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それで?
青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳
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前漢の劉氏の起こりは、沛の農民の生まれである劉邦が、秦の始皇帝死後の混乱に乗じて台頭し、勢力拡大、宿敵である項羽を討って漢(前漢)を建てたことに始まる。以来、劉氏は漢の皇室として存続した。しかし、外戚であった王莽が前漢最後の皇帝孺子嬰より禅譲を受けると、皇室としての劉氏は一旦は滅亡した。劉邦については多くの伝承があり、家系については様々な議論があった。司馬貞は「晋の士会の子孫」としているが、これに対して銭大昕は「劉太公(劉邦の父)以前は姓を考えるような身分ではなかった。どうして祖先の姓がわかるだろうか」と述べている。正史とされる史書の中では『漢書』と『新唐書』が劉邦の出自に言及している。
贊曰:《春秋》晉史蔡墨有言:陶唐氏既衰,其後有劉累,學擾龍,事孔甲,范氏其後也。而大夫范宣子亦曰:「祖自虞以上為陶唐氏,在夏為御龍氏,在商為豕韋氏,在周為唐杜氏,晉主夏盟為范氏。」范氏為晉士師,魯文公世奔秦。後歸於晉,其處者為劉氏。劉向云戰國時劉氏自秦獲於魏。秦滅魏,遷大梁,都於豐,故周巿說雍齒曰:「豐,故梁徙也。」是以頌高祖云:「漢帝本系,出自唐帝。降及于周,在秦作劉。涉魏而東,遂為豐公。」豐公,蓋太上皇父。其遷日淺,墳墓在豐鮮焉。及高祖即位,置祠祀官,則有秦、晉、梁、荊之巫,世祠天地,綴之以祀,豈不信哉!由是推之,漢承堯運,德祚已盛,斷蛇著符,旗幟上赤,協於火德,自然之應,得天統矣。(以上、『漢書』高帝紀第一より)
劉氏出自祁姓。帝堯陶唐氏子孫生子有文在手曰:「劉累」,因以為名。能擾龍,事夏為御龍氏,在商為豕韋氏,在周封為杜伯,亦稱唐杜氏。至宣王,滅其國。其子隰叔奔晉為士師,生士蔿。蔿生成伯缺,缺生士會。會適秦,歸晉,有子留於秦,自為劉氏。生明,明生遠,遠生陽,十世孫,戰國時獲於魏,遂為魏大夫。秦滅魏,徙大梁,生清,徙居沛。生仁,號豐公。生煓,字執嘉。生四子:伯、仲、邦、交。邦,漢高祖也。(以上、『新唐書』表第十一より)
前漢に代わって建てられた王莽の新は民心をつかめず崩壊し、前漢の皇室の傍系出身であった劉秀が光武帝として即位し、後漢を建てた。前漢の劉氏の後裔であるが、前漢の皇族を冷遇したとされる。
後漢の滅亡後、魏(曹魏)・呉(孫呉)・蜀(蜀漢)の三国が覇権を争う三国時代となった。このうち蜀漢を建てた劉備は、前漢の景帝の第8子である中山靖王劉勝の庶子、陸成亭侯劉貞の直系の末裔と称した[1][2]。
漢王朝の滅亡後は、南北朝時代の宋(劉宋)の劉裕が劉邦の弟である楚元王劉交の子孫を称したほか、後述の様にいくつかの非漢族の王族が漢姓として劉氏を称している。まず前趙を建てた劉淵を始めとして前漢・後漢時代に漢の皇族と通婚関係を持った匈奴の単于一族(攣鞮氏)の末裔が漢室の正統後継者を自負して劉氏を名乗っている。さらに下って五代十国時代の後漢を建てた沙陀人の劉知遠が劉氏の子孫を名乗り、遼(契丹)の耶律氏も劉氏と称している。前述同じ五代十国時代のアラブ系とされる南漢の劉龑も劉氏と称している。
伝統的には王莽の評価はきわめて低く、王莽については政治面ばかりか人間性まで含めて批判的な評価が下されている。『漢書』を著した班固は「王莽伝」賛で以下の様に評している。
王莽は口が大きく顎が短く、出目で瞳が赤く、大きなガラガラ声を出す。身長は7尺5寸(約173cm)もあるのに、底の厚い靴と高い冠を好み、ゴワゴワした張りのある毛を衣服に入れ、胸を反らして高いところを見、遠くを眺めるような目つきで左右の目を見る。
こうした外見や人当たりに殊更拘りを見せ、儀式の際には髭や髪を黒く染めて若く見せようとした一方、符命や瑞祥によって自らの登用や即位を正当化させようとした際にも自ら渋々受ける振りをするなど奸智に長けていたと言われている。
加えて王莽の治世においては余りにも異常な政策が実行されたことが、『漢書』では事細かに記されている。
この様な失政の数々や人間性の問題もあって、前近代において王莽は姦臣の代表格として看做されることが多い。呉承恩は、『西遊記』で孫悟空が暴れた時期(山に封じられるまで)を王莽の時代と設定したが、これは「暴君・王位簒奪者・偽天子が皇位にある時、天変地異が起こる」という伝承を王莽の簒奪と重ねていると見られる。また日本においても、『藤氏家伝』大織冠伝が蘇我入鹿の政を「安漢の詭譎」と批判して以来、『平家物語』も趙高・安禄山らと並ぶ朝敵として王莽の名を挙げ(巻1)、木曾義仲の横暴ぶりを王莽に例える(巻8)など姦臣の代表格として扱われている。
1920年代から一転して、王莽を改革者として高く評価する学者が現れた。日本では吉田虎雄が王莽の社会政策を評価し、中国では胡適が王莽の六筦政策などを評価して「1900年前の社会主義者」と呼び、王安石と並ぶ中国の改革者とした。ドイツのオットー・フランケも王莽を国家社会主義的政策を行ったと評価した[8]。しかしこれらの評価は現代的な価値観を直接王莽に投影したものであり、一面的である[8]。
西嶋定生は儒教が武帝のときに国教化されたという従来の説に反対し、国家の祭祀儀礼の改革や儒教国教化の完成などの大部分は王莽が大司馬であった平帝時代に完成したとする。王莽の政治には儒教主義がはじめてあらわれ、これは後世の中国王朝国家の性格を規律することになったとして、西嶋は王莽政権の歴史的意義を重視する[9]。
渡邉義浩は、儒教に基づく国制(古典中国)を特徴づける14項目のうち10項目までが王莽によって確定されたものであるとした[10]。また新の建国後、王莽は合理的で完成度の高い古文説によったが、渡邉によると儒教の理想と具体的国政が乖離していたために改革は失敗し、後漢になって理想と現実の調整が行われたとする[11]。
王莽の社会政策の中で後世に影響したものとしては王田制がある。王田制そのものは早々と土地売買の禁止を廃止したために有名無実化したが、後の均田制の源のひとつとして早くから注目された[12]。
漢朝臣下の時代に王莽自ら定めた「皇帝の即位儀礼」は光武帝以降の歴代皇帝に受け継がれ、即位式に際してはこれに基づき諸儀礼が行われた。学・校という儒学の校舎を全国に設置して勉強を奨励させたのも王莽の治下であり、結果的に後漢期には儒学を学ぶ人物が多くなったとも言われる[13]。
また復古政策の一環として前漢中期頃から増え始めた[要出典]二字名を禁止した[14](二名の禁)。王莽滅亡後もなぜか影響は残り、二字名が再び増加するのは南北朝期以降となる[要出典]。