊張している。

妻が、「いえ、夫と一緒です」と答えると、彼女は列に並ぶ人を見渡しながら怪訝そうな顔をして、少々怒ったように「どこ!?」と聞き返した。

妻がすぐ後ろに並んでいる私を指さすと、彼女は一瞬眼が点になったように私を見つめ、すぐに恥ずかしげに、はにかんだような笑顔を浮かべた。

女性職員は列を眺めたとき、無意識のうちに黒人男性を探したのである。だが黒人はひとりもいなかった。

この女の言っていることが分からない。怪しい、そう思ったことであろう。そして夫がアジア人であると知ったとき、彼女は自分が囚われていた先入観に気づいた。

黒は黒、白は白、黄は黄……こうした指標にしたがってロボットのように機能していた彼女の心の中で、別のレベルの意識が目覚めた。その意識はこうささやいたに違いない。

「人間だ」

そして彼女はバツが悪そうに笑った。その罪のない笑いは私たち夫婦に伝染し、3人は楽しそうに微笑みを交わした。まるで悪い憑き物が落ちたかのように。

〔PHOTO〕iStock

あらゆるレベルでの差別を告発し、社会の仕組みを変えてゆくことは必要であろう。だが、制度よりも「心の動き」が大切であることを忘れてはならない。

差別を生みだす精神構造は私たちみなが持っている。ヒトはその置かれた環境におおきく左右される動物であるから、差別主義者を攻撃するのではなく、差別が生みだされる環境を理解しなければならない。

人の心には、善も悪もある。天使も悪魔も、仏も鬼も棲んでいる。それらをどう飼いならすか。差別という「憑き物」をどう落とすか。

必要なのは抽象的な理念でも大袈裟なイデオロギーでもなく、人と人とのコミュニケーションの中で「落ちる」瞬間を具体的に体感し、その経験を積み重ねて、自身の心の中に自由な空間を広げてゆくことなのだ。

ジャマイカのガンコ爺さんと、パリの女性職員の笑顔を思い出しながら、私はそう確信するのである。







人が恋に落ちる理由

「紙屋研究所」の或る記事の一部で、途中を大幅に省略。
全体としてはいつもの通り素晴らしい評論なのだが、


「剣の舞」では、ハルナが、剣の師匠である文五郎に淡い恋心をいだくのであるが、こういう描写は全然ダメ。あまりにもありきたりすぎるというか、そういう細やかな抒情を描くのにまったく向いていない。なんで文五郎をハルナが好きになるのか、わかんないんだもの。


という発言には私は頭を捻る。そもそも、この作品でハルナが文五郎を好きになる部分を描写する気が作者にはあっただろうか。またこの作品にそのような描写が必要だっただろうか。
後者の問いについては、私は「まったく不要だろう」と思う。なまじそういう描写があれば、別の作品になり、全体のトーンも変わってしまうだろう。要するに岩明均の漫画ではなくなるわけだ。岩明の漫画を愛するファンは岩明のそういうトーンを好きなのである。
たとえば「寄生獣」で主人公を好きになるヤンキーの女子高生が出てくるが、彼女が主人公を好きになる明確な理由があっただろうか。だが、そのヤンキーの恋と死は「正ヒロイン」よりも鮮烈な印象として残るのではないか。

そもそも、人は何か明確な理由があって人を好きになり恋をするのだろうか。

もしそうであるならば、女子高生が冴えない高校教師に恋をする(「めぞん一刻」)ということは不自然な話だろうが、人は顔にだけ恋をするのではないし、頭の良さ、スポーツができる、などは「大衆的人気」は得ても、それは恋の「入口」になることもあるだけの話ではないか。
まあ、そうは言っても私自身、恋をした経験などほとんど無いので、これはフィクションや、傍観者として眺めた現実世界の多くの「恋愛現象」から帰納しての考えにすぎない。

要するに、たとえばゴッホの絵の中に古典派的な端正な描写が混ざればそれは異物にしかならないということである。岩明は(絵そのものがそうだが)本質部分以外を省略することでクールな残酷美や感動を生み出す作家なのである。




岩明均『雪の峠 剣の舞』




雪の峠・剣の舞  2つの短編、というのか、中編をおさめる。

 「雪の峠」は関ヶ原で西軍に着いたために石高を3分の1に減らされたうえ、常陸から出羽(秋田)へ移封された佐竹家の話。「剣の舞」は、戦勝の勢いで民家で略奪を働く武士たちに拉致・輪姦され、家族も皆殺しにされた少女が、男装して武術を修め、復讐する話。

 岩明均は、よい要素が決まっている。換言すると、岩明の作品で「良い」と思える要素は次の3つに限定されている。
  1. 突然の暴力を、人間の肉体が裁断される瞬間で静止させてキャプチャーし、壮絶な緊迫感を生み出す。
  2. 少女のエロス。つか、岩明の少女への欲望。
  3. 小賢しいともみえる知恵者が、世間に評価されない知性を発揮。

     ホントに決まってんだ。ぼく的には。


     (1)(2)(3)という具合に、岩明にとって「いい要素」が決まっているということは、逆にいうと、それ以外がダメだ、ということなのだ。

    (中略)


     「剣の舞」では、ハルナが、剣の師匠である文五郎に淡い恋心をいだくのであるが、こういう描写は全然ダメ。あまりにもありきたりすぎるというか、そういう細やかな抒情を描くのにまったく向いていない。なんで文五郎をハルナが好きになるのか、わかんないんだもの。

     ことほどさように、岩明という作家は得意領域が限られている。
     しかし、その得意領域が狭いことがアダになっているかというと、ちっともそんなことはなく、それを手をかえ品をかえ出されても飽きがこない、不思議な作家なのである。