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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

六輝のそれぞれの読み方

最近では暦にこれを載せることも少なくなったが、結婚式や葬式などではいまだに気にされているかもしれないのが「六輝」である。いや、これを「六輝」と言うのだというのも今知ったばかりで、まさに常識でない常識の代表かもしれない。
もちろん迷信の最たるものだが、言葉の意味内容を知らないと気持ちが悪いという、私のようなタイプの人間向けに書いておく。

先勝(せんかち)(せんしょう)
友引(ともびき)
先負(せんまけ)(せんぷ)
仏滅(ぶつめつ)
大安(だいあん)(たいあん)
赤口(しゃっく)(しゃっこう)

内容など、どうせ迷信だから知らなくていいが、問題は読み方である。「大安」など、「たいあん」でも「だいあん」でもいいようなのだが、どちらかだけが正しいと思い込んでいる相手と口論になる可能性もある。「赤口」など、私は「あかぐち」とつい読んでしまう。
なお「友引」など、「友を(あの世に)引っ張る」から葬式には凶だが、正午以外は午前も午後も吉で、悪い日ではない。賭け事だと引き分けにしかならないらしい。まあ、迷信だが、面白いとも言える。「赤口」はその反対に正午だけ吉で午前も午後も凶という悪日だと言う。
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多くの男性が女性を求めなくなった理由

「紙屋研究所」記事で、セックスに関する女性心理を非常に的確に解説している(と言うより、そういう漫画を見事に解説している)のだが、これを読んで多くの男は「面倒クセー」としか思わないのではないか。そもそも女性がセックスしたい時にたまたま傍にいるというチャンスをつかむには、四六時中女性の傍にいるしかないわけで、そういうのはヒモ的な男かジゴロ(同じだが)的な男しかいないだろう。男など、女性(年齢や美醜によるが)が足を広げてパンツを見せればイチコロなのだから単純なものだ。

ある女性編集者と話していた時、彼女が「簡単なことです。自分が望む人に対して、望む瞬間にだけ、性的で見られたい。それ以外の人から・それ以外のタイミングはイヤ。そういうことです」と言っていた

定義として簡単と言えば簡単だが、男からすればとてつもない難問である。男は、或る女性が好きなら、その相手を常に性的な目でしか見られないだろう。しかも、「自分がその女性の『望む人』である」という確信などほとんど持てないだろう。


(以下引用)

いつまちゃん『来世ではちゃんとします』

 小さな映像プロダクションで働く、性をこじらせた4人の物語である。それぞれは職場では恋愛関係にならずに、それぞれのプライベートでの性関係が4コマで描かれる。

 最近愛蔵版が出たので、今さらながら読んだ。

 

 

 Amazonの高評価カスタマーズレビューは「絵が下手」というタイプのものなのだが、むしろこの手描き感満載のラフな調子がホンネの空気を醸し出す。往年のこいずみまりを見るようだ。「上手く」描き込んだら逆に台無しである。

 

 

名言多し

 いろいろと名言が多い。

 「相談に乗るってことは問題解決能力のある俺プレゼンじゃ無いんだから」。まずは共感しようよ、と説く、対女性スキルの高いと描かれている松田健が、つい正論を吐いてドン引きされる林勝を諭す。つい最近、こういうこと、俺が言われた。

 風俗嬢の3つのマニュアル。

  1. とにかく容姿を褒める。
  2. とにかく相性の良さを主張。
  3. とにかく「こんなの初めて」を強調。

 風俗に行ったことはないが、そういうマニュアルだと思っても、ぼくならすぐ乗せられると思った。

 とにかくセックスをしてしまう大森桃江が、後ろから男性に声をかけられ、「ナンパかー 疲れてんだ 勘弁してよ」と思って振り向いたら、「身長」「清潔感」「自転車(家が近い)」ですぐセックスを決意し、セックスに誘う。これは単に「お話(虚構)」のはずであるが、こんな単純な要素でナンパが成功するんだぁ…と心にメモしてしまう。特に「清潔感」。

 松田健のヒモ才能。

  1. まず仲良くなる。
  2. 相手にだけ心を開いているように見せかける。
  3. そして生命力のないところを見せつける。「ごめん。俺の家、何もないけど」。

 これも心にメモしてしまう。「相手にだけ心を開いているように見せかける」っていのは、自分が逆にやられそうな気がする。

 桃江「『好きだよ!』とか『君だけだよ!』とか好意がある振りをしないとヤれない男もダサいよな」。現実的にはないけど、もし自分が誰かを口説くとしたら、そういう「ダサさ」で口説くような気がする。

