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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

輪ゴム銃の作り方

今のような一億貧乏人時代には、貧困家庭のご両親は、子供にこういう遊びを教えるといい。
遊びというのは、自分で作り出すほうがよほど楽しいものである。高価な道具が無いと遊べないと思っているのは、資本主義の「売り手」たちに騙されているのだ。

(以下引用)



輪ゴム銃は、割りばし二膳と、輪ゴム6本(弾丸用含まず)で作れるよ。

銃身用の一本の後ろ5センチを切り取って、引き金に、一本は半分に切って、グリップにするんだ。

引き金の引っ掛かりは、ナイフで削って調整するより、ヤスリを使った方が、上手くいくよ。

(´∀`)ノ




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女性と性的羞恥心

女性には本来、性的羞恥心は無い、という私の説を実証する事件のひとつである。
前にも書いたが、女性の陰部(性器)はただの亀裂であり、他との比較での見かけの優劣は無い。とすれば、子どもだろうが大人だろうが、性器を露出しても恥ずかしいとは本当は思っていなくて当然だろう。他との大小の比較が可能な乳房のほうの露出をむしろ恥ずかしく思うのではないか。しかし、それも「授乳器官」であって、性的器官ではない。男が胸を出して恥ずかしくないなら女性でも恥ずかしくはないだろう。性的だから恥ずかしいのではなく「優劣比較の対象となる」から見せたくないのである。また胸が大きいからと言って裸の胸を公開すると、男より怖い、他の女からの悪口がある。

だが、昔は女性というのは羞恥心の塊だと思われていた。それは男性社会が作った文化だったのであり、前に載せた、試合中に暑くて(だったか汗を拭くためか)上着を脱いで胸を見せた女子テニス選手などが、女性本来の「こうありたい」姿だろう。何せ、羞恥心を装う以上は、窮屈な状態を忍ばねばならないからである。たとえば、短いスカートをはいて足を長く見せたいが、パンツがモロ見えだと男や他の女に悪口を言われるから、階段を上る時に後ろを手で隠すなど、面倒くさいことをしなければならないわけだ。

 米ツイッター社の動画配信サービス「ペリスコープ」で、裸の映像を公開するよう女子中学生をそそのかしたなどとして、埼玉県警は17日、兵庫県西宮市の無職の男(43)を公然わいせつ教唆と児童買春・児童ポルノ禁止法違反(製造)の両容疑で逮捕した。捜査関係者への取材で分かった。

 ペリスコープは、利用者がスマートフォンなどで撮影した映像を生中継で配信するサービスで、ツイッターに登録したうえでアプリをダウンロードする。視聴者側が配信中の画面にコメントを送ることもできる。

 捜査関係者によると、男は昨年5月14日、ペリスコープで自身の映像を配信していた神奈川県内の女子中学生にコメントを投稿し、裸の映像などを配信するよう仕向けたほか、映像をパソコンで録画、保存した疑い。

 女子中学生は、埼玉県警の事情聴取に対し、「みんなやっているので『いいや』と思った。コメントで(あおられて)やってしまった」と話しているという。




男という生き物

これを高尚な言い方をすると、ゲーテ(「ファウスト」)の「永遠に女性なるもの我らを牽きて往かしむ」であるwww
なお、ゲーテは80歳くらいになっても十代の少女に恋したとかいう。




277: 2018/12/29(土) 20:37:17.96

まんさん「おっぱいチラッ」
ちんさん「!!!!! うおおおおおおおおお!!!!!!」  



プレイボーイのイメージと現実

私自身にはほとんど無縁の話題だが、「倫理学概論」の参考として「女から見てヤリたくなる男」というスレッドを見たら、あまり納得できる内容ではなかったのだが、下のコメントはやや納得である。ただし、「女がヤリたくなる」ではなく、「女がヤリ易い状況を作れる男」である。基本的に女はいつでも男とヤル気はあるが、そういう状況にスマートに持っていける男が少ないから少数の男が多数の女を獲得しているわけだ。
なお、「ケチではない」ということや、「肩や手や腕などへのさりげないボディタッチ」なども「女とヤレル男」の大きな要素ではないかと思う。絶対的条件ではないが、一般的には「暗い雰囲気でない」というのも大事だろう。
プレイボーイというのは美男子かどうかとはまったく関係なく、そういう「経験から集積した無意識の技術」を持った人間ではないかな、と、女にまったく無縁の人生を送った私(若いころはかなりな美男子だったが、極度の人見知りだった。)からアドバイスしておくwww なお、話術の達人かどうかも関係はない。パーティの花形と、パーティの後で女とベッドに行く男は別物である。


(以下引用)

全部関係ない
・嫌われてない
・とにかく褒める
・話を聞く
・適度に下ネタを言える

たったこれだけ




「古事記」の国譲りとは、縄文人から渡来人への国譲りだった?

「神戸だいすき」記事の一部だが、なかなか示唆的で興味深い。
大昔の渡来人と縄文人が「譲り合い」をすることで共存した、というのは事実に近いのではないか。もちろん、その結果、縄文人は「下級国民」になり、渡来人は「上級国民」になったわけだが、それでも縄文人は絶滅することはなく、奴隷的な待遇ばかりでもなかっただろう。概して百姓(農奴)階級が縄文人の置かれた地位だろうが、そこから上に昇る者もおり、血の混交が2000年くらい続いたと思う。
これが白人種が相手だったらどうなったかと言えば、旧約聖書にあるように「根絶やし」にされただろう。近世でもオーストラリアのアボリジニとかアメリカ大陸のインディアンなどはそれに近い状況になったわけであり、白人種の他民族への対応はそういうものである。
渡来人と縄文人が譲り合いをしたというか、縄文人が「譲った」のは、古事記の「国譲り神話」に書かれたとおりだと思う。大国主の命がおそらく縄文人の酋長だったのだろう。それが大和朝廷(渡来人朝廷)に国譲りをした、というのは、日本各地で行われた縄文人と渡来人の「手打ち式」をひとつの話にまとめたのではないか。


(以下引用)



次は、日本列島が世界のアクアリウムであることを、話したいです。

日本列島は小宇宙なんですね。
隔離された蓬莱島
一定量のパイしかない。
その袋小路にたどり着いた人々は、征服によっては、全滅する・・・譲り合わせなければ、生き残れない状況をいかに克服するかにかけたのです。

そしてね、その最初の衝突は、縄文人と渡来人の衝突でした。
そこから、日本は「奪い合い」では、全滅する「譲り合い」で、いくらかでも生き延びさせよう・・・という世界観を構築します。


実は、この状況が、今世界中でおこっているのです。
いくら世界が広くても、人類はこの限られた地球号のパイを分け合うしかない。ようやく地球の狭さを実感する所まで来たのです。

縄文人と渡来人が衝突した。。。2000年前の日本列島に、ようやく世界が追いついてきたのですよ。

だから「日本が世界を救う」のです。