忍者ブログ

独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

文房具と耐久性

紙も洋紙よりは和紙、西洋インクよりは墨のほうが歳月に耐えると聞いたことがある。



さんがリツイート

ここ数日社務所奥の間で色々な資料を片付けていて思うのは書類を纏めるなら紐で綴るのがベストなんだなということ

ホッチキスやクリップでとめたものは二十年も経ってなくても錆びてしまいボロボロに

輪ゴムでとめたものは溶けて貼り付いてしまい大惨事

紐で綴ったものは二百年近く経ってても大丈夫

PR

労働という「不自由」は自由への道か

下のツィート内容とは無関係の話を書く。もちろん、その発言には大いに賛同する。
写真はコピーできなかったが、強制収容所の入り口上方に掲げられたモットーが「Arbeit macht flei」(綴りは不確かだが……)とかいうもので、うろ覚えで訳すと「労働は自由を作る(労働は自由への道)」といったような意味かと思うが、強制労働に従順な収容者を作るためのものだろう。
このモットーなど、今のブラック企業が採用してもおかしくない。というのは、この強制収容所から「自由になった」人はほとんどいなかっただろうからだ。まあ、死ぬことが生の苦役からの一種の解放であり、自由だという解釈は可能である。




  1. さんがリツイート

    この一言は重いです。ある意味、私たちが紙の本という重いし場所とるしコストはかかるし床はへこむ、いまの時代には実に鈍重に見える物体を作り続ける理由でもあります。誰かの発見したこと、思ったこと、体験したこと、感じたこと...その誰かの生を「なかったこと」にしないために書物はあります。

  2. さんがリツイート

    前リンクでも言及されていた、後の大統領・米軍のアイゼンハワー司令官がナチスの収容所の実態を知って残した有名な一言。
    「全て記録に残せ、画像を残し、証人を得るんだ。なぜならいつか歴史のどこかで、どこかのバカ者が立ち上がって『これは起こらなかった』と言うから」










医療をどこまで信じるか

私は小田嶋隆氏を「師」と呼ぶほど尊敬しているが、ここで「バカ過ぎる」と言われている年寄りはまさに医療に関する私の姿勢そのもので、医療の有益さはもちろん認めるが妄信してはいけないと思っている。
不正医療や医療過誤によって健康や生命まで失った例は無数にあるだろう。また血圧基準など、明らかに製薬会社と医療界の癒着によって決まったものだと私は信じている。
基本的に医者(医学界)というのもカネ儲けが第一の目的であるというのはあらゆる商売と変わることはない。患者側に知識が無く、言われた通りにいくらでもカネを出すだけ騙しやすい商売である。




・自分の体は自分が一番わかっている。
・医者は検査漬け薬漬けで儲けたいだけ
・必要な薬は自分で見極める
・ダメな医者は経験で判別できる
・自分の正しさは、長生きをしていることからも明らかだ

 ……てな話を知り合いの年寄りから聞かされるのはキツい。バカ過ぎて返事に窮する。







遺体処理という難問

胎児の人工中絶手術を行った場合、遺体(胎児)の処分責任は医者にあるのだろうか。それとも母親(男はそういう場にはまず、いない。)にあるのだろうか。手術後に、胎児の母親に、「はい、これどうぞ。自分で処理してね」と渡したらどうなるのか。
私は、遺体というのはゴミと同じ(いや、それより困る存在)だと思っているのだが、何か遺体処理の優れた方法は発明されないだろうか。広い海の上で死んだのなら海に投げ込んで魚の餌にするのが一番だと思うのだが、陸ではどういう方法があるのか。やはり地中に埋めるのが一番か。
愛する人の死に遭遇して、その遺体を哀惜する気持ちは分かるが、遺体は腐敗していく。どうしても、ある時点で遺体を処理する必要性が出てくるのである。火葬が一般的手段だが、エネルギーの無駄遣いでもある。
まあ、土葬にして、その上に植樹をすれば、その木が、亡くなった人の形見になり、記念になるのではないかとも思うが、墓そのものも「土地の無駄遣い」ではある。
もちろん、私は魂の不滅など信じていない。死ねば完全にこの世から消滅するだけだろう。この狭い世界に有史以来の、いや人類誕生以来のとてつもない数の魂がさまよっているなど信じられるはずがない。まして、「最後の審判」の時に、その魂がすべて蘇るなど、キチガイ思想である。

(追記)最初の引用記事が妙な形になったので、関連する記事を先に追記しておく。私が遺体処理の問題を考えたのも、ペットの遺体処理に困った経験があったからである。



さんがリツイート

民間施設でやるしかないのかな。
田舎じゃ庭先に埋めてたけど、都会では骨壺に入れて、自分と一緒に埋葬する日まで取っておく飼い主も多い。散骨も、今では不法投棄になるし、時代の変化についていくのも大変。