 

 林が桃江に「派手な爪」「モテないぞ」などと説教する。桃江「モテないのは林くんじゃない」と痛打を浴びせた後、「ネイルはね〜 みんな男ウケを狙ってるわけじゃないのよ 自分の爪が華やかなの見ると少し元気になるんだよ」。

 全部女性の意図を「男ウケ」的なもので解釈しようとする脳への批判。いや、どちらかといえば、ぼくなどもついこの林的感覚で解釈しがちである。「女性は性的な存在」という見方がぼくのなかにこびりついているのだろう。

 

 松田みたいな「ヤリチン」がもてて、自分のような優しい男がなぜモテないのかと不満を述べる林勝に松田が一撃。「本当はヤリたくてたまらないくせにカッコつけて性欲隠してる見え透いたドスケベ紳士感が引かれるんじゃない?」。これを読んだぼくとしては「それは俺のことじゃねえのか?」と心が痛い。

 

女の性欲について

 桃江「(私は)性的な目で見られたら男女関係なく興奮することがわかった」。「性的な目で見られる」風潮が性暴力を蔓延らせる…という議論をぼくは最近よく耳にしていたわけであるが、むろん性的な目で見て欲しいという欲望もあるのだと改めて思う。

 

  • (中略)

 女性が性的な存在である、ということは、女性の一側面として紛れもない事実である(男性でもそうだけど)。性的な存在であることを否定してもよいわけではないだろうし、性的な対象であり性的な目で見られることを望む瞬間・望む人もいるはずだと思う。その距離感やタイミングがわからないのである。

 ある女性編集者と話していた時、彼女が「簡単なことです。自分が望む人に対して、望む瞬間にだけ、性的で見られたい。それ以外の人から・それ以外のタイミングはイヤ。そういうことです」と言っていた。

 そうか。そうだよな。

(後略)

 

思索と「外物の刺激」

これは、翻訳に限らず、他人の書いたものに示唆を得て執筆(は大げさだが)意欲を掻き立てられることはよくある。(森鴎外は漱石の『三四郎』に「技痒」を感じて『青年』を書いた。)翻訳の場合は、だいたいの人は書かれた物を誠実に訳そうとするから、思索がより真剣になるだろう。頭脳のストレッチングになることは確かである。その一方、学校での学習がむしろ頭脳の固定化や洗脳にしかならないのは不思議だが、それは刺激に対する自発性と受動性の違いの結果だろう。


(以下引用)

小田嶋隆
@tako_ashi
翻訳という作業は、自分のアタマからは自然に出てこないタイプのボキャブラリーについて、考える機会を与えてくれる。そういう意味で、結果の享受者にとって文化的雪かきである以上に、作業の当事者にとって文芸的なストレッチングとしての意味を持っていると思う。



男は「美人」にしか勃起しない

古代史のと言うか、記紀の天皇は、どこかに行って「美人がいる」と聞けばすぐに呼んでセックスするという色キチガイだが、これはできるだけ多くの女に手をつけて跡継ぎをたくさん作っておくという血統主義の必然的帰結だろう。ということは、現代の天皇制は第二夫人第三夫人を法的に認めないと存続できないのではないか。
まあ、子孫を残すだけなら何も相手を美人に限定する必要は無いのだが、古代でも美人を男が求めることに変わりはないようだ。これは、要するに男は思春期のガキ以外は「美人でないと勃起しない」という単純な話だろう。ただし、その美人の基準は時代によって変わる。案外、古代にはオタフク顔が美人だったのではないか。現代のアイドルタレントなど、「栄養不良のブス」扱いされたかもしれないwww
なお、下の記事は、「膣閉塞」の記述があるという珍しい例である。

(以下引用)



景行天皇(四)弟媛は鯉の遊戯に誘われて

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原文

四年春二月甲寅朔甲子、天皇幸美濃。左右奏言之「茲国有佳人曰弟媛、容姿端正、八坂入彦皇子之女也。」天皇、欲得爲妃、幸弟媛之家。弟媛、聞乘輿車駕、則隱竹林。於是天皇、權令弟媛至而居于泳宮之(泳宮、此云區玖利能彌揶)、鯉魚浮池、朝夕臨視而戲遊。時弟媛、欲見其鯉魚遊而密來臨池、天皇則留而通之。爰弟媛以爲、夫婦之道古今達則也、然於吾而不便、則請天皇曰「妾、性不欲交接之道、今不勝皇命之威、暫納帷幕之中、然意所不快、亦形姿穢陋、久之不堪陪於掖庭。唯有妾姉、名曰八坂入媛、容姿麗美、志亦貞潔。宜納後宮。」
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現代語訳

