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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

ウルトラ・スーパー・デラックスマン

「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」は、短編としてこの上なく尖った内容の傑作だが、「あまりまともなモラルを持っていない人間(俗物)がスーパーマン的な能力を持ったらどうなるか」というテーマも面白いのだが、その主人公がテレビに出ているアイドル歌手に欲情して、そのアイドルを自分のところに寄こせ、と言い出し、芸能プロや政治家の命令でそれに従うアイドル歌手が主人公の性交の相手を淡々と勤める描写(ベッドシーンそのものは無かったが)に少年時の私は衝撃を受けたものである。当時の私にとってテレビに出るアイドルは天使的な存在だったのだ。これが、芸能界やアイドルの(枕営業という)実態を知った最初の出来事である。




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探し物は何ですか~、見つけにくい物ですか~♪

これは誰にも経験のあることだろうが、心理的には説明が付くと思う。
要するに、「探す」時の集中の度合いの問題ではないか。
一度探したところは、「既に探した場所なのだから、まずあるはずは無いが、念のためにもう一度探してみるか」という安易な心理だから、集中度に欠けるわけだ。
それに、二度目以降は、「前に目にした情景」を見るわけだから、その中から「異物感」のある物を探すのが難しくなる。そもそも、探し物の形状や特徴をちゃんと覚えているかどうかも怪しいものである。





ずっと使ってたスケジュール帳+雑多なメモ帳的ノートがここ1週間まるで神隠しにあったみたいになくなり、探しても探しても見つからず困ってたんですが…たった今机の、それもすぐ目の前の本棚に出現。えーーっ?何回も何回も何回も!ここ探したのに!なかったのに!なにこれ。魔法か!

萌え絵とエロ

  1. 私にとって萌え絵とは、物凄く抽象化された可愛さ、ということで、簡単な見分け方は、複数の女の子が出てくる場合、髪の色や髪型以外に区別がつかない、ということであるwww
  2. ところが、一般人には区別のつかないそれらのキャラクターそれぞれにファンが付くわけだろうから、まあ、慣れれば区別も付くのかもしれない。
  3. 低年齢向けの少女漫画の絵柄から進化してきて、それを男の絵師が描くようになって、「定型的萌え絵」が完成したのではないだろうか。
  4. なお、萌え絵とエロは無関係だと私も思う。弓月氏の言うように、「可愛さ」を追及したのが萌え絵であり、そこでは巨乳というのはむしろ異分子だったのではないか。
  5. 要するに、エロ絵を描く目的で描かれた絵の中に、萌え絵的な顔を付け足したのが大量にネット上にあるために、「萌え絵とはエロである」という誤解も生まれたかと思う。
  6. なお、私自身は萌え絵はだいたい嫌いである。キャラの区別がつかない顔が同じ画面に複数出てくるだけでうんざりする。
  7. なおなお、一部の暴論に見られるパターンを「ゴールから(先に決めて)仮説を立てる」やり方だというのは卓見である。
  8. 弓月 光 @h_yuzuki 3時間前
  1. 自分もキャラとしてならおっきなオッパイの女の子描く事はありますが、本来ちっとも趣味ではありません。形のいいソコソコのが好きですね〜〜(^ ^)
  1. 萌えキャラの変遷って「カワイイ」の追求によって変化してきたモノじゃないかなぁ^_^ その大きな輪の中に性的なアレがあるだけのような。
    1. 初音ミクを筆頭にペッタンコ萌えキャラも多いと思われますが(^ ^)


倹約生活と、「安物買いの銭失い」

生活の知恵であるが、「全体として安いもののグループの中では一番安いものは買わない方がいい」と私は思っている。
安いものの中には、本当に良心的に、質を落とさずに値段を安くしているものも多いが、中には最低限の品質さえ持たない安物もあり、それを買うのが本当の「安物買いの銭失い」になる。
例を挙げれば、「使い捨てカミソリ(ひげ剃り)」や綿棒の類だ。使い捨てカミソリの最低価格のものは、髭を剃るどころか、かきむしるようなものがある。綿棒の安いものは、軸が折れ曲がり、耳掃除などの役に立たないものがある。こういったものは最低の値段ですら買う意味が無いわけだ。歯ブラシなどにもそういうものがある。歯ブラシの寿命は最低でも半年くらいはあるのが通常の製品で、それでも80円から100円程度で買える。しかし、50円くらいの製品だと、2,3週間でブラシ部分が曲がってくるわけだ。30円を惜しんだために、こういう不愉快な目に遭うことになる。

エゴイズムの文明と和の文明

メモだが、近代の西洋文明というのは、一言で言えばエゴイズム(個人主義)の肯定である。
それがなぜ、和の文明である日本よりはるかに高度な文明に達し、江戸末期に日本は危うく滅びかかったのか、という問題を考えてみたい。
その答えは、おそらく、「現状への不満の表明」つまり、現状への批判が許される(あるいは自然に表に出る)社会かどうかということではないかと思う。
和の文明では、不満の表明は不和の元として各自が腹の中に飲み込むことになる。したがって、社会の改善すべき点が表に出ることもなく、ずっと変わらないことになる。つまり、永遠の停滞だ。
これは日本のみならず、「尚古主義」である儒教思想が覆っていたアジア全体の特徴ではないか。
停滞のアジア、である。
政治的に言えば、悪政の根本原因を変えることなく、部分的な糊塗策だけでその場逃れをする政治が永遠に続くことになる。これが官僚主義の本質であることも言うまでもない。

もちろん、西洋文明でも不平不満の表明は軋轢を産み、弾圧され、場合によってはその不平不満の表明者は処刑される。しかし、個人主義が根本にある限り、恵まれない人々の不平不満の表明は抑えることはできなくなり、上と下の「政治的妥協」が行われることになる。それが社会福祉の増進などになるわけである。