© FNN.jpプライムオンライン

アメリカ・イリノイ州で、かつて人工妊娠中絶を行っていた医師の自宅から、2,200人以上の胎児の遺体が見つかった。

イリノイ州ウィル郡で、9月3日に亡くなったウルリッヒ・クロップファー医師の家族から、「胎児の遺体がある」と通報があった。

地元警察が調べたところ、医師の自宅から、保存処理された2,246人の胎児の遺体が見つかった。

近所の人は、「2,000人もの赤ちゃんの遺体の近くに住んでいたなんて不気味だ。とても悲しい」と話した。

クロップファー医師は、インディアナ州で数十年にわたり人工妊娠中絶を行っていたが、処置の方法や書類の不備などにより、4年ほど前に免許を取り消されていた。










表の聖人と裏の下種

廣川隆一についてのウィキペディアの記述だが、公的活動のほとんどが人道主義的であることに対し、昨年大きな問題となった私的生活におけるセクハラパワハラぶりの二重性が興味深い。彼の中ではその矛盾の葛藤はあったのか、それとも「それはそれ、これはこれ」で済んだのか。
つまり、人類とか国家とか民族とかいった「抽象的存在」に関してはどこまでも人道主義的な理想を公私ともに堂々と主張しながら、個々の人間に対する姿勢はそれとは別のものとして考えることが可能だったのだろうか。そこに何の疑問もなく、恥じることもなかったのか。
ただし、これは例のセクハラパワハラ事件が完全に事実である、という仮定によって生じた疑問である。あの事件がでっち上げとまでは言わなくても、過大な報道のされ方であった可能性はある。





出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動検索に移動
広河 隆一
生誕 (1943-09-05) 1943年9月5日(76歳)
中華民国の旗 中華民国天津市
国籍 日本の旗 日本
別名 廣河隆一
教育 早稲田大学教育学部
職業 フォトジャーナリスト戦場カメラマン政治活動家
活動期間 1967 to present
配偶者 ルティ・ジョスコビッツ

広河 隆一(ひろかわ りゅういち、1943年9月5日 - )は、日本のフォトジャーナリスト戦場カメラマン市民活動家。フォトジャーナリズム月刊誌DAYS JAPANの元編集長、同誌発行の株式会社デイズジャパンの前代表取締役および前取締役。有限会社広河隆一事務所代表[1]。日本中東学会、日本写真家協会、日本写真協会、日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)、各会員[2]。パレスチナの子供の里親運動顧問[3]、チェルノブイリ子ども基金・元代表[2][4]。認定NPO法人沖縄・球美の里元名誉理事長[5]

経歴[編集]

中華民国天津市で出生、2歳の時に引き揚げ[6]、小学校入学以前から大阪府羽曳野市恵我之荘に居住した[7]東京都世田谷区在住[8]

1956年旧:高鷲町立小学校(現:羽曳野市立高鷲小学校)卒業、1959年羽曳野市立高鷲中学校卒業、1962年大阪府立生野高等学校卒業[7]、1963年早稲田大学教育学部に入学し[9][10]、1967年早稲田大学教育学部卒業。 なお、広河は大学在学中に和敬塾の南寮と称する男子寮に入寮し[11]、入学当初は早大山の会で活動を行っていたが二年生の時に「カメラルポルタージュ研究会」と称するドキュメンタリークラブを立ち上げた[12]。 また、広河はブント系の学生運動を行っていたと主張する者もいる[13]が、ノンセクト・ラディカルとして学生運動を行っていたと主張する者もいる。 やがて広河は、映画会社から就職の内定を受けていたにもかかわらず内定を辞退し、卒業後の1967年にイスラエルに渡航、農業ボランティアのかたわらヘブライ語の学習に精をだす[12]

広河は渡航当初、コミューン的な生産、生活形態をすすめる共産主義的なキブツに対し憧れを抱いていた。広河がイスラエルへ渡航してから2週間後、1967年6月に第三次中東戦争が勃発、イスラエルがその戦争に大勝利を収める。広河が滞在していたキブツ・ダリヤにおいて「ダーリヤト・アッ=ラウハー(دالية الرَّوْحا)」又は「ダーリヤト・アッ=ラウハーア(دالية الرَّوْحاء)」というパレスチナ人の村落の廃墟を発見したことなどにより、イスラエルによるパレスチナ人に対する過酷な人権侵害を知るようになり、親パレスチナ的な態度をとるようになった[14]。イスラエルにおいては「マツペン」という反シオニスト的な政治団体で活動を行っていた。エルサレムで反シオニズム写真展を開催した後、1970年、帰国。以後、中東諸国を中心に取材活動を行う。