即位4年春2月11日。
天皇は美濃に行きました。
左右(モトコ=側近)が言いました。
「この国に佳人(カオヨキオミナ=美人)が居ます。弟媛(オトヒメ)といいます。容姿(カオ)は端正(キラギラ)しいです。八坂入彦皇子(ヤサカノイリビコノミコ=崇神天皇の息子)の娘です」
天皇は(弟媛を)得て妃にしたいと思って、弟媛の家へと行きました。
弟媛は乘輿車駕(スメラミコトミユキ=天皇の移動のこと)したと聞いて、すぐに竹林に隠れました。天皇は弟媛が出てくるようにと、泳宮(ククリノミヤ)に滞在することにしました。
泳宮は區玖利能彌揶(ククリノミヤ)と読みます。

鯉魚(コイ)を池に浮(ハナ)って、朝夕に臨視(ミソナオ=見る)して遊びました。そのときに弟媛は鯉の遊びを見たいと思って、密かに来て、池を見ました。天皇はすぐに弟媛を引き止めて交わりました。
弟媛は思いました。
…夫婦の道は古も今も交わるもの。しかし、わたしにはそれ(=交わり)が出来ない…
そこで弟媛は天皇に言いました。
「わたしは性交接(ヒトトナリトツギ)の道を望んでいません。しかし天皇の意向に勝てず、しばらく帷幕の中(オオトノノウチ=天皇の寝床)に入りましたが、しかし心の快(ヨロコ)びのないことでした。わたしは形姿穢陋(カオカタナシ=不細工)です。長く掖庭(ウチツミヤ=天皇の後宮があるところ)に仕えるのは耐えられません。ただ、わたしには姉がいます。名を八坂入媛(ヤサカイリビメ)といいます。容姿麗美(カオヨシ=美人)です。志(ココロザシ=性格)は貞潔(イサギヨシ=やさしい)です。後宮に入れてください」
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解説

弟媛は崇神天皇の子の八坂入彦皇子の娘。景行天皇崇神天皇の孫ということは、どちらも崇神天皇の孫です。孫同士が結ばれるというわけです。

鯉で遊んでおびき出して、結ばれるのですが弟媛に「いやちょっと生理的に無理!」と拒絶され、姉を勧められます。それで姉を娶って子供をドッサリと生むのは次のページです。







神とは何か

日本文化の碩学であった折口信夫ですら、日本の「神」を一神教的な神と同一視していたように思う。日本の神は簡単に争うし、勝ちも負けもする。要するに、「ちょっと変な能力や権力を持っただけの存在」でしかないと私は思っている。
もともと日本書紀では大和朝廷の氏族の先祖を「神」と言っていただけの話(これは言い過ぎだが、細かく論じるのも面倒なのでそのままにしておく。敵部族にも神はいるし、自然物も神である。まあ、「霊威」があると思われた存在が神とされたと言うべきか。)で、その言動は人間そのままであり、弱点だらけであり、人格的にも愚劣なところが多い。そこはギリシャ神話の神々と同じである。
ひと言で言えば、「神とは上(かみ)であり、状況によって仮に上座に置かれた存在である」と思えばいいのではないか。別の言い方をすれば、「他部族に対して、ア・プリオリな優位性を主張するための装置」が日本における神である。
なお、一神教の創造神など、御伽噺の最たるものだが、旧約聖書の神が「人間の道徳を無視した神」であるところは少し凄いと思う。つまり、「(人間の理解を超えた)恐怖の対象」である。だが、そうなると神と悪魔との区別など存在しないwww 

猫の泉
@nekonoizumi
法蔵館文庫5月。「敗戦という未曾有の出来事を「神やぶれたまふ」と表現した折口信夫。やがて〈神〉から〈人間〉となった天皇や、「神道指令」後の日本神道に、彼はいかなる可能性を見出そうとしたのか。…」
⇒中村生雄/三浦佑之解説
『折口信夫の戦後天皇論』