1982年、レバノンの西ベイルートにおけるファランジストというマロン派キリスト教徒主体のレバノン右派民兵によるパレスチナ難民虐殺サブラー・シャーティーラーの虐殺を含めた第一次レバノン戦争に関する取材を行い、よみうり写真大賞を受賞[15]。翌83年、同写真でIOJ国際報道写真展大賞・金賞受賞[6]

日本帰国後に戦場カメラマンとしてイスラエル原発に対して批判的なスタンスをとりはじめる。一時は立教大学において非常勤講師を務めた[要出典]講談社の「DAYS JAPAN」に、イスラエルのビジネスマン、アイゼンベルに関する記事や、ダイヤモンドシンジケートの取材、チェルノブイリの現状、731部隊などに関する記事を掲載。また日本テレビNHKなどでチェルノブイリや中東に関する報道番組を多数制作発表する。

また報道に徹するだけでなく各地で救援活動を行っている。「チェルノブイリ子ども基金」代表(設立時)、パレスチナの子どもの里親運動顧問(設立時は代表を務めた)、日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)世話人代表等を歴任。全国各地で講演を行っている。

2002年7月、日本ビジュアルジャーナリスト協会(JVJA)設立、世話人代表(~2004年9月)、のち退会[16]

2003年12月、廃刊になっていたDAYS JAPANを再創刊すべく株式会社デイズジャパンを設立。代表取締役社長を務める。

2004年3月、フォトジャーナリズム月刊誌「DAYS JAPAN」を再創刊する。編集長を務める(2004年4月号から2014年9月号まで)。

2007年7月、第21回参議院議員通常選挙東京都選挙区から立候補した川田龍平を応援した[17][18]

2008年、パレスチナ難民発生から60年の歴史を記録した劇場映画「パレスチナ1948NAKBA」(日・英・仏・アラビア語版)、DVDボックス(30巻、日英版)を「1コマサポーターズ」の支援で制作。

2011年、『戦場カメラマンという仕事』という書籍に寄稿している[19]

イスラエル、シオニストを批判する立場で、パレスチナ問題を取材し続けている。チェルノブイリ事故以来は25年以上に渡って取材し、原発に反対する活動を行っている。福島第一原発事故の後は、主に日本の原発放射能に関する諸問題を取材するかたわら、福島の子どもが放射能に汚染にされているとして救援活動を行って、福島の子ども保養プロジェクト「NPO法人 沖縄・球美の里」名誉理事長になった[20]。2012年7月5日、かつて代表を務めた「チェルノブイリ子ども基金」から、福島県の子どもたちを福島第一原子力発電所事故の影響の少ない沖縄県久米島において保養させるプロジェクト「NPO法人沖縄・球美の里」を発足させた[21]

2014年8月、DAYS JAPAN2014年9月号をもって編集長を丸井春に交代した。

2015年12月、広河の戦場カメラマンや政治活動家としてのこれまでの足跡や生き方などを描いた「広河隆一 人間の戦場」と称するドキュメンタリー映画がリリースされ、広河はこの映画に出演した[22]

2018年12月、週刊文春は、広河が複数の女性に性行為などを強要した疑いがあると報じた[23]。広河は「写真を教えてあげる」などの名目で女性をホテルに呼び出して行為に及んでおり、女性達は広河が報道関係者との人脈が広く、また同編集部内でささいなことで激昂し、理不尽にスタッフを怒鳴ったり罵倒したりするなど気性の激しさを見せたことから、「(広河さんの)機嫌を損ねたら報道の業界で生きていけない」という心理状態に立たされ、抵抗することが出来なかったとした[24]。広河は文春の取材に対し、女性側の主張を否定した[23]が、掲載号の発売後、女性達に謝罪し、協議の末株式会社デイズジャパンの代表取締役および取締役、認定NPO法人沖縄・球美の里の名誉理事長を解任されたと述べた[25]

関連人物[編集]

  • 土井敏邦 - 中東ジャーナリスト。土井は広島大学においてパレスチナ問題に関する卒業論文を執筆し[26]、大学卒業後に広河が編集長であったPLO駐日代表部による中東関連に関する「フィラスティン・びらーでぃ」[27]という月刊誌の記者として参加した。土井を中東ジャーナリストとして成長させるきっかけをもたらした[28]
  • 志葉玲 - 志葉は帝京大学在学中からイスラエル原発に批判的な広河を尊敬し、帝京大学卒業後かつて広河が行ったようにイスラエルキブツに滞在し、キブツにおいて英会話を学習し、その後フリーのジャーナリストとして活動を行っている。広河と共に志葉は山本太郎増山麗奈小出裕章オリバー・ストーンと日本で反原発活動を行っている[29]。しかし、上記のスキャンダルでは広河について「関係者の話を聞く限り文春の報道は事実」「(広河氏には)関係者への謝罪等、相応の責任をとっていただきたい」としている[30]